2022年、「通常モード」で参ります

新年あけましておめでとうございます。
とか、新春らしい挨拶をしておきながら本日はもう1月5日。
「光陰矢の如し」とは言いますが、ここ数年特に一年の過ぎ去る時間の早さを感じます。きっと歳をとったのでしょう。
いや、30そこらで「歳をとった」などと抜かしては、諸先輩方にお叱りを受けてしまう。

ここ数年、具体的に言ってしまえばここ2年ほど。
個人的には、少し怠けていたと思っている。
「何を?」と聞かれると、なんとも答えに窮してしまうけど。
それはきっと「表現すること」だったり、「主張すること」だったりするのかもしれない。

その時期に関わる社会的な事件といえば、何と言っても新型コロナウィルスの蔓延だろう。僕が関わる演劇・映像業界だけでなく、本当にいろんな業界が影響を受けた。
もちろんよく目を凝らしてみれば
「コロナのおかげで儲かってウハウハじゃあ!」
という人もいるのかもしれないが、ほとんどの業界はそうはいかなかっただろう。
しかもこの2022年年始、オミクロン株の流行も観測され依然として油断は許されない。

だが、人間というのは「慣れる」生き物だ。
そして「慣れる」とは、「新しい」が「通常モード」に変化することである。

新型コロナの影響は未だ、ある。
しかし世界は、社会はそれを「通常モード」として進んでいっている。
いろんなことが変化した。外出にマスクは欠かせなくなったし、なんとなく密集する場は避けたくなった。具体的に何か新しい法律が制定された訳でもない。厳しい統制が敷かれている訳でもない。
「なんとなくの窮屈な空気感」が日常に溶け込んでいった2年間だったのだと思う。

そして僕という人間の中でその「なんとなくの窮屈な空気感」を「通常モード」として受け入れるのに、必要な2年間だったのだと思う。
だからやっと僕の中で、よっこいせとせずに表現ができるようになってきた。そのなだらかな変化をこの半年くらい感じている。

この半年の大きな変化といえば、「書く」ということを始めたことである。
本読みの僕は以前から「書くこと」での表現は興味のある分野だったが、大学生時代の大きな挫折と「俺は役者だい。書くのは役者の仕事じゃねぇえやい」という謎の意地が門番のようにパソコンの前に鎮座していたため、それこそ「なんとなく」書くことを諦めていた。

だけどこの半年ほど、書くことを始めてみて、思う。
今、このタイミングだったんだ、きっと。
書くことは、心の整理とデトックス。さらにはパンツを脱いで舞台上に一人立っているような、独特の心細さが同居している、変な行為だ。
この半年、参加している天狼院ライティングゼミなるものを通して、そのなんとも変態的な「書く」ことの世界へ足をツッコミ、その快感を味わいつつある。

味わいつつある、なんていう曖昧な表現にしたのは、まだまだ文章を生み出すのは苦しいからだ。ネタを考え、構成を考え、読んでくれる人などいるのだろうかとネガティブな思いに苛まれながら、それでもキーボードを叩いているからだ。
それでも今年2022年、「書くこと」は大切にしていきたい、日々の表現である。
是非とも「書くこと」を「通常モード」にしていきたい。

新年からなんとも窮屈な投稿になってしまった。
しかしこのnoteはどうなっていくか、全くの行き先不明である。
今までのようにブックレビューが乗るのか、観劇記録や映画の鑑賞記録を書くのか。はたまた天狼院で書いている文章を転載していくだけになるのか。
船長である僕にも、正直まだわからない。
わからないが、書いていくことだけは決まっている。
このnoteを読んでくれる奇特な読者の皆様には、是非との日々の更新をご自身の「通常モード」に組み込んでいただけると、これ幸いである。

いしわたひろむ

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