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借景とは「隠す」技術である

比較的新しい趣味の一つに「日本庭園を巡る」というのがある。無論、庭に関して体系的に学んだことはなく、素人道楽として眺めているに過ぎない。ただ、最近のアウトプットの機会が「自分の研究を論文にする」というのに限られており、自分の分野に閉じこもってしまいそうだったので、庭を見ながら考えていることを書き起こしてみることにした。

そのうちの1つが「借景とは『隠す』技術である」というものである。「日本庭園」というと、「枯山水」や「回遊式」というキーワードに並んで「借景」という言葉を連想される方も多いのではないかと思う。そして、世界大百科事典に「庭園外の景物をとりこんで構成の要素とする場合、これを借景という(第2版)」とあるように、背景にある山々などを「見せる」技術という捉えられがちである。

もちろん、借景が借景として成立するためには、相応の山や海などの景物が必要であり、それを「見せる」ことが欠かせないのは確かである。しかしそれ以上に、借景の客体である遠景と主体である近景(庭園)の間にあるものを「隠す」ところに、借景の本質があるのではないかと思う。

この「隠す」とはどういうことか、好きな庭を紹介することを兼ねて、いくつか実例を挙げたい。

天龍寺 曹源池庭園の借景

Wikipediaの借景という記事に例示されている通り、天龍寺の曹源池庭園は借景庭園として有名である。以下の写真は、その曹源池庭園を大方丈から捉えたものだが、左手奥の嵐山がとてもシームレスに庭園の木々と接続されているのが分かるだろう。

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曹源池庭園 (CC BY 2.0 - Kentaro Ohno)

写真では伝わりきらないのが心苦しいのだが、この借景によって見える世界すべての中心が近景の石組みにあるかのような効果が生み出されている。

実は、この写真が撮られた大方丈から目を凝らして庭園を見ると、生垣や木々の間から、通路を行く人影や多宝殿という建物をかすかに見て取ることができる。地理院地図で位置関係を図示すると、以下の通りとなる。

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逆に言うと、何もしなければ見えてしまう人影や建物を、入念な植栽によってうまく「隠している」訳である。イメージしてみてほしい。上の借景の中にひょっこりと建物が見えていたら、奥の嵐山は繋がって見えるだろうか。ここに借景の本質としての「隠す」技術が現れていると感じる。

栗林公園の借景

同じく借景の好例としてよく取り上げられるのが栗林公園である。これは園内の芙蓉峰から撮られた写真だが、左手前の松から奥の紫雲山まで、木々の流れがそのまま繋がっている。

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この写真が撮られた角度を園内マップで確認すると、以下のようになる。

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栗林公園案内図(庭園ガイドより引用して注釈)

正面にあるはずの建物「日暮亭」は全く見えず、左奥の「小松亭」や「掬月亭」も築山や松で隠れている。そして、右奥の赤い「梅林橋」が近景の端点として視線を引きつけているが、これもまた、その他の構造物の存在を「隠す」ことに貢献しているのではないかと感じる。

この芙蓉峰は小高い築山となっているのだが、一段一段と登っていくにつれて建物が隠れていき、頂上にしてすっかりと借景が出来上がるという仕組みは、なかなかのものだと思う。

実相寺庭園の借景

浜松にある実相寺庭園は、1994年にその石組が発見され、そこから調査・復元がなされた(関西ら, 2000)ということもあり、上記2つの庭園ほどの知名度はない。広さも20×10mほどのこじんまり枯山水庭園なのだが、秀逸な造りを見せている。

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ここまでの2つと比べると距離感はあるのだが、写真左奥の木々の間に山が姿を表しているのが分かるだろうか。ただし、ここに「隠す」技術が発揮されているとは言えない。下の地理院地図で見ると明らかなように、そもそも実相寺自体が小高い丘の上にあり、この三岳山までの間に遮るような建築物もないため、自然とこういった景色となっている(むしろ、そうなるように寺の立地を選んだという可能性もある)。

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ここで同時に目を向けてほしいのが、中央上部の木々の左横に頭を覗かせている五輪塔である。この五輪塔は、実相寺を興した近藤貞用が父、近藤季用の墓所として祀ったものなのだが、以下のように庭園のすぐ裏に、独立した土塁として設置されているのである。

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実相寺という寺名も近藤季用の法名から取られている(関西ら, 2000)ということで、この五輪塔は建立の要であったと考えられる(ただし、戦後しばらく実相寺が幼稚園を経営した時期に、園舎建設のために潰されてしまっていたらしく、庭園の発見後に由緒記に従って復元したということである)。

この五輪塔を、墓所として独立した土塁としつつ、庭園の要素として組み込む。そこに「隠す」技術が発揮されているのだ。そう感じたきっかけは、実相寺庭園を訪れたときに、こじんまりとした庭園にしてはその築山が異様に高いのが気になったところにあった。

関西ら(2000)も「背後に山地斜面もないにもかかわらず、地表から約3mにまで造成された高さをもつ寺院庭園は珍しいと考える」と述べているが、その意図には触れられていない。これは、関西らの調査当時に土塁は復元されていなかったからだろう。だが現在、この庭を見てみると五輪塔をうまく組み入れるべく、庭の裏側を「隠す」意図があったと読み取ることができる。

しかも、近景の奥にこの五輪塔を出現させることで、奥行き感を生みながら三岳山への接続もなめらかにしている。五輪塔の下部を「隠す」ことで、借景全体を整える、そんな高度な技術を感じさせられる庭である。

さいごに

長々と例を挙げてきたが、もちろん「隠していなければ借景でない」ということではない。例えば、正伝寺庭園の白壁には「隠す」という意図もあるかもしれないが、それ以上に、庭と比叡山の間のコントラストを引き出すという役割があるだろう。こうした対立的な構造をあえて作りだすことを、岡本太郎は「芸術の弁証法」と評しており、そこに借景の魅力があるという(進士, 1986)。

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正伝寺庭園 (CC BY-NC 2.0 - Patrick Vierthaler)

一方で、情報系の頭になって考えてみると、観察者の視点移動の自由度も高い中で、壁も使わずいかに自然な形で「隠せるか」というのは、非常に高度な問題であると思わずにはいられない。しかもそこに、美的感覚であったり、あるいは、菩提寺としての意味論も組み込まれている。その凄さは、わざわざここに書き起こしてみるに値すると感じたのである。

ここまで乱文にお付き合いくださった皆さまも、もし借景庭園を訪れる機会があれば、まずは純粋な心でその景観を楽しんでいただいた上で「裏に何が隠れているのか」という気持ちで分析してもらえると、さらに楽しんでいただけるかもしれない。

参考文献

関西 剛康, 山田 巨樹. 実相寺庭園に関する調査報告. 日本庭園学会誌 9, 23-35, 2000.

進士 五十八. 「借景」に関する研究:景観構造並びに借景思想にみる自然への態度の日本的特質について. 造園雑誌 50(2), 77-88, 1986.

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