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シェイプ・オブ・ウォーターの孤独の泡

※(公開当時の感想文です)

シェイプ・オブ・ウオーターを都内でみた。仕事の終わった後の時間、レイトショーで。
楽しみにしすぎていたので上映開始1時間半も前に劇場についてしまった。
その日は一日中ハイヒールで歩き通しだし、慣れない都会で疲れてもいた。カフェに入りレモネードの炭酸を自分に与えた。きっとレモンのクエン酸と香りが疲れを癒してくれる。背の高いグラスに注がれたレモネードの泡がとても美しく見えた。

子供の頃は足が痺れると足の中には炭酸ソーダが流れているのだと思っていて、そして、それはなぜか宇宙のような模様だった気がしていたことを、グラスに注がれた炭酸飲料を見るたびに思い出す。
目の前のレモネードの泡を見てもそれは同じで、なんならグラスについた、その泡の発生から消滅までの時間をひとつひとつ追って眺めていた。多分寄り目になりながら。
こんなだからひとりで時間を過す苦痛がないのはありがたいが、だからずっとひとりなのかもしれない

シェイプ・オブ・ウォーターはそんな私のためにあるような映画かもしれなかった。あるいは、あなたのために。
それはつまり、「これは、怪獣少年ギレルモが40年かけて作った、すべてのThe Others(除のけ者ものたち)へのラブレターです。」ということだった。
(町山智浩/シェイプ・オブ・ウォーター公式サイトより)

(映画シェイプ・オブ・ウォーター公式サイトより)

確かに孤独な人のための映画であり、誰かを愛する人のための映画であり、深く映画を愛する人のための映画だったのだと思う。

あらすじはこう。

東西冷戦時代。

赤ん坊の時に川に捨てられたイライザはその時に首を傷つけられその傷跡は今だに残り、その衝撃で声を出せず話すことが出来ない。大人になった今も手話で会話をする。隣人のジャイルズと映画をテレビでみて、ゆで卵とパンのお弁当を持って決まった時間にバスに乗り、政府の特殊な施設で掃除婦をしている。毎日毎日そのくり返し。

ある日施設でアマゾン川の少数民族に神と崇められていた水棲の異形の不思議な生物が連れてこられ、ストリックランドに虐待されながら鎖につながれている「彼」をイライザと同僚のゼルダは目撃してしまう。異形でありながら、「彼」に心惹かれるイライザ。
イライザは「彼」に知性があることに気づき、手話と音楽と卵とを与える。彼もイライザには心を開いていく。二人は共感めいた感情を抱き合う。

(映画シェイプ・オブ・ウォーター公式サイトより)

が、冷戦時代。威信をかけた政府により「彼」を生体解剖する決定が下される。
イライザの隣人のジャイルズ、ゼルダ、北側スパイのボブと「彼」を助ける計画を実行する、イライザ。「彼を助けないなら、私たちも人間ではない!」と、確固とした意志をもって。
そして、その後は劇場で実際に確認して貰いたい、「彼」とイライザの美しい愛の物語を。

この物語は異形の「不思議な生き物」とイライザの物語というだけではなく、仕事を失うジャイルズの物語であり、黒人差別を受け、職業差別を受けるゼルダと、彼女らに象徴される傷つき社会の隅に追いやられた人の、つまり数多の私たちの象徴の物語なのだから。
観終わったあと、きっとしあわせな気持ちになる。そして現実の世界の厳しさに改めて気づかされる。それでも愛があることを、愛する者がこの世にあることに歓びを感じるだろう。
そういう作品であることがギレルモ・デル・トロ監督の限りない映画への愛であるのだし、人間をみつめるまなざしを光に託した物語であるのだ。

映画の中で感動的な場面に、ヘンリー・コスターの映画「砂漠の女王」が使われていた。
ルツ記を基本に置いた映画なのだが、親に売られ生贄になる筈だったルツは奇跡的にまぬがれ、成長し生贄儀式を手伝う神官となる。ユダヤ人の青年マフロンに出会い、人間らしい生き方を教えられ、ルツはそれを選ぶ。だがマフロンは囚われの身に。そのマフロンをルツが救いだすというストーリーにギレルモ・デル・トモ監督が何を象徴させているのかはわかる。

不思議な生き物の「彼」はイライザに救いだされ、イライザの部屋の浴槽に住みながらある事件により驚いて飛び出てしまう。それを知ったイライザは彼を探しに出たアパートの階下にある映画館で上映される「砂漠の女王」を魅入られたように眺め呆然と立ち尽くしている「彼」を見つけるのだ。その場面のあまりの美しさに私も呆然となってしまった。真っ赤な座席にクラシカルな装飾の劇場のど真ん中に緑がかった青みがかった、異形の半魚人。スクリーンには「砂漠の女王」鮮やかな色の対比にため息をついた。

イライザは孤独な日々を「彼」により救われ、「彼」はイライザによって救われる。唯一無二の存在であるが故に人と異形の者が愛しあってなんの不都合があるだろう。バスルームで互いに求めあいながらも、一度は逃げ出すイライザ。しかし、彼女は彼のいるバスルームに戻る。この美しいラブシーンは冒頭の彼女の自慰の昇華である。他者を愛するという、そして他者に愛されるという昇華。

しかし、イライザとその周辺のどの登場人物もそれぞれの立場と人生において孤独を強いられている。
イライザの隣人で友人のジャイルズはイラストレーターなのだが写真に押され気味で仕事を失い、ひとり仄かに打ち解ける相手にもゲイであることを酷く差別される。
イライザとのタップダンスの場面は心が踊ったが、基本的には彼もまた社会の隅に追いやられている人物である。

イライザの同僚ゼルダは日々黒人差別を受け、夫とは冷めた関係で、そんな日々の中ゼルダに対してまるで母親のように世話を焼く。明るく、強い。
ジャイルズもゼルダも社会の「除け者」であるのは間違いないが、異形である「彼」のことも「彼」を愛するイライザも、受け入れ守るのである。どのような境遇にあっても人は自分の良心に従う強さを持つのだし、己が孤独を知っているからこそイライザと半魚人の愛を余計に守りたいと思うのかもしれない。

政府の施設の上司ストリックランドは差別心を隠しもしないし残虐な悪役だが、どこか虚しく悲しい報われないモンスターだった。彼は内心に恐れるものが多すぎて未知の存在である「彼」を暴力で抹殺しようとしたのだ。
ソ連のスパイである研究者ボブは研究者としての誇りを二国間の軋轢により粉々にされる。研究者として人間として半魚人を救うために二つの国を裏切り、二つの国に裏切られる。
これら皆、哀しい孤独な「不思議な生き物」として描かれる。私たち皆が不思議な生き物であるように。

そして。「不思議な生き物」の半魚人は南米の奥地から連れてこられたわけだが、私が想像するに、彼を神として崇めていた部族は、その部族ごと白人に抹殺されたのだろうと思った。

これは現実でも実際に起きている。白人の資本家が開発しようとした土地に先住民がいた場合保護しなければならないのだが、それではお金にならない。あらゆる方法でもって彼らを皆殺しにしたほうがコストがいい。彼らの伝統的なやり方だ。
おそらく、その現実までギレルモ監督の頭にはあったのだろうと思う。

そして、その半魚人の境遇が「最後のカリフォルニアインディアン・イシ」を私に思い出させた。作家アーシュラ・ル・グゥインの父の親友であった、世界で1人だけのカリフォルニアインディアンであったイシの高貴さを彼も持っているからだ。
半魚人の「彼」には生殖機能がある。ということは、彼には一族があったのだ。そして彼もまた滅びていった一族の最後の一人であった可能性が高い。どのくらいの時間を一人で過ごしたのだろうか。きっと人間より寿命がうんと長そう。
その悲しい私の妄想は、イライザという運命の相手と出会った彼の歓びを思い、そしてひと時の別れの場面での彼の手話に嗚咽するには充分な理由であった。

イライザの孤独と「彼」の孤独が溶け合って水の中でダンスを踊るように抱擁し合うラストで水中に漂う美しい泡を私がどんな思いでみたか想像つきますか。
水にはそれだけのテーマがある。
ヒエロファニーとしての水、宇宙的顕現としての水。
地球創生の隕石内部にあった水が大気に蒸発した残ったものにいまだ地球は4分の 3覆われている。海、川、湖、沼、湿地。それに人間の身体のほとんどは水である。

イライザの誕生、つまりは物語のはじまりが万物の生命の根源となる水辺であること。「彼」が水棲の半魚人であること。雨が重要な役割を果たすこと。
人間には、水が必要なのだ。けして干上がることのない、水が。
私たちの本質は泡であるが、その本質が弾け美しくゆらめく、水が源である。

こんな素晴らしい映画を見た翌日、とある学会でとある団体の発表を聴講した。
「教育の新しい評価軸」として「変人」度合の高い人に対して「おもしろい!」と誰かが言わねばならない、という趣旨のもと、「変人」が好きなことで才能をのばしてもらえるような環境を作りたい、というようなことを仰っていた。
登壇者はみなさん、大学の先生だったり博士号をお持ちのうえで企業で働いて教育に携わっておられたり、東大の博士課程に在籍しつつ映像などの批評執筆をなさっていたりと、学会と名のつくところであるだけにガチの肩書を皆さん持っておられる。

で。「変人」を教育で作ることはできない、などと発言もありつつの。「変人が寄ってくる変人ソムリエがいる」とか。「変人の友達は変人」とか、ようは突出した才能を環境や大人に潰されないような社会にしたい、ということのようだった。色んな用語を作っておられて、それがまた。なんというか正直、くそつまんなかったです。
短い時間だけで彼らの趣旨全て研究のすべてを理解する頭脳は持ち合わせていないけど、変人=突出するほど能力が高い、という前提がある以上、彼らの主張に共感できなかった。少なくとも初見の私にはとても。

全体の能力がそれほど高くなくても個人内のバランスが悪ければ変人なのだ。
全体的に能力の低い変人もあなたたちのコミュニティで扱うのでしょうか?みんな違ってみんないい、という世界にしようというのなら生産性の高くない「変人」をどうするのか。
「変人=才能」というのは「自閉症=特殊な才能」という誤った概念を撒き散らしたこととどう違うのか。既存の教育、たとえばギフテッド教育と何が違うのか。発達障害の特性が顕著な場合、適切なサポートが出来るのか。

なんかNHKが張り切って民法の真似したバラエティ番組を見たときのザラザラしたものを覚えた。
何を言いたいかと言えば。
「奇人」に特殊な才能があったとしても、なかったとしても、「変人」の内面の孤独は「あなたおもしろい!」と誰かに評価されただけでなくなるものだろうか。しんに寄り添うものになるだろうか。寄り添うということより、別の目的があるというなら見るものと見られるものの間の憎悪をどう処理するのか。という疑問がわいて居心地悪かった。

まず、このシェイプ・オブ・ウォーターを100回くらいみせたら、どんな変人も肯定感を持てるかもしれない。と思ったけども。
その前に、あなたがたが観て、と思ってしまった。初見の人間が話を聞いてこんな風にしか伝わらないということは、学問としてもふざけ方も不完全なのではないか。
自他共に認める変人は、おそらく地球最後の「不思議な生き物」のような気持ちで切実と現実に向き合ってるのではないのか。突出した才能の有無に関係なく。まずは彼らの孤独を静かに見守ってほしいと私は思う。そして静かにラブレターを書けばいい。シェイプ・オブ・ウォーターみたいに40年をかけて。

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