見出し画像

みんなを愛さなくていい 「誰かを深く愛せること」も設定の1つ

みんなを愛せたらよいのですが、そうもいかないもの。

親孝行も出来るならばした方がいい、そんなことは誰でも分かっています。
でも、人によってはそう出来ない事情があったり、心がどうしてもついていかず苦しみ続けている場合もあります。

親孝行や家族を大事にした方がいいよ、という文言は
知らぬに間に人を深く傷つけることもあります。

親や家族を大切にした方がいいと自然に思えることは当たり前ではなく、とても恵まれていることなのですね。

人間には綺麗事だけでは済まされない、想像や個人の経験だけでは多くを語れない、語ってはいけない側面があるのだろうと思います。


誰かと距離を取るということに抵抗を感じる方も少なくありません。
それが親や家族、近しい人ならば尚のこと。

近ければ近いほど、終始助け合うべきだと心のどこかで思っていたりするので、心はもう無理だと悲鳴をあげている、でも距離を取ることに対して「自分が薄情な人間だ」と感じてしまうのですね。


でも親や家族、その他のどんな関係性にも言えることですが
いつまで、どんな形で、どれくらいの期間共に生きるか、というのも実はある程度決まっています。

例えば「最期を看取る」ということも魂が決めてきている。

人の最期を看取るというのは、深くて強い感情が伴うこと。
人の最期に関係する職業でない限り、そう何度も遭遇するものでもありません。

最期を看取ることが出来る。
それは良くも悪くもお互いに解消すべき何かがそこにはあります。

誰かとの間で、そうした強い感情が必要ない場合もあって
その場合は長く一緒にいても看取ることは出来ませんし、解消すべきものがない場合も出来ません。

逆に、嫌で嫌で仕方がなくても、そういう設定があればどうやっても避けることは出来ないのですね。



誰かを愛す、ということも
「愛した方がいい」「大切にした方がいい」という文言は適応しません。

愛してもらえる、愛することが出来る、ということも魂が決めてきていること。


誰かを愛せること。
それは「ただ愛している」のではなく、魂同士が愛し合うことを決めてきている。

私たちは「自分が愛すべき対象」すらも決めてきています。
だから、次時代は「こうしなければならない」を持っていると苦しくなる。

愛すべき対象、愛し続けることが出来る存在は、頭で考えずとも、命に換えても自然に愛せるけれど、そうでなければ「愛した方がいいのに、どうしても愛せず苦しい」と葛藤の連続になることもあるからです。

みんなを愛せなくていい。
愛すことすら、自分の心が向くままにさせてあげればいい。

もちろんそんなに簡単に割り切れることではありません。
しかし割り切れないからこそ、こうしたことを知っていれば、自分を責めることを少しやわらげてあげられる。そんな方もおられるかもしれません。

自分の魂に逆らわず、どんな自分も許してあげてください。

私たちはいつも答えを知っています。
ただ、それに従って生きているだけなのです。

いつもサポートや温かいメッセージをありがとうございます✨