いいよ。には無関心なものと理解の気持ちからのものがある。
誰かの言葉で、『いいよ。それいいと思う。それでいいよ。』など、肯定してくれているのだけど、なんとなくもやっとする時があった。
全く同じ言葉なのに、心から癒される時ともやっとする時があって、それが何なのかとても気になっていた。
ある時、自分が本当にどん底だと感じたことがあった。
その時に2人の人と深くご縁があって、どちらの人にも助けてもらったのだけど、1人の人の『いいよ』には心がホッとしたのに、もう1人の人の『いいよ』にはとても心が重くなった。
だんだんその理由が分かってきた。
2人共とても素敵な人なのだけど
1人の人は、心から私を理解しようとして、そこからの『いいよ。それでいいと思うよ。』をかけてくれた。
1人の人は、無関心で私のことはどっちでもいいよ的に『いいよ。それでいいと思うよ。』をかけていたのだ。
それは後々分かったことなのだけど、それが分かってすっきりしたし、すべての点が線で結ばれた。
そうなると、前者には絶大な信頼を置くし、後者には少し距離を持ってしまう。これは人間の心理でもう仕方ないことだと思う。
上っ面の言葉なんて、誰でも見抜く。
霊視やら霊能なんて興味ないし、何のことだかわかんないという人でも、日常のそういうことは薄々感じているし、感じる力はある。
私がどん底にいた時は、心が乾き、心がほぼ死んでる状態なので、心から希望を求めていた。
だからこそ分かる、本性。
あ、別にその人の本性が悪いとかそういうことではなくて、『その人のその時の在り方や価値観・考え方』ということ。
それはいくらでも変わるし、変われるものだから、根っから悪党ということではない。
ただ私がそう感じた、というだけ。
人に関心を持つということは、ある意味怖いことなのかもしれない。
心を通わせたいと思う時に一方通行だと相当辛い。
だから最初からもう、そこは諦めて生きている人もいる。
通じないなら関心を持たないでおく、と。
それが間違っているわけではないけれど、それは周りに見抜かれる。
少なくとも私は分かったし、本当に私を理解して『いいと思うよ。』と言ってくれた人に心底信頼を置いた。
『心が通じる』感覚があった。
通じないなら関心を持たないで置こうと思っている人は、きっと怖いのだろうと思う。私にもそういう側面はあるから。
あるからこそ、そういう人が目の前に現れているんだし。
だから、関心は持たれていないと分かっていたけど、私は関心を持ってみたし、無理のない範囲で私らしい言葉をかけてみた。
そうするとその人がだんだん関心を持ってくれて、その人らしい言葉をくれるようになった。
心が通じた。
何が言いたいかって言うと、心の中は意外と伝わっていて、本音でなければないほど、相手に違和感として伝わるということ。
どんな言葉でも、どんな投げかけでも、本音から出たものはすっきりした爽快感がある。
本音を言うからトラブルになるのではなく、本音を隠そうと偽るから、周囲に違和感が生じて、話しがおかしな方向に進んでいき、それがトラブルのような形で出て来るだけだということ。
本音で生きていると、人を理解しようと出来る人間でいられる気がしてる。
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