異常、異端、変わっている、普通じゃないというのは誰かの主観だから。
おはようございます(*^-^*)
雨ですね、梅雨みたいです。しかも暑いです。。
よく異常気象って言いますが、自然ではどんなことがあってもそういうものなのでしょうね。ただそういうことがある、というだけ。異常でも何でもなく。
何でもそうなのですが、異常だよね、と思うのも人間が勝手に思っていることですもんね。色んな時がある、その方が自然ですよね。
異常があれば正常がある、正常というのは人間が決めた基準。基準が変われば異常値も正常値も変わる。
健全な状態を保てる数値、というものなのでしょうけれど、私はあまりあてにしていません。何でも目安くらいの感覚でいいと思っています。
数値に振り回されてしまうのは、100点こそ素晴らしい、正常値こそ普通だ思考に偏ってしまう気がするので、何でもそれぞれ健全な状態って違うということを思っておきたいと思っています。
ご飯も1日3食の人もいれば1食の人もいる。3食だから健康とは言えないし、1食だから栄養不良とも言えない。
お風呂に毎日入る人もいれば、3日に1度でも平気で健康な人もいる。
100点ばかり取って大人からしたらいつも褒められて生きてきた人でも、『生き方が分からない・生きる意味が分からない』と、生きづらさいっぱいで幸せを感じたことがない人もいるし、学校行かなくても人生が幸せでいっぱいの人もいる。
数値や基準はあくまで目安。
人それぞれの基準は全く違いますね(*´▽`*)
自分が良ければいいんです。自分が満足する生き方が出来ていればいいんです。そしたら必ず幸せを感じることが出来て、未来も幸せが続くから。
人生には絶対はないし必ずというものもないのでしょうけれど、これだけは絶対に必ず、と私、言えます。
障がい、という言葉も違和感があります。
障がい者がいるなら健常者がいます。
何を基準に健常で、障がいなんだろう。
生まれてすぐに耳が聴こえない人は障がい者。
でも80歳になって耳が遠くなったら老化。
サポートすることは同じなのに、なぜ見方が違うのだろう。
若ければ問題、年を取ったら仕方ない、ってなんだか変じゃないですか(゜゜)?なんだかすごく偏った思考で、フラットじゃないですよね。
出来る出来ないだってそうですよね。
ADHDだと忘れっぽかったりして社会で問題扱いされることもあるけれど、年を重ねて認知症とかでなくてもだんだん物忘れが増えたりします。それは障がいとは言わない。。
何が違うんだろう、と思うのですよ。
みんな、出来ることもあれば出来ないこともある。出来るようになることもあれば出来なくなることもある。どんな状態だって幸せを感じる基準は違う。
障がいや健常、普通や異端、正常や異常って、ただの人間の主観的なものなだけな気がしています。
その思考の偏りがあるから辛い人が出て来るし、人が人を排除したりいじめたりする。生きづらさも出るし、戦いだって起こる。
人は偏っていていい、それが魅力だから。
でも人を見る目に偏りがあると、人を追い込むこともある。
男、女、というカテゴリーだってただそういうものだというだけで、そこにボーダーラインがある事の方が不自然な気がします。
ボーダーがあるから男女の恋愛が普通、と思い込む人がいて、ボーダーがなければそれは人と人が愛し合うことに他ならないわけです。
そこに線引きする人も、それはそれで価値観だからそれでいいと思います。でもそれを常識にするのは偏りだと思います。
どんな人でも、どんな価値観でも、普通とか一般とか常識とかの正常値・マジョリティだと思い込んで正義としてしまうから、社会が偏っていくのだと思っています。
個性的だよね、という言葉だって、個性がない人はいないのに、自分の思う普通と違う他者を個性的と呼びますもんね(*´▽`*)悪い言葉じゃないけど、過去それで傷ついている人もいました。私は個性的という言葉は好きです。でもみんな、それぞれ持っている個性が素敵なのだと思っています。
何となく私がずっと昔から、そう思っているだけですが(*´ω`*)
私1人が何かを変えることは出来ないし、人を変えることもそれはエゴになる。
私は人を自分の価値観ではからないように接することが愛だと思っていて、それを日常でやるのみです。
いつもサポートや温かいメッセージをありがとうございます✨