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ひ録:わらの手について@ひ録:わらの手

ひ録:わらの手について

人見遊海について

アラコッキーです。
生まれつきシナプスとシナプス、ニューロンとニューロンが混線している
らしく、時々突拍子もない言動を取り、自分も周囲も楽しませたり混乱させたりします。

子供の頃、母親からは「お前は、素っ頓狂だね~」と
言われた事があります。

人見遊海(HITOMI YUKAI)はペンネームです。
ある人物から、眼鏡関連のサイト作成のお誘いが
あった時、必要に迫られて作成しました。

読者が気が付いている方がいるかどうか、分からないし、
気にも止めていない方が多いとは思うが種明かしします。

ペンネームの由来は、物見遊山。この四字熟語のもじり。
何故、この言葉が出てきたかは、分かりません。
自分にとって、言葉は天から降るように勝手に出てくるものなのです。

それはともかく。
人見は瞳に通じるから、眼鏡のnoteには、まあ好適と判断しました。
遊海は愉快に通じるから、戯言、雑学には、まあ最適と判断しました。

お誘いのあった眼鏡関連のサイトに関しては、
その後連絡がありません。

NO WAY TICKETについて

主に就職する24歳までの経験を書きます。
中1になった時、自己分析しました。
結果は「七転八倒 支離滅裂 軽佻浮薄 付和雷同」です。
今振り返っても、この分析、あながち的外れではないようです。

読書は子供の頃から好きでした。
父親が近所の本屋でツケ買いできるようにしてくれたので、
濫読状態の少年時代でした。

中二の時、課外授業で観た「天地創造」のスケールと面白さに
洋画に目覚め、川崎ミスタウン(現チネチッタ)に通ったものです。
しかし、小遣いが続きませんから、せっせとハガキを出しては
銀座の試写会に行きました。

「少年は虹を渡る」やマイケル・ケインの「アルフィー」などが、
強く印象に残っています。

高校では柔道部と演劇部に所属し、あまつさえアマチュア劇団にも
入りました。そこには、のちに声優で大成した神谷 明(以下敬称略)が
いました。

大学は、入学したものの、最初の2年間はほとんど通学せず、
バイトに明け暮れ、教室にも授業にもいない生活を送りました。

コピーライター養成講座に通ったりもしました。
TV制作会社の超下請けに潜り込んだ事もあります。
ある制作会社に行くと、そこには天才ディレクター、若き日のテリー伊藤
がいました。仕事の話をしていた記憶がありません。

「男はつらいよ」の特番の手伝いに行った時は、
そこに武田鉄矢がいて、信じられないような能力を見せてくれました。
今はなき新聞社の横浜支局で坊やをした事もあります。

必要があり、大学3年で映画同好会に入れてもらいました。
「(3年になってから入会する)そう言う奴がいても、
まあいいんじゃないの」と言った男とは、いまだに細く長い付き合いを
しています。

必要がありの必要が何であったかは、思い出せません。

その同好会に所属しながら、志を同じくする仲間と映画の自主上映会を
企画し、貸し出し不可だった鈴木清順監督の「肉体の門」を、原作者
田村泰次郎の許可を得て借り出した事もあります。

清順監督や渡辺武信氏(建築家・映画評論家)にも参加していただき、
講演会も同時開催しました。
この自主上映会は、他の監督の特集も行い、5回ほど続きました。
週刊朝日の「素人だって映画批評はできる」に呼ばれた?のもこの頃です。

病気で、NHKの大河ドラマを降板した渡 哲也が入院中の熱海病院に行き、
お見舞いがてらのインタビューをした事もあります。
これは、撮影所でインタビューした舛田利雄監督のお誘いでした。

お芝居も、コピーライターも、新聞社も、テレビ業界も映画業界も、
自分には能力がないと見極めをつけ、固い仕事を探し始めました。

結局、大学は4年在籍、1年休学、1年復学して卒業できました。
思い出しても、ジタバタドタバタの季節でした。

卒業論文の口頭試問で、主査の桝田 啓三郎教授から言われました。
「詩人ではあるが哲学者ではない。文才はあるが論理はない」
(某大学の哲学科卒業。哲学の事は聞かないでください)

※ 桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう):日本の哲学者。卓越した語学力の 持ち主で、キルケゴール、ウィリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、 フィヒテ、ベルクソン、デカルトを翻訳。特にキルケゴールは、独学で
 デンマーク語を学び原典翻訳を行い、それまでドイツ語訳を使用すること の多かった日本の研究状況を一変させた。現在でも新版が刊行されて
 おり、文庫も重版されている。(ウィキペディアより)

天下の桝田教授から、詩人として認められたのです。
文才を認められたのです。こんな名誉、誇りがあるでしょうか。
桝田教授の言葉は、その後の自分を支える言葉になりました。

時に悲観の泥沼に嵌まるのに、変な時に能天気になる性分なのです。

濫読、映画鑑賞、様々なバイト経験、自主上映団体等、
NO WAY TICKETには、その時期の経験談を書いていきます。

LIVE A FOCUSについて

24歳で某眼鏡店に中途入社し、友人には三ヵ月のバイトだ、
と言っていましたが、結局は勤め上げました。

その眼鏡店は「眼鏡道楽(仮名)」です。

千葉事件、蒲田事件、碑文谷事件、社用車事故等、いろんな事に
巻き込まれたりやらかしたりしました。

40歳頃、経営陣のひとりへ不用意にも本社の研修内容を批判し、
結果、研修担当を拝命しました。
(何でだよ~と思いましたね。懲罰人事か!?)

レンズメータがない。練習用フレームもない。
パソコンも、プロジェクターもない。
そもそも、研修専用の部屋がない。

そこから始め、結果、約15年間の研修担当でした。
この時の経験が一番勉強になりました。

最終的には研修課として三人の専属スタッフと
十人近い店舗からの応援スタッフ。
パソコンをはじめとするその他諸々の設備・什器の揃った
100坪のトレーニングセンター。(パソコンはお古でしたけどね)

そこまで規模を拡大する事ができました。
(風の噂で、大分前に解散した、させられたと聞きました)

新人を研修する上での心得と技術。
接客に必要な、もてなしとあしらいの心積もりと話術。
累進レンズを含めたレンズの知識。
検査に必要な基本的な理論と実技。
基本的な調整と変形修正のテクニック。
カラーレンズに必要な色彩研修。
眼鏡屋の英会話。
接客上の特異な事例対処の方法等々。

LIVE A FOCUSには、その時代の知識。経験を書いていきます。

連続投稿100回を超え、自信にもなりましたが、
拙速な部分も多いなと反省しています。

来年からは、もっと内容を整理して1記事の分量を
増やすと同時に、眼鏡に興味関心のある一般消費者や
眼鏡技術初心者をメインターゲットに、さらに役に立つ内容に
する必要性を感じています。

それが、最初の目的だったからです。
別noteを立ち上げるかも知れません。

10年前は「クライマックスはこれからだ!」と思いましたが、
最近は「掉尾を飾るには?」何て事を考えています。

「ひ録:わらの手」は試行錯誤しながら、NO WAY TICKETと
LIVE A FOCUSの両輪で漸進していきます。

以上「ひ録:わらの手について」



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