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占い師ヒカル子の憂鬱


私鉄を乗り継ぎ山手線のS駅で降りると

人の流れに身を任せながら

一旦地上に出て深呼吸をする。

雨の日も曇りの日も、明るい日の光をイメージしながら

鼻から深く息を吸う。

気持ちが落ち着いたら、

S駅の底へ向かってエスカレーターを何回も乗り継ぎ

下へ下へと向かう。

かすかなカビ臭さと下水の匂いが漂っている通路に出る。

その通路の両脇には間口の狭い店が左右に10店舗ほど並んでいる。

中には乾物屋や荒物屋もあり

わざわざこんな所まで乾物を買いに来る客がいるのか?

通い始めの頃は何も知らなかったので、不思議に思っていた。

それでも客足は途切れることもなく

その小さな商店街は賑わっていた。

地上の喧噪や活気とは対極でありながら

たしかに大勢の人が通りを行き来し

買い物を楽しんでいる。

ハァ~~

この通りの秘密を知ってからは

来るたびに溜息が出るけど

これもお勤めだと思うことにした。

~~~~~~~~~~~~~~

『占いの館・天女のお告げ』此処が私の職場

オーナーはマダム羽衣

初めてオーナーに会ったのは

S駅に新しくできたビルのエレベーターの中

地下から乗り込んだ時は大勢の人が乗っていた。

1階で私以外が全員降り、替わりに乗り込んで来たのが

国籍も年齢も不詳、不思議オーラを纏った彼女一人きりだった。

一目見るなり『只者ではない』と思えたし、

それは正しい直観だった。

圧倒的なその存在感に負けまいと、緊張しながらも

「何階ですか?」と声をかけた。

するとその人はいきなり私の腕を掴み

手のひらを引っ繰り返し手相を見て言った。

「アナタ仕事を辞めたいのね?」

この時初めて目が合った。

濃い茶色の瞳が私の身体の中から心の奥までを

全て見通しているようで、思わず後ずさりした。

「え?あ?!」

「もう少しだけ我慢して。辞める前にやることがあるわ」

ナ、ナ、ナンナンダ、コノオバサン・・・

「やだ、怖がらなくてもいいのよ。

覚悟が決まったら、此処にいらっしゃい。

じゃ、またね」

その人はそう言い残し、何時ボタンを押したのか

目的の階でスルリと降りて行った。

取り残された私の手に一枚の名刺が乗っていた。

思えばあの日、週末のランチタイム

一番混んでいるはずのエレベーターで二人きりになったのも

不思議だった。

友人とランチの約束があり

完成したばかりのそのビルに初めて行った日だった。

ニュースでも取り上げられたビルの完成で

当日もかなり混んでいたので

エレベーターの待ち行列も長かったのに・・

待ち合わせのレストランの前は大行列ができていたが

そつのない友人のノンが予約を入れていたお陰で

直ぐに席に案内された。

席に着くなり、エレベーターでの出来事を話しながら

手に持ったままだった名刺を見せた。

「あ~~っ!ヒカル子凄いじゃん、

 この人、都市伝説じゃないかって言われてる

 知る人ぞ知る占い師だよ、えっ、どんな人だった?」

「どんなって・・年齢不詳、正体不明って感じだけど

 オーラって言うの?凄いパワフルで圧倒された」

「行こうよ、行こうよ、こんなチャンスないよ」

「う~~ん、ノンはさぁ、その人見てないから・・

 怪しいというより怖いよ」

「怖いの?睨まれたりとか?尊大?横柄な?」

「そうじゃないけど・・なんだろうこの感じ

 言葉にすると、畏怖かなぁ」

「イフ?何それ」

「兎に角、お気軽にホイホイ行くと、とんでもない事に

 なると思う」

「ふ~~ん、なんか勿体ないなぁ

 結構な評判だよ、当たるんだって。

じゃあさぁ、ヒカル子が行く気になったら

 その時は誘ってよ、ね?」

本当はその日、仕事の悩みをノンに相談するはずだった。

悩みというより、退職しようかと迷っていたから

背中を押して欲しかったんだと思う。

ところが、見ず知らずの通りすがりの占い師に

いきなり「仕事を辞めたいのね」と断定的に言われ

言い当てられた驚きと、改めて自分の気持ちに気づき

同時に自分の置かれている状況を冷静に俯瞰できた。

実家暮らし、大したスキルも持っていない、

このまま退職したとして、直ぐに次の職場が見つかるかどうか。

結局ノンとは他愛無い話をし

ぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しみ

歩き疲れたのでお茶をして別れた。

別れ際にもノンは占い師のところに行くなら

絶対に誘ってよ、と念を押してきた。

帰りの電車の中で、気になってあの名刺を取り出した。

「占いの館・天女のお告げ

 マダム 羽衣」

HPもSNSのアドレスもなく

固定の電話番号だけが記されている名刺には

住所すら載っていない。

その割に、紙のグレードは高い。

『都市伝説の占い師』かぁ

電話してみようか・・・

何回見ても怪しい雰囲気満載の

「占いの館・天女のお告げ」

どうしても電話する勇気が出ない。

夕飯後テレビを見ながら母が急に言い出した。

「人生で迷った時に占いって案外馬鹿にできないのよね」

「え?ママは占い師に相談した事あるの?」

「わざわざ占い師のところに行ったことはないけど

アナタの大叔母さんはチョッと有名な占い師だったし

 バーバは霊媒体質だったしね」

「えっ?そうなの?・・知らなかった」

大叔母さんもバーバもこの世の人ではなく

会った記憶もうっすらとしか残っていない。

大叔母さんが占い師かぁ

占いへのハードルが少し下がった気がした。

チョッと行ってみようかぁ「天女のお告げ」に

ノンも行きたがっていたし・・

迷いに迷って1週間後勇気を振り絞って、

名刺に書いてある番号に電話すると

今すぐ事務所に来るように、

来るときは一人で、友人を誘うのは今回は止めて、と言われ

何故ノンと二人で行こうとしていたのが分かるのか

またも怖気づいたが、電話した手前断ることもできず

教えられた目黒の住所を一人で訪ねた。

約束の時間に瀟洒なビルの1室に入ると

「よく来たわね、待っていたのよ。

かなり勇気が必要だったみたいね」

マダム羽衣は悪戯っぽい目で笑いかけてきた。

その笑顔に緊張がほぐれた。

オミトオシナンダナァ

「此処の1階に本屋さんが入ってるでしょ?

そこでタロットカード買っていらっしゃい」

「アナタ引きが強いわよ、今日を逃したら

三か月はスケジュールが埋まっていたのよ。

さぁ、では始めましょ」

オーナーのマダム羽衣は滑らかに

でも口を挟むのは許されない雰囲気で言うだけ言うと

目だけで『早く本屋に行きなさい』と私に指示した。

え?始める?何を?占ってもらうんじゃなくて?

え?何を?タロットカードって・・

私が占い師の教育を受けるってこと?えぇぇぇ?

そこから怒涛の時間が流れた。

退社後と週末は目黒の事務所で

マダムから占術を叩き込まれ

時には鑑定現場に帯同し、

その圧巻の鑑定振りを目の当たりにした。

『私にはできない、無理無理!』と何度も怖気づいた。

手相、顔相、四柱推命、紫微斗数、占星術

周易、九星気学、タロットカード

「占いには3種類あって、手相顔相は相術

四柱推命、紫微斗数や占星術は命術

タロットカードや易は卜術。

この3種類の占術を網羅できたらOK,

それぞれの占術の中から自分にあってるなとか

好きだなと思える占術を鍛えて、

命・相・卜、全ての占術で占えるようになりなさい」

必死でマダムの講義に食らいつき2年半が過ぎた。

その間に会社の同僚たちの手相を見たり

生年月日からホロスコープを出して

鑑定の真似事をした。

「当たってる、凄い~」と評判になり

同期の仲間から始めて後輩や先輩たちを占い

時には主任や課長の手相も見せてもらった。

一人でマダム羽衣に会いに行ったことに

「抜け駆けだ!」と怒っていたノンも

目黒の事務所でオーナーの鑑定を受け

占いにすっかり魅了されていたので

「ノンも一緒に勉強しようよ」と誘ったが

「ううん、マダムが言うのに、私の能力は

 秘書とかマネージャー向きなんだって。

 だから今の職場は適職なんだってよ。

ヒカル子が人気占い師になった暁には

広報兼秘書として雇ってね」

未来の秘書はその能力をいかんなく発揮し

何人ものモニターを紹介してくれ

そのモニターさん達が次々に新たなモニターを

紹介してくれた。

目黒の事務所1階の本屋の片隅に

占いコーナーがある。

この頃になると週末の数時間、そこに座った。

事務所に通い始めて3年目

「どう?会社を辞める気はなくなった?」と聞かれた。

そう言えば私、退職するかどうかを占ってほしくて

此処に来たんだった。

「あ、いえ・・」

「今は辞めたい気持ち無くなってるわね」

「え?あ、ハイ」

「でもね、来月辺りからまた迷いが始まるわ。

 どう?占い一本でいく?アナタならやっていけるわよ」

「え?来月?」

マダム羽衣のお告げ通り、

私は翌月から職場の人間関係に悩まされ

5か月後に退職した。

半年間は占いコーナーを週3回担当、

後はオーナーの秘書として働いた。

その間に様々なスピリチャル系の本を読むよう言われ

理解できないところはレクチャーを受け

そこから2年間マダムの鑑定に常に帯同した。

オーナーは命盤やカードで占っているというより

クライアントの問題の本質を感じ取っている、

クライアント本人さえ気づいていない心の中を

読んでいると確信した。

そこからまた2年が過ぎた頃

「ヒカリ子、来週からS駅の地下に座ってみて」

と言われた。

連れていかれたS駅の底のような場所に

不思議な商店街があり、

その奥に高さ1m20cmほどのパーテーションで仕切られた
コーナーがあった。

壁には美しい森の風景が描かれたタペストリーが掛けられ

テーブルとお洒落な椅子が3脚置かれていた。

場所の案内が終わると、マダムは

キリっとした顔でパーテーションの周りを

ブツブツ言いながら行ったり来たりし

「ハイ、これで良し!

 じゃ、頑張ってね」と帰って行った。

コーナーの中を掃除し、花を飾り

PCやタロットカード、鑑定用紙などを用意していると

和服の女性が入り口に立っていた。

その人は珍しい柄の羽織を着ていた。

「あ、こんにちは、直ぐに準備しますので

 お待ちください」

「どうぞ、お待たせしました」

静かに椅子に座った女性は

俯いたまま小さな声で話し始めた。

「あの、どこから話したら良いのか分からなくて

 わたし、あの」

「大丈夫ですよ、ゆっくりお聞きしますから」

「ありがとうございます。あの、夫が他界いたしまして・・・

 お恥ずかしい話ですが、その、薬を、あの、

 ヒロポンを過剰に摂取しまして・・」

「ヒロポン?あの覚せい剤のヒロポンですか?」

「はい、まだあの頃は合法的な薬で、入手も簡単でした。

 主人が亡くなった次の年に非合法になりました。

 もっと早くその法律ができていたらと悔しくて」

『合法だった覚せい剤があって、それが違法になった年・・』
テーブルの下で素早くスマホを操作した。
1951年・・・

そう思った瞬間、変性意識に陥った。

身体が自然に前傾していくと、女性の家の中が見えてきた。

女性はアサヒと呼ばれていた。

平屋の四畳半と六畳二間の借家に

姑のキクと夫のカツミと三人住まい

子供はいない。

子供がいない事で、キクはネチネチとアサヒを責めた。

カツミは仕事から帰るなり酒を呷っては寝てしまう。

アサヒとキクは仕立物の内職をしていたが

この内職の時間がアサヒにとっては負担だった。

キクは折に触れ、いかに自分の実家が裕福だったかを自慢し、

最後は決まって愚痴りだし、苛立ち、嫁に怒りをぶつけた。

「アサヒだなんて縁起の良い名前だったから

 占い師が『この嫁なら家運が上向く』というものだから

 貧しい家の出のお前を嫁に迎えてやった。

 どんなに良い事が起こるか待っていたのに。

 私が一人で苦労してカツミさんを大学まで出したのに

 世の中がこんなに変わってしまって

 カツミさんも荒んでしまった。

 世が世なら大会社の社長にだってなれたのに。

 それをこんな嫁を貰ったお陰で、

孫の顔も見られないなんて」


ブツブツ始まるキクの愚痴はだんだんエスカレートし

日毎にネチ濃さは増し、アサヒの胸を抉った。

隣の六畳間で夫のカツミが目覚めている気配に気づかないのか

わざと聞かせているのか?

キクのいたぶりがあまりに酷い晩には

カツミが襖を勢いよく開け、

時には足で襖を蹴飛ばし「水!」と叫ぶ。

「あらあらカツミさん、気が利かなくてごめんなさいね。

 お水ね、全く気が利かない嫁だから

 はいはいお母さんが、今お水を持って行くわね」

キクは猫なで声でカツミの機嫌を取ろうとする。

「ウルサイ!寝ろっ!」

その一言でようやくアサヒの地獄の時間が終わる。

これが毎晩のお決まりだった。

「夫は優しい人なんです、わたしもその優しさに惹かれました。

 だから世の中が引っ繰り返るようなこんな時代を生きるのは

 アノ人にとっては地獄でしかなかったんです。

 軍隊生活も優しい夫にとって、辛い事ばかりだったと思います」

羽織姿のその女性はさめざめと泣いた。

「ご相談はご主人の事ですか?」

「いえ・・・わたしとお義母さんの事です。

 姑は、わたしを恨んでいますでしょうか?」

『え?今さら?恨むも何も・・・

 それに恨むとしたら、アナタがお姑さんを恨むのでは?』

「わたしは夫が大好きでした。

 夫もわたしの事を大事にしてくれましたし、幸せでした。

 だからお義母さんのことも一生懸命、わたしなりに好きになろう

 大事に接しようと必死でした、でも・・

 戦争が終わり、夫が無事に帰って来た途端

 お義母さんは、それまで一人暮らしをしていた田舎から

 狭い借家住まいのわたし達夫婦の所へ

 いきなり引っ越して来て・・

『私はもうあと何年生きられるか分からない

 戦争を生き延びたのだから

 これからは好きなように生きようと思う。

 それが許される時代になったんだから。

 アサヒさん、力を合わせてカツミさんを支えましょうね』

 お義母さんはそう言ったんです。

『力を合わせて支えよう』って」

二部屋しかない狭い家の中で、さっそく寝室が問題になった。

始めこそ玄関の隣の四畳半にキクが寝ていたが

隙間風が寒い、通りの人声が気になって眠れないと言い出し

では奥の部屋をお使い下さい、わたし達が四畳半に移ります

と提案すると

一家の主が奥の間でなくて、上がり框の女中部屋ごときに

寝るなんてあり得ないと騒ぎ立てた。

「二間しかない借家で女中部屋も何も、と呆れるばかりでした。

 結局六畳間に夫を挟んで三人、川の字で寝ることになりました。

 そんな状態で夫に求められても、

 わたしは応える事ができませんでした。

 わたし達が完全に寝るまでお義母さんが

 息を殺して寝たふりをしているのは分かっていましたから。

 それなのに孫の顔を見たい、孫を抱かせろと言い続ける義母が

 理解できませんでした」

「夫は夫で慣れない仕事に、体力も精神力もすり減らしていました。

 それでもなんとか今の生活から抜け出そう、

 せめてもう少し部屋数のある広い家に住みたいと

 仕事を給料の高い夜勤の職場に変えて頑張ってくれました」

「そんな時に職場仲間から『寝なくても働ける良い薬がある』と

 誘われてヒロポンを覚えてしまいました。

 始めたばかりの頃は、義母が夫の腕に打っては

『アサヒさんは不器用で駄目よ、私が打つわ』嬉し気でした。

『さぁ疲れが取れた?私の打ち方が上手だからよ』と

自慢さえしていました。


ところが、次第に夫の様子がおかしくなり

やがて仕事にも行かなくなって『酒!薬!』それだけしか

言わなくなりました。

日を追うごとに薬を欲しがり、お金が足りません。

内職の手間賃だけでは生活ができず、わたしはご近所の紹介で

料亭の仲居として住み込みで働きに出ました。

義母は嬉々として上機嫌でした、邪魔な嫁が居なくなり

息子と二人で暮らせるからです」

「半年ぶりに休みをもらって家に帰ると

 夫は廃人同様になっていました。痩せこけ目は落ちくぼみ

 もう立つこともできずオシメを当てていて。

 六十近い母親が、三十過ぎの息子に
『ほら気持ちいいでちゅね』などと言いながら世話していたのです。


 あまりの光景に言葉が出ませんでした。

『お義母さん、カツミさんに何したんですか?

 何故病院にも連れて行かずに、こんな・・』

初めて姑に向かって声を荒げました。


『だってアサヒさんがいけないのよ、

 妻の務めを私に押し付けて、毎晩宴会でお酌しては

 面白可笑しくいい思いしてるんでしょ?』

まるでわたしが不貞を働いているような口ぶりでした」

アサヒは近所の病院に駆け込み

往診を依頼した。

医者は『薬が抜けるかどうかだが、この状況では』と

首を振った。

「それでも、なんとしてもカツミさんを

 元に戻したい、お義母さんから夫を取り戻したい

 その一心でした」

アサヒは薬を欲しがって暴れる夫の身体を縛り

馬乗りになり、覆いかぶさり、時に頬を叩いた。
「薬が身体から抜ける事だけを念じながら

夫に嚙みつかれたり蹴飛ばされたりしながらも

必死で耐えました」


「義母は『カツミさんが可哀そうじゃないの!

 なんて酷い、夫を縛り上げる妻が何処の世界にいるの!」

そう言ってカツミさんを縛っていた紐を解こうとしました。

 わたしは姑を突き飛ばし叫びました。

『カツミさんはわたしの大事な旦那さまです、

手出ししないでください!

お義母さんのやり方は愛情じゃない!

カツミさんを自己満足、自己陶酔のための道具に

しているだけです!カツミさんを支配して

縛っているのはお義母さんじゃありませんか!』

夫の身体にしがみ付きながら、思いの丈をぶちまけました。

姑はワナワナ震えながら、それでも口汚くわたしを罵倒することはやめませんでした。

地獄絵図だと思えました。その時夫は何を思っていたでしょう」

やがて夫も落ち着いてきた。

迷惑をかけてすまない、と涙まで流した。

やつれてはいたが表情も穏やかになり

もう二度と薬はやらないと誓った。

まだ不安があったものの

夫婦二人で修羅場を潜り抜けたと思えたし

何より夫を信じたかった、

『こんな事で駄目になるような人ではない』と。

結局アサヒが働かなければ生活は成り立たず、

住み込みの仕事に戻った。

『カツミさん、お義母さん、お元気ですか。

 今月のお給金とお客様からのチップが貯まりましたので

 お送りします。

 カツミさん、体調は如何ですか?ご飯は食べていますか?

 わたしもお客様に就職先のご紹介をお願いしてみますが

  仕事は焦らず無理せず、体力が戻ってから、

ゆっくり探しましょう』

そんな葉書を投函した数日後

借家の大家が青い顔をして、仕事先に駆け込んできた。

「アサヒさん、ご主人が大変なことになってる」

アサヒは料亭から裸足で飛び出した。

無我夢中で人にぶつかり怒鳴られても

振り向きもせずに駆け続けた。

家の前は無遠慮に中を覗き込む大勢の野次馬で

騒然としていた。

玄関の狭い三和土には警官が二人

六畳間にはカツミが上向きで倒れていた。

カッと目を見開き、髪はすべて逆立っている。

「なんで?なんでなの?薬は止めてたし・・」

そう言いながら夫に駆け寄ろうとした足元で

何かが転がった。

銀色の膿盆、ゴムバンド、注射器だった。

部屋の隅で姑のキクががくがく震えながら

「知らない、私じゃない、私じゃない」と言い続けている。

アサヒと目が合うと、這つくばって近づいてきた。

「アサヒさん、私は悪くないって、この人たちに言って。

 私はただカツミさんが不憫で不憫で。

 そうでしょ?

カツミさんはお国の為に戦地で戦ってきたのよ、

命からがら戻ってきたら『お前たち復員兵が真面目に

戦わなかったから日本が負けたんだ、よく帰ってこれたもんだな

お国が負けたんだ、腹掻っ捌いて責任取るのが日本兵の

有るべき姿だろう』心無い陰口をきかれたり、面と向かって言われ 

たりしたんですよ、どんなに苦しかったか。

だから薬で一時でも嫌な思いを忘れられる、

幸せな気持ちになれるって言うんならって、

それが親心、母心じゃないいですか!

私は一生懸命、息子の世話をしただけ。

それもこれも妻のアナタがカツミさんに優しくないから

だから私が、嫁もいる息子の面倒を看ていたんじゃないの、

何故そんな眼で私を睨むのよ!

カツミさんが『最後のお願いだから、これっきり止めるから』って

そう泣いてすがるから・・・だから・・」

奥歯をガチガチ鳴らしながらキクは喚き散らした。

「それでお義母さんは親切に注射してあげたんですか?」

思いの外、落ち着いたアサヒの声だった。

「そ、そう、そうよ。これが最後の最後だから

 いつもより少し多めに入れて欲しいって。

 だから、だから・・・そしたらカツミさんが急に

 身体をのけ反らして泡を吹いて、だから、だから」

キクの目も死体となったカツミと同じ目をしていた。

大きく見開き、恐怖と狂気が入り混じっていた。

「先生!」

唐突にアサヒが呼びかけてきた。

少しボウっとしながら目の前のアサヒと目があった。

「先生!どうして?どうしてカツミさんは

あんな亡くなり方をしなきゃいけなかったんですか?

お義母さんが言ったように、わたしはカツミさんに

優しくなかったんですか?

それとも、カツミさんもお義母さんと一緒に

わたしの不貞を疑っていたんですか?だから・・」

必死に訴えかけてきた。

「ご主人はアサヒさんに『すまない不甲斐ない夫で、

君に苦労ばかりかけてゴメン』と言っています。

人の死について『どうして?』と問いかけても

 答えは出ません。ご主人がそのタイミングで

 この世から旅立つことを選びました。

 だから希望が叶った、とも言えるのです。

亡くなり方は、アサヒさんにとっては衝撃的でしたね。

ですがそれも、ご主人の計画です。

アナタが家に居ない時に、母親の手で死ぬと決めました」

「そんなにお母さんが好きだったのですか?

 そんなに母親を信頼していたの?わたしより?」

「いいえ、違います、逆ですよ。

 ご主人はとても優しい方ですね、

 だから戦場での体験は堪え切れなったのです。

 上官たちからの日常的な暴力、

 部隊の戦地での敵兵や現地の人々への暴行、略奪

 それらの事に深く傷つきました。

 争い事、人の苛立ちや怒りや悲しみといった感情が

ご主人には耐えられない痛みでした。

だから嫁姑問題にも母親に逆らえなかった。

逆らえば更にアサヒさんが辛い仕打ちを受け悲しむだろう、

母親は更に苛立ち怒るだろう、そんな母親と軍隊の上官の言動が
重なって見えたのでしょう、とても恐れていました」

「夫はわたしの辛さを分かっていてくれたんですね?」

「はい、だから、こんな形の最後を選びました。

 キクさんという方は、とても我がままな人ですね。

 全てを自分の手元において、支配したい人です。

 でもその自覚はないんです、自分はなんて不幸なんだ、

 もっと幸せになりたい、その幸せの基準は、

常に人と比べて自分が上だと思えたら幸せ

 誰よりも裕福であること、人に羨ましがられること、

女王の様に君臨し、周りにチヤホヤされる事が望みの

 貪欲な人でした。」

「ご主人はそれは違う、と母親に伝えたかった

 でも聞く耳を持たない人でしたから。

 アサヒさんが知らない母と息子の葛藤が

 カツミさんが子供の頃からずっとありましたよ」

「そうだったんですね」クライアントは少し落ち着きを

取り戻した。

「ご相談の、お義母さんがアサヒさんを恨んでいるか?

 という点ですが・・・」

姑のキクの状況を読もうと、意識を飛ばした。

夫の突然の死を受け入れられないアサヒは

黒い巨大な怒りを姑へと向けた。

「お義母さん、とうとう実行したんですね。

 わたしはお義母さんが本当に実の息子を殺すなんて

 思っていなかったから・・」

警察官がその言葉を聞きとがめ、説明を求めた。

「ええ、姑が『こんな役立たずはいない、

 薬代が嵩んで私は満足に食べる事も出来ない、

 世間体も悪いし、早く死んでくれたら楽ができる』そう言って

 わたしに夫の首を絞めろと言い募りました。

 薬はもう抜けていたんです、夫は働くことにも意欲を見せて、

わたしに仕事先を見つけて欲しいとまで・・

それなのに・・そういえば姑が生命保険がどうの、

死んでくれたらお金が入るから楽になるとか何とか・・

家計や書類など難しい事はお義母さんが取り仕切っていたので

詳しい事は何も分かりません

夫に生命保険が掛かっているのどうかも知りませんし」

アサヒは訥々と話した。

キクは地団太を踏んで悔しがり「嘘だ!私はそんな事言っていない、

殺そうとしたのはその女だ!

息子が邪魔になって、それで・・・」叫び続けた。

「もう何がどうなろうと、どうでも良かったんです。

 姑は警察に連れていかれる途中、心臓発作を起こし

 あっけなく死んでしまいました。

 義母は、わたしを恨んでいるんでしょうね」

夫と姑の遺体を斎場に運んでもらい、

たった一人で遺骨を拾い、姑の骨は骨壺のまま

川に投げ捨てた。

「もっと清清するかと思ったんです、

『ざまぁみろ』と悪態をつきました。

でも涙が止まりませんでした、何故あんな姑の為に

泣いてるんだ、と自分を忌々しくも感じて・・

それで、それで、わたし、きっと頭が変になってしまって。

通りすがりの男に求められまま、体を売りました。

それが噂になり、近所の男たちまでが夜ごとやって来ました。

町中に知れ渡り、大家さんに家を追い出されました。それで、あの」

「アサヒさん、大丈夫ですよ、大丈夫、

辛かったら無理に話さなくていいんですよ」


アサヒは夫を救えなかった自分、

夫の命を奪った姑を陥れて死に追いやった自分を罰していた。

もう彼女の心は空っぽで、痛みも哀しさも何も感じられず

抜け殻だけがフラフラとさ迷い歩いた。

最期は夫の命日に、遺骨を抱えてS駅側の踏切から電車に飛び込んだ。

「アサヒさん、キクさんがアナタを恨んでいるか?

 というご質問にお答えしますね。

 キクさんは亡くなる瞬間に息子さんに会っています。

 会っているというか、息子さんがお迎えに来ました。

 『母さん、心配しなくて良いんだよ、一緒に行こう』って。

 だからキクさんは最期に幸せを感じていましたよ」

「そうですか・・」

アサヒは少し複雑な表情をした。

「コレをご存じですか?タロットカードと言います。

 私がいつも占いに使っています、こうしてね」

ヒカル子はタロットの束をシャッフルすると

テーブルの上に扇型に展開した。

「さぁ、この中から1枚引いてください。

 裏返しのまま、ハイ、ではこのカードですね」

アサヒの引いたカードを手に取ると

表の絵柄が見えるように返した。

「あら素晴らしい!これは『審判』というカードです。

 『復活』を意味しています。天使がラッパを吹いて

 死者が蘇る、復活する様子が描かれています。

 アサヒさん、ご自分を罰するのはもう止めましょうよ。

 ご主人とお姑さんは今、生まれ変わってこの世に居ます。

 アサヒさんもそろそろ新しい身体で生まれ変わりませんか?

 宜しければ、私がお手伝いしますが、如何ですか?」

「・・・お願いします」

「はい、承ります。ではご一緒にこの上に行きましょう」

ヒカル子は商店街を抜け、エスカレーターで地上に出た。

人が多すぎると感じ、隣接の高層ビルの屋上へ移動した。

アサヒの姿は地下の時のようには見えなかったが

そこに立っているのは感じられた。

静かに目を閉じて、アサヒが光に包まれるイメージをした。

その光が青空に向かって昇って行く。

『アサヒさん、長い間お疲れ様でした、サヨウナラ』

アサヒがこちらに笑顔を向けたように感じた。

ホッと安心したような、どこか納得できていないような、

不思議な微笑みだった。

地下に戻って来ると、商店街が消えていた。
ナルホドネ、ソウイウコトデスカ

コーナーの椅子に座り、ホッとした瞬間スマホが鳴った。

「お疲れ様~、初日からかなりヘビーな案件だったみたいね」

オミトオシナンデスネ

「はい、無事にお見送りしました」

「そう、じゃあ今日はもう上がっていいわ。

 美味しい物でも食べて帰りなさい」

  「は~い、ではこれで上がります」

コーナーを閉め、帰り支度をしていると

いきなりカツミとキクのヴィジョンが観えた。

二人は今生でも親子、ただしカツミが母親でキクが娘。

二人が住むマンションの前に救急車が止まり

カツミの魂を持って生まれた母親はオロオロと

ストレッチャーの後を追いながら

「すみません、すみません」と居合わせたマンション住人や

救急隊員に何度も頭を下げ続けた。

キクが生まれ変わった娘は、リストカットとオーバードースで

3度目の救急車騒ぎを起こした、その現場だった。

フゥ~~、大きく息を吐いて

ヒカル子は地上へと戻った。

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