推しカプ曼荼羅

最近はずっと推しカプについて考えている。
推しカプがあると人生ってとてつもなく楽しい。
毎日毎時間毎分毎秒推しカプについて考えちゃう。

わりと単体推しになりがちな自分。
単体推しだと自分の運命の相手なのでは?とつい錯覚してしまうのだけど、推しカプの場合はすでに運命の相手がいる状態で自分が入り込む隙間がない。そこに少しの寂しさも覚えつつ、好きなキャラ同士が愛し合っている様は健康に良い。

しかし推しカプについて考えていると、ある問題が浮上してくる。
どうしても目に入ってしまう「逆カプ」という言葉。
「公式と逆カプかもしれない」みたいなライトな感想がその日は流れていた。
いや逆ってなんやねん。カップリングにハマってもいないのに逆もクソもあるかと、もうねアホちゃうかと。信念なしに逆カプとか抜かすなや。自分の信じたカップリングがいつでも「正」に決まっている。それをわざわざまるで相手が間違っているみたいに言うなと。そもそも公式でカップリングの左右に言及されてるならまだしも、だいたいのカップリングは憶測に過ぎない。公式によって左右固定されてからちゃんと「逆カプ」だと指摘すべきである。

自分が精魂込めて作り上げたカップリングが「逆」などとそんな一言で片づけられていいわけがない。だいたいにおいて「逆カプ」には少し冷やかしのニュアンスが含まれている。王道カプにハマるのはニワカだとか、単純だとか、不特定多数のつまらない人みたいな括りをされる。それは「みんなわかってねぇな」と天ぷらや寿司を塩で食べる人の感覚。つまりわざわざ「逆カプ」と指摘するのは麵つゆ派や醤油派に唾を吐くような行為なのだ。

表に出ろ。剣を持て。これは決闘である。常に自分の中に軸を持て。王道とかマイナーとか関係ない。どれだけそのカップリングに魂を捧げているかという狂度の問題なのだ。少数派であることをアイデンティティにするな。この世にはそもそも逆カプなんて存在しないのだから。

と思いつつAB派にとってBA派は確かに逆カプである。
しかし私にとってはそんなことはわりとどうでもいい。
世界に愛し合うAとBが存在しているという事実だけあればいい。
そしてAとBにもそれぞれの人生があり、たまたま巡り合った一つの可能性であるといい。だから背景には無数のカップリングが存在している。

そう言うならば曼荼羅。中心にAが存在する曼荼羅とBが存在する曼荼羅が存在し対になっている。曼荼羅が宇宙の真理ならば中心におかれるのは勿論太陽である。Aという太陽を中心として惑星たちは回り、Bという太陽もまた地球に多大な影響を与えている。その太陽同士が組み合わさっているのが推しカプなのだから大正義である。

曼荼羅には無数の円が存在する。円には上下も左右もない。当然固定することもできないのだ。愛する推しカプは天地無用のシールが張られた段ボールではない。

例えばAが華奢な体型だったとする。Bはムチムチボディの持ち主だ。
BAであれば小さなAの体を大きなBが抱きしめるカップリングとなる
ABであればAが小さな体で大きなBを抱きしめるカップリングとなる
そこに何の違いもありもしないだろうがッ!!!!!!!!!!!!!
どちらも二人が健気なことには変わりがない。
愛する存在に抱きしめられるのが愛ならば、愛する存在を抱きしめるのも愛なのだ!!!!!!!!!!

身を捧げる生贄と身を賜る神様、どちらに愛があるかなんて人間の尺度では測れない。

何が言いたいかというと推しカプというものは神聖不可侵のものであり、他人がとやかく言うべきものではないのだ。自分のカップリングが正しいと言うのも誤りであり、他人のカップリングが間違っていると言うのも誤りである。円には逆は存在しない。星にも宇宙にも上下左右は存在しない。便宜上つくられた尺度に合わせる必要もない。

今日も推しカプは宇宙だった。正解のない未知の領域である。
地球上から発信された電波信号を受け取って今日もツイッターに勤しむ。



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