インド紀行2019

朝は知らないおじさんの近所から聞こえる声で目が覚め、夜はお祈りが続く。道が混んでいてもインド人は私を押しのけて前に進もうとする。遠慮しなくていいんだ、そう思ってからインドの旅がもっと生き生きとし始めた。

ガンジス河
インドは広い。言葉も料理も文化も様々だ。その中で私は、北インドのバラナシというヒンドゥー教の聖地である場所に再び赴いた。二年前に行ったときは北京を経由しデリーからバラナシへ向かった。東京で深夜便を待つ私と友達は、インドに行くことへの怖さを軽減させるために「私たち、今から楽しい旅行をするんだよね」「うん。友達同士の旅行だよ」と言い合って心を落ち着かせようとしていた。北京からデリーへ向かう飛行機内はほとんどがインド人で、「いいなあ。彼らの祖国じゃんインド」と着いてもないのに始めから不安な気持ちがあった。しかし今回はバラナシ空港に到着した瞬間、かなり心落ち着いて周りの様子を見ることができた。やはり一回行ったことがあるというのは心強い。なんせ二年前はインド人のタクシーやトゥクトゥクの運転手が柵の向こう側から食ってかかるように叫んでいて、空港から出たくなかったのだ。
(今回は三角という友達との旅だった。以下彼女のことを△と表記する)

私は旅をするときに気をつけていることがいくつかある。一つ目はいい人かっていうのは顔を見ればわかるから話しかけてくる前に自分からいい人っぽいのを見つけて道を聞くことである。これは注「ガンジス河でバタフライ」の著者であるたかのてるこさんが言っていた。二つ目は、なんとなくやばそうだったら逃げる。これは私の薄情さを告白するようで心苦しいが、日本でもなんか不吉な予感がすると友達を置いて自分だけ逃げる。仕方ない。三つ目は目があったら挨拶する、というもの。これは強制的にしているわけではないが心掛けることでうまくいくことが多い。

バラナシとはどんな街かと問われると、ガンジス河がありますよと答える。ガートでは朝から沐浴や洗濯、子供たちが遊んでいる様子が見られる。細く複雑な道には、バイクのクラクションの音、人々の視線、牛に出くわしたりうんちに出くわしたり犬が歩いていたりする。代表的なのは、火葬場で焼かれる人間とその灰や体を包んでいたオレンジ色の布に群がる野良犬や牛。遺体を焼く人、観光客の目、そこから薪代をふんだくろうとする人。ガンジス河を泳ぐ人、ガンジス河でとれた魚が並ぶフィッシュマーケット。混沌、カオスという言葉で表現されることが多い。

ガンジス河のガートには火葬場が二箇所ある。私は小さな火葬場に行き、炎で空気がユラユラ揺れる向こうの煙をぼーっと見ていた。団体旅行の欧米の観光客とは一線を画そうと、私は強制的に死や生を考えようとしていると一人のインド人女性が隣に座り込んで話しかけてきた。見ると彼女の目が黄色っぽいのが気になった。「カントリ?」インド人英語の癖だ。私はジャパンと答える。「ジャパン!」彼女のニコニコ喋る姿が、ヒンディー語特有のコロコロした感じとよく合っていた。新しい遺体が運ばれてくるのを横目で見ながら、彼女の携帯で私たちは記念撮影をした。写真を撮るとダンニャワードと言って彼女は去っていった。その後も火葬場には、観光客たちが何組か見に来たり、今から遺体を燃やそうという炎の熱で、少年たちが水に濡れた凧を乾かしているのを見かけたりした。それに対して△が「子供たちかわいいねえ」と言った。

真っ赤な朝日を待ちながらガンジス河をボートで漂っているとすいっと死体が現れた。「あれ、、」
自分一人だけだと確信を持てなくて△に伝えた。私は実際この目で見るのは初めてで、大きな物体が流れてきてなんだろうと見るとサリーを着ていた女性だった。彼女は死んでいるのに冷たさを感じているように思えて、胸のあたりには血管が緑色に鬱血していて、それが胸の膨らみをより強調させていた。

その日の午後また火葬場に行き、布に包まれた遺体が燃えるのを見た。燃えやすいように木が組まれ、火種になる枯葉のようなものをすき間から投げ入れられた。その遺体自体はもちろん見えないのだが、三人の男たちが頭、胴、足をそれぞれ持って運んだ。私はその様子を見ながら、昆虫の体の構造を思い出した。そして燃えるにしたがって布が焼け、木の上からは手首より先の部分が露出した。私と△はその右手の部分がポトっとなくなるまでじっと見つめた。私はインドに来て少なくとも五人の死に関わった。家族の死を他人に見られるなんて嫌だなと思いながら、目の前で淡々と行われることが彼らにとっては毎日のことであるのだと思い出した。ガンジス河には無数の知らない死があった。その死の中には子供の遊び声や凧や私たちの会話もあっていいのだと思った。

私はインド人の友達に連れられて親戚の家にお邪魔する機会があった。そこには八十過ぎのおばあちゃんがいて彼女はあまり笑わなかったが、手を触ると握り返してくれた。そして家にはぞくぞくと親戚の子供たちが集まり、インドの甘いお菓子を食べながら賑やかなときを過ごした。しばらく経って、その部屋の中で布団に横になったおばあちゃんの呼吸音が不思議な存在感を持って耳に聞こえ始めた。口に心臓があるかのように大きく息をしていて、一息一息するたびに死んでしまうのではないかと思った。でも子供たちはおばあちゃんのこの姿には慣れているようで、気にせず部屋でジャンプをしたり大声で笑ったりしていた。私はこの部屋で起きていることと火葬場でのことが重なってバラナシを知ったような気がした。

バラナシというのはなんとも不思議な街で、やけに馴染むのだ。ガンジス河を見るたびに、自分がこの街の一部になっている気がする。△も二日目にして早速「慣れてきたわバラナシ」とつぶやいていた。

朝の早い時間にガンジス河に行くと、沐浴している人を見ることができる。水をバシャバシャと激しいお祈りをするおじさん、グジュグジュ口をゆすぐ人、歯磨きする人。なんといっても私はインド人のおばちゃまたちの姿がとても好きである。女性同士並んで沐浴したり、夫婦で沐浴したり色々であるが、服はもちろん来たままだ。原色の鮮やかなサリーがガンジス河の中で一際目立つ。そのあとはサリーで(三つにセパレートできる)うまい具合に体を隠しながら着替える。櫛で髪をとかし、お腹だけいやに恰幅のいいおばちゃまたちの去って行く姿を最後まで観察していると、きっと沐浴してみたくなるだろう。

ガンジス河を眺めることは毎日の日課だった。私にはもちろん日本の生活があり、これまでにも様々な国に行ったのに自分がこの風景を見ていることに何の違和感も持っていないことに気づいた。そして、おばあちゃんの言っていたことが思い出された。

「小さい頃、さりとお兄ちゃんが歌を歌ってくれたことをやけに覚えているんだよね」
その話をするたびにおばあちゃんは
「なんかあのときの光景をずっと覚えてるんだ」と言うのだ。人はこんな一つの思い出で、生きてこれるのだとそのときびっくりした覚えがある。そしてバラナシという街で、私はガンジス河でお祈りをしている人たちを一生心に写したい、心の中に浮かべ続けたいと思った。

信仰
インド人のサンちゃんという友達がヒンドゥー教のお寺に連れて行ってくれた。誰か知っている人と行った方がいい、という忠告は確かに当たっていた。というのもヒンドゥー教徒ではない私がそこに一人で行くのはやり方もわからないし、彼らにとって大事なことなので冷やかしでは行くべきではないからだ。サンちゃんが週一で行くお寺には、バラナシの細かい路地を曲がって曲がって十分ほど歩いてついた。油とお花を買い、十ルピーを持ってお寺の前に来ると「絶対離れないでね」とサンちゃんに険しい表情で言われ、「誰かに話しかけられてもついていかないでね」とも注意された。サンちゃんの背中に張り付きながら見よう見まねであとに続いた。入り口では地面に頭をつけ、しきりを踏まずに入り、ドアの上の方を触る。中はインド人でごった返して本当に右にも左にも人だらけ、なだれこむようにして列に並んだ。手を合わせ口を動かし祈る人、我が先と自分の行きたい方向にぶつかる人、私はここでインド人の人口の多さを初めて実感した。そして人々の多さとお参りの仕方に圧倒されながら、はぐれないように気をつけた。サンちゃんが触る場所にはすかさず触れ、お坊さんには棒のようなもので三回背中を叩かれ、手首と首には黒い糸のようなものを巻いてもらった。手順が多く意味を考える間もなかったが、おでこの真ん中にオレンジの点をつけてもらったのは嬉しかった。同じ順序で寺を出ると、近くの店で今度は白い物体を数個買った。匂いを嗅ごうと鼻を近づけると「食べちゃダメだよ。それを犬にあげて」と言われたので、甘い匂いのするそれを道にいる四匹の犬に適当にあげた。サンちゃん曰く、これは自分の良くないところを犬に食べてもらうのだそうだ。「なんで犬なの」と聞くと、この神様の乗り物が犬らしいのだ。犬たちはガツガツと食べてくれた。

朝はお祈りを見てインド人が集まるヨガをする、という流れができてきた。アッシーガートという上流側のガンジス河の横で毎日八十人くらいでヨガを行うのだが、朝日を浴びながらエネルギーを一身に受けるのは気持ちが良い。これは笑いヨガと呼ばれている通り、終盤でハハハハハと強制的に笑う。インド人のおじさんが先陣を切って笑いだすのが本物の笑いに変わっていくのが面白くてくせになるのだ。

こうして朝のルーティンが終わり、道を適当に歩いていると一つの建物に向かってインド人が入っていくのが見えた。私も流れに沿って立ち寄ってみるとそこには千人くらいが入れるような空間が広がり右側には女性が、左側には男性が座っているのが見えた。何が始まるのかわからないまま立ちすくんでいると、一人のインド人女性がナマステと声をかけてくれたので、彼女のあとについていくことにした。周りにはインド人しかいない。視線を感じ、目が会うたびにナマステと手を合わせてつぶやくと、彼女らはナマステと返してくれた。だいぶ人が会場内にうまってきたところでお祈りの時間がはじまった。みんながお祈りセット[赤とかオレンジの眉間につける色粉、水、聖典のようなもの(分厚い本にヒンディー語が並び表紙にはシヴァ神が描かれていた)、神さまの化身?のようなミニチュアサイズの置物]をカバンから取り出した。そして黙々とその置物に水を何回もかけ、その神様にしたたった水がお皿に溜まるとみんな一斉に飲んだ。私はギョッとした。その後はヒンドゥー教の唱え事のようなものを読んだ。冗談ではなく二時間半は続いた。みんなが休みもせずにヒンディー語で書かれたそれを目で追い、声に出す。最初は興味深く観察していたのだが、途中から仏教のお経にも言えるように眠くなった。そして何ページに一回かのタームで手を上にあげながら叫ぶ声で飛び起きる。それを繰り返していると自分が今どこにいるのかわからなくなっていった。
「ここはどこだ、ここはなんだ」
二時間半そこにいたが耐えられなくなった私は、朝からの水分不足のため途中退場した。勝手に参加したのに途中で抜けることを申し訳なく思ったが、彼女らにろくにあいさつもできなかった。インド人のヒンドゥー教に対する眼差しが垣間見れたと同時にその二時間半の間に、信仰には体力が必要だと強く感じた。

実を言うとヒンドゥーのお寺に行く前にムスリム地区と、ムスリムマーケットに行ったのだ。以前中東に行ってからイスラム教が自分にとって興味の一つになっていた。地区の方はムスリムの方が住んでいて、本当にそこだけインドの部分とは別な感じがした。ガンジス河では歩いているだけで話しかけられるのに、ここでは私を誰も気にせず、迷いこんでしまった異物感があった。そして道を歩く人の服装が明らかに変わっていることに気づく。中東で出会ったムスリムの美しい姿を思い浮かべた。歩いていてたまたま部屋から出てきた男性と目が合い、思わずナマステと挨拶するとNoナマステと言われた。これはあくまで一人の意見にすぎないが、彼はインドでのムスリムのことを教えてくれた。
「パキスタンとインドは仲が悪い。カシミール。モディさんイスラム教徒デストロイしてくる」
彼と話したあと、そのエリア内では道行く人に向かってアッサラームアライクムと挨拶すると彼らはワアレイクムアッサラームと返してくれることがわかった。
その後は、マーケットに行った。そこは服屋から食べ物、お土産、などさまざまなものが売っていて安く売られている。私は歩いていておそらく自分自身の鼻がピンときたのだろうか。インドに来て初めて肉を見た。バラナシでもチキンは食べられるのだが(ヒンドゥー教徒にとって牛は神様の乗り物、豚は不浄としている)バラナシはベジタリアンの聖地なのでこれまで入った店ではチキンもなかった。曲がり角に突き出た店には、右側にはチリ味のチキンカリーと、左側にはパクチーの入った焦げ茶色っぽい色のカレーがあった。「what’s meat?」と左側を指すとおじさんは「buffalo」と聞こえた。全く予想していない答えにもう一度聞く。「buffalo」私はここで食べない訳にはいかなくて頂いた。バッファローカレーは味付けも含めてインドで初めて食べた味だった。
そして食べてから、大変なことをしてしまったと思った。サンちゃんには「お寺に行くから体をベジタリアンにしといてね」と前もって言われていたのだ。どうせ肉を食べないと思っていたので油断していた私は焦って宿に帰ると歯を磨き、シャワーを浴びて、お寺に行くことになった。「肉を食べてしまってすみません」と終始その寺の神であるカルバロに向かって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

私はインドにいるとき、自分がインド人だったら、インドで生まれていたら、という妄想を日に数回していた。一枚布を纏ってゆったり歩くインド人のお母さんやサイクルリキシャーの眼光鋭いおじいさんを見て、様々な人生があることを思い知る。そしてもし、という妄想は絶対に実現されないことを思い出す。私がバラナシという街に思いを寄せて素晴らしさを説けば説くほど自分がまた日本に帰って行くのだと証明している気がした。そしてヒンドウー教のところに行けばヒンディー?と聞かれ、イスラム教徒にはムスリム?と聞かれたが、私はなんだ?
旅の最中この問いが常に頭にあった。

バラナシでは毎日忙しくしながらも、露店で果物を買い、カレーを食べ、なるべく△ともインドの感想は言いすぎず、自然に生きようとした。

私は神様というものに対して、もっと偉大なもので、崇拝するという想像をしていた。ハハー神―というような。しかし、サンちゃんとお寺に行ったとき「神様に悪いものから守ってもらうんだよ」という言葉を何回か聞いた。また、インドの子供の目元がアイラインでかかれていたのを街で見かけたが、それは悪いものからプロテクトするという意味合いがあるらしい。守る、そばにいる、という私の中で神様のイメージが少し変わったとともにインド人自身も把握しきれていないたくさんの神様に、少し親近感を覚えた。シヴァ神をスマホの待ち受けにしているインド人と神様のスティッカーを車に貼っているインド人を見かけた。しかし同時に自分が服装で宗教を判断していることに気づいた。私は街でムスリムマーケットを探しているときにニカブをきたムスリムの女性に話しかけた。「アッサラームアライクム」となんの気なしに話しかけると彼女は目の動きだけでもわかるくらい不快な表情をし、その場からサッと行ってしまった。私は、服装によってナマステとアッサラームアライクムを使い分け、次には食べられるもの食べられないもの、と安易な情報でインドをこちら側で勝手に分断してしまった。

旅の中で、三五年前にインドに来て以来で久しぶりだなと言っていたおじさんがいた。私は昔を知っていることに羨ましさを覚えた。もっと早く生まれていればと思うことがたくさんあるが、これからのインドを見れるのだと若者の特権を胸に生きようと思う。そして二〇一九年の記録として書いておきたいことが二つある。まずはバラナシについた初日、モデルの水原希子に出会った。来年から始まる番組の撮影で来ていたらしい。テレビで見るよりもチャーミングでより一層ファンになった。そしてもう一つは、「カントリ?」と聞かれて「ジャパン」と答えるとshinzoというワードがインド人との会話に何回か出てきた。安倍晋三とインドの首相モディさんがインドにて会談を行ったことで話題にのぼったのだ。

最後に
こうして日本に帰ると、あんなにも馴染んでいたバラナシが既に幻のようだ。インド人女性のサリー姿や、yesの意味で首を横に曲げる仕草が恋しい。日本に帰った瞬間違和感なく使えるトイレや習慣が、自分が日本のこの家の一部となっていることを思い知る。たった一週間、一ヶ月の旅じゃ矯正されない。そりゃそうだ。それでも帰国した夜はインドの音がガンガンうるさくて眠れなかった。洗濯するのが面倒臭くて洗わないでおいたズボン(おそらく四日間は履いた)が少しションベン臭くて、ガンジス河のガートの近くの壁の匂いと同じだった。そして洗濯機から出た水はガンジス河と同じ色だった。旅の最中、ある日本人が「インド人記憶力もいいのに、効率悪くない?他の仕事とかすればいいのに」と言っているところに遭遇した。インドを自分の拠り所にしていると見せかけて、かなり日本人本位で発言していて私はムカついたのだが、次の日その人は一日だけ酷い下痢になった。ザマーミロ。という私もお腹の調子が未だに良くならない。


私は右の手のひらにカレーが流れているのを見た。左の手のひらにはうんちが流れていた。そして両方の手のつながった生命線を見て、確かにガンジス河があったことを思い出す。

 注THE BLUE HEARTSの情熱の薔薇より歌詞の一部
 注たかのてるこ作ガンジス河でバタフライ


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