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40歳で別人に生まれ変わった人生のふりかえり【2024.05.03更新】


【2024.05.03更新】

こんにちは!サカモトヒロキです。
自分という人間を深く知ることで、より未来を楽しめるのではないかそんな気持ちで、嬉しいことも、そうでないことも含めて、自分のこれまでの人生をふりかえってみました。

今回3万文字超えで自分のこれまでをふりかえってみると、忘れていた大切な出来事を思い出せたり、最近なかなか感じられていなかった喜怒哀楽の感情を心身に響かせることが出来ました。

また40代の今になっても、自分ってこういうところは変わってないなという過去から繰り返される癖や行動がいくつもあると気づきました。

やはりハイライトは40歳で大きな転機を迎えたことです。

プロコーチになったタイミングでもありますが、今は、40歳になる前の自分も、その後の自分も、どちらも大切にしてあげたい気持ちでいっぱいです。

フツーの会社員だった私が40歳で別人に生まれ変わったストーリーをご覧ください。

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プロコーチ サカモトヒロキ

幼少期(1980〜)

【ゴミ収集車が憧れの職 !? 幼少期の私と家族のちょっと変わった話】

1980年12月13日に神戸市で生まれました。
父が市役所職員、母が保母さんという中流家庭で、3歳上の兄と2歳下の妹がおり、私は次男坊として育ちました。家族で出かけるイベントは少なく、祖父母の家以外では、父の勤める市役所の提携している市内の保養所をまわる程度でした。家族で車の旅行どころか新幹線にも乗った記憶がありません。

私は生後数ヶ月から赤ちゃんのあずかり施設で生活し、その後、保育所に入園しました。園から見えるゴミ収集車を眺めては、友人と「大人になったらあれ一緒にやろうな」と話していたそうです。
当時のごみ収集は大人が二人掴まったまま移動して、ゴミ収集車から飛び降りて、また飛び乗って移動ということが当たり前に行われていました。そんな忍者のような軽やかな動きが、子供ながらにかっこいい職業に思えたのでしょう。

5歳の1年間は幼稚園に転園しました。私は生後すぐに集団生活を始めて保育所の経験もあったため、幼稚園が初めての集団行動となる他のクラスメイトをみて、なんでこんなことも出来ないのだろうとかなり驚いたことを覚えています。

例えば遠足に行く日に、見送りに来てくれたお母さんに泣きながら抱きついて離れない友人がいてドン引きしたり、お遊戯会の練習の途中で「今日、幼稚園終わったら家で遊べる?」と聞いてきた友達がいて、案の定、帰りの会で2人とも立たされた時も同級生の思考の浅さに疲れる場面が多かったです。そういう冷めた感じで、未就学時代を過ごしました。

2年くらい体操教室にも通いました。
スイミングが人気だったのですが、先に習っている友人に負けるのを嫌がって体操を選びました。この頃から人の評価基準で意思決定する癖がついていました。先生から「ヒロキはカラダがかたい」となんども言われ、苦手意識を持ったまま習っていました。才能がないと思い、体操教室は幼稚園でやめてしまいました。

その後に書道教室に通わされました。
先生が厳しくおしゃべりもできないので楽しくありませんでした。また兄と妹がたくさんの賞を取る中で、私は2回しか賞を取れなかったことも楽しくない理由でした。

6年間も真面目に教室に通っても上達しなかったので、自分のセンスのなさに絶望しました。習字教室に行ったことのない字の綺麗な人に会うたびに、自分のあの6年は他のことに使えばよかったと思ってしまいます。

地元神戸

小学校低学年時代(1987年〜)


【おばあちゃん先生と秘密のビックリマン作戦】

小学校に入学した私は、新入生代表の挨拶をすることになりました。
その後、生徒会活動など多くの場面で人前で話すことになるのですが、その原体験がこの日でした。
入学式の後、各クラスに別れますが、通常は4クラスの学校なのに、少子化により3クラス編成になるとの発表がありました。変なテンションで騒いでいるクラスメイトを横目に「窮屈だな〜」と冷めた気持ちで過ごしていました。

「どんな先生かな〜」と思っていたら老婆が教室に来て「今日から担任になります」と自己紹介を始めたのでひっくり返りました。「俺のこの1年はオワッター」と思いました。小1でこんなやつに出会ったら、今ならぶん殴ろうかと思うようなひどい性格の子供でした。

学業は平均的なレベルでした。塾には行かずに、ずっと独学で過ごしました。塾は明確に成績が順位で出るので、私がそれを嫌がったことが一番の理由です。格好悪いところを人に見られないようにするために、できるだけ逃げる戦略をとるタイプの子供でした。

学校のすぐそばに灘中高があり、天才型の子供は灘受験の専門塾に通っていました。彼らは3桁かける3桁を暗算で出来たり、中学生で習う漢字を全て書けたりして、同じクラスで学びながら、自分が勉強で上位にいける気がしませんでした。

運動は得意意識を持っていました。習字しか習っておらず、ファミコンもなかったため、時間がありました。神社に秘密基地を作ったり、川でメダカをすくったり、都心に住んでいる割には自然の中で走り回って遊ぶ子供でした。授業でも体育は遊びと思って楽しく過ごせました。

小学校のときに得意でよく褒められたのは絵を描くことです。自宅でも父親がよく絵を描いていて、今でも実家には父の絵がたくさん飾られているのですが、それを面白がって小学生時代はよく父と一緒に週末に絵を描いていました。そのため図画工作の授業も休み時間のような感覚でした。

両親は仕事で忙しくあまり家にいませんでした。
3兄弟ですごす家の中は兄の独裁でした。最も嫌だったのが、夏休みに兄と二人で親戚の家に40日間あずけられたことでした。

兄は極度の人見知りだったので、弟の私に「叔父さんにおもちゃ買ってもらうように頼め」など、私が全く本心ではやりたくないことを命令してきました。私は全然やりたくないことだったので、辛い時間でした。

父の実家の三重県の田舎は別世界でした。
美しい杉と書いて美杉(みすぎ)村というその場所は後に林業の映画の撮影場所になるほど、自然いっぱいでよくよく考えればとても貴重な体験でした。昼に薪を割って、その場で家庭ゴミを燃やし、夜は風呂も薪をくべてお湯を沸かすという今ならお金を払ってもなかなかできないような体験をしました。

時代は空前のファミコンブームで、友達の家に遊びに行けばみんなゲームをしていました。
我が家はゲームを与えてもらえない環境だったので、友達の家に行っても、惨めな状態でした。ゲームがないこと、ゲームで負けること、お金がないことなど色々重なって悲しい気持ちになりました。

そこで私はゲーム以外で流行っていたビックリマンシールを集めて自分の存在感を保つ作戦にでました。
持ち前の交渉力で明らかに不平等な交換トレードをバンバン決めていきました。私が1枚のシールの価値を懇々とプレゼンすることで、友達が2枚、3枚と持っているもっと貴重なシールを出して交換して欲しいといってくるような、性根悪すぎるネゴを繰り返しました。

キラキラした希少価値の高いシールをほぼ全てコンプリートする状態まで集めきりました。集めることに必死だったため、完全制覇したころにはもうビックリマンシールに興味を失い、ある日なんとなく友達の誕生日会で丸ごと全部あげてしまいました。

夏休みを過ごした田舎

小学校高学年時代(1990年〜)

【クラスの星になる方法、優等生サバイバル戦略】

小学校4年生の時、小学校の中で最も厳しいと評判の男性教師が私の担任になりました。毎日1回は必ず怒鳴るというパワハラ教師でした。
私は、誰かに向けて怒鳴っている声を聞くだけで、自分がダメージを受けてしまうような貧弱な神経の持ち主でした。

私はその状況で、生存戦略として「超優等生」というキャラクターを磨き上げました。学級委員長になり、そのまま学校の生徒会にも入りました。怒られたくないがためにポジションを取るという回避戦略と、何かとイベントなどが好きという趣向がたまたまマッチした幸運な出来事でした。

小学校5年生で生徒会長となった私は運動会や文化祭のあらゆる場面で、企画運営の役割を担い、全校生徒の前でスピーチをする機会も得ました。いつも放課後に遅くまで小学校に残り、図画工作室で行事の看板やポスターを作るのが最高に楽しい遊びでした。

自作した行事の看板を見た学年主任の先生に「業者に発注する予算なんて許可してないだろ!」と怒られるほど完成度の高い作品を作ることに熱中していました。夜中まで勉強もせず、行事の進行の台本を書いて部屋で1人で司会のリハーサルをしていました。夜中にずっと喋っていたので、親からは何度もおかしくなったのではないかと心配されました。

ひとりごとが増える私を、親が心配したのは、兄が5年生ごろから不登校になっていたからです。自宅には兄の担任の先生が毎日のように家庭訪問に来るのですが、当然、兄は部屋から出ません。

その先生は「お母さんがお帰りになるまで玄関で待ちます」というので、弟の私が玄関先までストーブと座布団を持っていくということをやっていました。その頃から絶対にこんな家は出ていってやると反骨心に燃えていました。

我が家はゲームなし、テレビは30分まで、などたくさんルールがありましたが「とにかく親の言うことは全て聞け」という家でした。仕事で忙しく、親なりにストレスもあり、子供をコントロールするには他に方法が思いつかなかったのかもしれませんが、私はとても苦しかったです。

兄は親がいないときは好きなテレビを無限に見ていたので、私は兄の見るお笑いのテレビを後ろからこっそり見ていました。いつも兄が全然面白くないところで笑うのが気になっていました。私はここが面白いなと思うポイントが兄とは違うことに気がつき、その違いがあることに面白さを感じました。

それからというもの、関西ではたくさんあるお笑いの賞レースを見るときは、審査員のコメントを観察するようになりました。お笑いをやってきた審査員は、言っていることがすごく自分に近い感覚であることが分かりました。そこからお笑いのメカニズムを考察するということが大好きになりました。

中学入学時点で身長160センチを超えており、かなり足も速く、そこそこ運動に自信を持った状態で中学生になりました。しかし、この過信が大きな挫折を作り出すことになりました。

神戸ユニバー記念陸上競技場

中学校時代(1993年〜)

【失敗スプリンター、震災ボランティアで殻をやぶる】

中学でも学級委員長になりました。2年生からは生徒会に入り、どっぷりと学校のイベント運営に関わりました。

部活動は陸上部で短距離種目を選びました。しかし、女子部員3人に初日の練習で負けてしまうという衝撃の惨敗デビューをしてしまいます。他校の男子生徒との競争では、まるで歯が立たず、ボロ負けしてばかりでした。

部員が少なかったのでずっと試合には出られたのですが、3年間の陸上部生活で、何の結果も残せませんでした。

この時に走ることに才能がないことを認めて、他の部活動に路線を変更する柔軟性があればよかったのですが、生存戦略で真面目な生徒会長キャラクターでやっていたため、一度決めたことを簡単にやめてはいけないという謎の声に従い、そのまま陸上部を続けてしまいました。

野球もサッカーもやってきていないので、方向転換できなかったことも理由でした。小学校は卓球クラブでしたが中学で続けるスポーツとしては当時は人気もなく、なんかダサいと思って近寄りもしませんでした。

体の成長が中学1年生の夏休みで止まり、同級生に身長も運動レベルも追い抜かれていく中で、体育の授業でも運動神経悪い人間にカウントされるようになりました。

私の中学時代を語る上で外せないのは中学2年生の3学期の阪神淡路大震災です。神戸市東灘区という震度7が直撃した場所で、そこそこボロ屋の我が家は奇跡的に倒壊せず、半壊ですみました。

もちろん住居自体も正常に住み続けられるのかというとかなり危険な状態でした。私は同世代より明らかに落ち着いた中2だったので、取り乱すことはありませんでしたが、あの時は、飛び起きてどこか安全なとこに逃げ出すくらいの危機管理能力が必要だったと思います。

今も謎ですが、半壊した危険な自宅に、我が5人家族はその後もずっと住み続けました。自分なら即日子供だけでも祖母や親戚の家に避難させる判断をします。

小学校の頃は、イヤイヤ祖父母の家に40日間もあずけられたのに、いざ命の危険があるとなった時に、その選択肢がなくなっていたのは謎すぎます。神戸市職員と言う父の仕事柄、神戸を離れられなかったのかもしれませんが、兄が不登校児だったことが理由だったのかもしれません。

私は生徒会長のリーダーシップを発揮して、毎日ボランティア活動にいきました。ちょっと変なテンションになっていたのもあり、イベントごとが好きな自分にとってはリアルドキュメンタリーショーのような感覚がありました。

学校内は遺体安置所になっていましたし、水がないのでトイレが糞尿で溢れかえっていましたし、子供がいることなど関係なく、火事場泥棒も目の前でたくさんみて、吐きそうな精神状態ではありました。

私の身内は無事でしたが、同級生やその家族、お世話になった先生などたくさんの人を一瞬で失ったので、衝動的に何かボランティアでもやって、人と時間を過ごしていないと、何もない時間が怖すぎたというのもあります。

ボランティアは学校再開までの2ヶ月間活動しました。自分にとっては数年に及んだのではないかと思うくらい異世界の体験でした。自宅の電気・水・ガスがない期間もほぼ同じくらいでした。川へ水を汲みに行って、その水で濡らしたタオルで体を拭いてお風呂がわりにしました。

私は中学生でしたが、全国からきたボランティアの大人たちが私を子供扱いせずに、仲間に入れてくれたことが嬉しかったです。完全に法律も秩序も崩壊している現場で、ボランティアリーダーVS避難者という構図でしょっちゅう対立も起きていました。そういう大人の集まりに自分がいることを少し楽しいと思う気持ちもありました。

芸能人もたくさん応援に来てくれて、ちょっとホッとすることもありました。特に天皇陛下がきた時の、もう1回地震きたんちゃうかくらいに避難所が沸いたことは忘れません。悲壮感あふれる避難所がその時ばかりは野外ロックフェス会場ようなテンションになったことは強く覚えています。

中学3年生になって学校は再開されました。とはいえしばらくは校庭に机、椅子を並べて、体育祭のタープテントの下で授業をしていました。雨の日など足元が泥だらけで、勉強どころではありませんでした。

授業時間が足りず、7時間授業でした。部活動も体育も校舎の周りをランニングするしかないのですが、解体工事でアスベストが出るということで防塵マスクをして走るという異様な光景でした。

私は生徒会で震災の記録を残そうという企画をして冊子を作りました。写真と作文で100ページを超えるものでした。よくできたのでNHK週刊こどもニュースに出演したり、クリントン米大統領にその冊子を渡す機会もありました。

作品を作る作業が楽しかったので、テレビとか大統領にはあまり興味がなくよく覚えていませんが、そこで書いた作文が、神戸の中高生の作文を集めた書籍に掲載された時は少し嬉しい気持ちになりました。

校舎がないので文化祭は立派なコンサートホールで実施できることになりました。そこで私の発案で大玉ころがしくらいの玉のサイズのくす玉を割るということになりました。新しいスタートを切るイメージを持てる思い出を作りたかったのです。

どうやって作れば良いのかも分からなかったので、美術の先生に相談すると1メートル定規のような竹をバーナーで炙ってC局面を作り、2つ繋ぐと半円になる、この半円形状の竹を分度器状に20個くらい重ねていくと半球状の竹の枠組みができる、それに紙を貼ればくす玉の半球ができるので、2つの半球を作って、向かい合わせればくす玉になると教えてくれました。

美術部のメンバーや図画工作が得意な精鋭を集めて当日までにくす玉を完成させました。自分の気持ちはくす玉が完成した瞬間に最高潮に達していたので、一番盛り上がるはずのコンサートホールでくす玉を割るところは、紐を引くどころか、控室のモニターでみていました。

この最後の完成した瞬間に冷めてしまう性格は、自分でも何なのかはよくわかりません。そういう立ち振る舞いがかっこいいとでも思っていたのかもしれません。

卒業式は大学の講堂を借りて行われました。私は卒業生代表の答辞を述べました。学校に戻りクラスのみんなと「空を飛べるはず」を歌う時にギターを弾きました。中学生になる直前の頃からギターを習っていました。

妹がピアノをやっていて、親が楽器の一つくらいできた方が楽しいやろと強制してきたものです。ギターは全然上達しませんでしたが、3年もやっていると最低限のコードくらいは覚えていましたので、最後に披露しました。

こうして振り返ると震災後の中学3年の1年間は生きることに精一杯で、部活動の最後の試合も、夏休みも高校の入学試験もほとんど思い出せません。

阪神淡路大震災の様子

高校時代(1996年〜)

【誤算!間違って入ってしまった進学校の歩き方】

高校は兵庫の県高校に進学しました。私は生徒会長の内申点があったので、かなり背伸びをして実力以上の学校に入ってしまいました。学業の進度についていけず、後から他の高校にしておけば良かったと何度も思いました。

高校生活の重要なポイントとなる部活動選択で、私はなぜかまた陸上部に入ってしまいました。中学時代にすでに勝ち目がないことが確定していたのに、それでも他を選ぶ勇気がありませんでした。

文化部はダサいという偏見があり、運動部で未経験でもいけるかもとバレーボール部などを考えていたのですが、見学に行ったらとても素人の自分が太刀打ちできる世界ではないとすぐに分かりました。

入るつもりの無かった陸上部に、中学時代の先輩がいるので挨拶に行ったら、直感的にこのスポーツ好きだなという気持ちになりました。中学時代に全国大会に出場するレベルの同級生が他の中学から来ていて、この年代のチームなら上位を目指す体験ができるかもと完全な他力本願の入部をしました。

レギュラーではない私が副部長になり、メンバーをまとめることで少し貢献することができました。

私自身は400メートルハードルという競技人口が少なく、走力だけなく技術も必要な種目を専門としました。

私は陸上競技生活6年間、一度も炭酸飲料など飲まずに、食事にも気をつけていましたが、最後の試合でスタート直前までコーラを飲んでいる隣の太った選手に大差で負けて、諦めがつきました。今も仲の良い大切な仲間ができた部活動生活でした。

高校時代の自分のアイデンティティを維持してくれたのは英語です。全国英語リスニング試験なるものがあり、私だけ満点で、授業でも先生から音読の指名をよく受けました。これがなかったら高校生活はかなり苦しいものになっていたくらい自分を助けてくれました。

英語が得意だった理由は、中学の時の女性の先生がとっても綺麗で、いい格好を見せたいと思ったため猛勉強したからです。頻繁に職員室に通っては質問をして英語を教えてもらっていました。中学の教科書を全て音声だけで暗記したことで、なぜか会話もできるようになりました。

そんな私は高校を卒業したら米国に語学留学したいと思うようになりました。他の勉強がどうしようも無かったので、完全に現実逃避なのですが、当時は真剣に考えていました。

高校1年生の頃から大阪の留学斡旋業者に通って情報を集め、親にも何度も相談して、先生との3者面談でも留学計画の話をしていました。人生を振り返ってもここまで親の希望に沿わない行動をしたことがありませんでしたが、親が話を聞いてくれて嬉しい気持ちでした。

ところが高校3年の1学期が終わるタイミングの3者面談の場で、突然母親が「この子に留学なんて出来るわけないと、先生からちゃんと言ってやってください」と言い出して、私の目標は潰えました。

自宅に帰ってから母親にも父親にも「言いたいことがあるなら直接伝えてほしい、先生を介して会話するようなことはやめてほしい」と主張をしましたが、話になりませんでした。

兄の引きこもりはすでに5年以上が経過しており、妹も勉強ができるような子供ではなかったので、親としては唯一まともにレールに乗っている雰囲気の私のチャレンジを応援できるような余裕はなかったのでしょう。

だとしても、私にとってこんな実家はあまりにも窮屈すぎる場所でした。

そんな息詰まる高校時代の自分を助けてくれたのはお笑いです。とにかく「笑う」と言うことが自分の毎日の生活においてとても重要なことで、息を吸えている感覚を得られるものでした。

特に賞レースは自分が審査員になったかのような気持ちで見ることができるため、関西で各局が実施する新人賞レースは全て見ていました。

いろんな漫才を巻き戻し、再生、巻き戻し、再生と繰り返しながら、ネタを紙に書き起こし「この前半のフリが、後半の伏線となって回収されるのかぁ」と感心しながら分析するのが大好きでした。

それから高校時代といえばカラオケです。私は寝ながらラジオを聞く子供だったので、ほとんどのヒット曲を覚えていました。楽器の演奏センスはまるでなかったのですが、歌は何のトレーニングもしていないのに、かなり歌えました。

友達の歌を聞きながら『なんでこんなに下手なの?』 と思っていました。英語も耳で覚えられたので、耳が良いのかもしれません。

高い声も出たので、L'Arc〜en〜CielやDAPUMPを余裕で歌えました。とにかく勉強とスポーツがダメで自信のない高校生活を送っていた私にとって、英語と歌が精神安定剤だったことは間違いありません。

遠かったアメリカ

大学時代(1999年〜)

【京都での一人暮らしとオーストラリア・カナダで自我の開放】

親の反対で高卒で海外にいけないとなった私は京都産業大学の外国語学部に入りました。奨学金を借りれるだけ借りて、下宿生活を始めました。神戸から通うこともできましたが、実家から出ることは決めていたので、借金してでもそれだけは死守しました。

大学の同級生が「親のありがたみが分かる」と言っていましたが、私は一度も感じることがありませんでした。食べるものを買うお金もなく、暖房をつけることもできない貧乏暮らしでしたが、一人で暮らすことがこんなに気楽なのかと、最高の環境に喜びでいっぱいでした。

入学して驚いたのは、同級生がほとんど英語が話せなかったことです。ここで学んでいくのはキツイなと感じた一方、ある程度の自己負担金さえあれば留学チャンスはたくさんありましたので、時給の良いアルバイトをたくさんしました。

大学生のアルバイトなので、お金も重要ですが、社会勉強になるところが良いとも思い、指導が厳しくて有名な焼肉屋さんと、社員とほぼ同じ仕事ができるという学習塾を選びました。

小学生の頃は怒られることを避けていましたが、中学時代の震災で考えが少し変わり、この頃には多少厳しいことも経験しようというマインドになっていました。

焼肉屋さんは、店長が突然いなくなったり、裁判所から店舗を差し押さえる人が来たり、社長にバイト代を持ち逃げされたりとハプニング満載で、面白い経験ができました。

学習塾は周りが京大生の講師ばかりでしたので、授業のやり方を教えてもらうところから始まりました。するとあんなに苦手と思っていた勉強が、理数系も含めてものすごく面白いものだと分かりました。
高校までの勉強というものが、実はこんなにも簡単だったのだと知り愕然としました。独学でやってダメなことはさっさと専門家に頼るのが良いという当たり前のことをこの時に学びました。

また塾講師のアルバイトをしたのは”先生のような仕事には就かない”という幼少期の決意があったため、逆に1回くらいは体験しておかないとその主張に説得力がないだろうというのも理由でした。

ところがやってみると、先生という仕事はこんなにも面白いものなのかと驚きの連続でした。自分の関わりで目の前の人の脳内が変わるということが、自分の興味関心の強いことだとすぐに分かりました。

授業時間しかアルバイト代は出ないのに、何時間もかけて自宅で授業の準備をして、授業後には生徒たちの個別対応も永遠にやっていました。塾の本社の役員が来て大学卒業後に校長待遇で社員にならないかと何度も勧誘されました。

19歳の時に一人でオーストラリアのパースという街に行きました。現地の日本語の先生のボランティア募集に自分で応募して参加しました。

多くの欧州からの移民の子たちが必死で英語を学びながらこの国で生きていくんだと決意している姿を見た時は、自分の実家の問題など大したことないなと思えるようにもなりました。ニンテンドーについて何人にも質問されたので、世界で日本のメーカーが褒められるのは嬉しいと感じた記憶もよく覚えています。

パースのピナクルズ

その夏オーストラリアはちょうどシドニーオリンピック開催中でした。Jリーグ開幕が中学生の頃の私はサッカー観戦が大好きだったので、日本代表の試合観戦もしました。

この試合で一番ファンになったのは明神智和選手です。豊富な運動量と献身的なディフェンスというプレースタイルが自分の好みに合いました。派手な選手ではないものの、縁の下で活躍するタイプにワクワクする自分に気づかせてくれた選手です。

オーストラリアから帰国後は大学で開講されたジャーナリストの金子哲雄さんの講座を受けました。当時の金子さんはまだメディアなどに全く出ていない方でしたが、パワフルな方で色々と驚かされました。「とにかく本気で人生をかけて、命をかけて働いて、世の中の役に立て!」と懇々と説教をされました。

金子さんとは、学校のカリキュラムなどは全く無視して「ドンキホーテ リサーチマラソン」などをやりました。ドンキホーテに24時間滞在して、売れるもの、売れる時間、客層を調査するというものです。「24時間はキツイです」と言ったら「食べ物もトイレもあるのに 何がキツイの?」とさらりと返されました。

他にも築地市場密着とか、名古屋の学生とのアイデア合宿とか、ただの学校内の講座で学べるはずのないことを体当たりで教わりました。当時、講座で出会った学生時代の仲間たちとは、今なお切磋琢磨し合う貴重な友になっています。

その後、カナダへ留学し、バンクーバー、カルガリー、トロントと移動しながら、ビジネススクールやインターンを経験しました。

バンクーバーに到着して最初にいったビジネススクールでは留学生の英語レベルが高く驚きました。一瞬だけ日本に帰りたいと思いました。

海外に来て日本に帰りたいなどという気持ちになったのは人生でその瞬間だけですが、それくらい周りの留学生、特に欧州からの留学生の英語力が高く、打ちのめされました。

あとで分かったことは、そのクラスがハイレベルだっただけで、徐々にそこまで自分がダメなわけでもないと分かると安心しました。

逆にこんなクラスに日本の大学生が入れたことの方がすごいと言われました。こうして人は、他者との比較によって自分を客観視するのだなと理解しました。大学で社会心理学を学んでいたので、人が何を思い、どんな行動をするのかという興味も、異文化でより一層強まりました。

バンクーバーでは老夫婦の家の1室を借りて生活しました。隣の部屋にはメキシコ人の青年がいました。彼は身体障害があったのですが、テニスに誘ってくれました。「自分は全くハンデなどないよ!」といつも笑顔でした。

私の身近にはそんな感じで生きている身体障害のある人がいなかったので、心のどこかで可哀想な人、不自由な人と思い込んでいた自分を恥じました。家はとんでもない豪邸で、一人ずつの大きなバスルームはもちろん、アイスホッケー観戦専用のシアタールームまでありました。

中東の移民夫婦が本気でやれば国など関係なく稼げるんだという姿を見せられたのも大きな学びでした。

カルガリーではバンクーバーに比べて、ちょっと田舎っぽい落ち着いた雰囲気が心地よかったです。パブで歌ったり踊ったりとそれまでの人生でなかなかないくらいはっちゃけた時間を過ごしました。

金髪にして、オニオンリングみたいなピアスを3つ付けて、グレイトフル・デッドのタイダイ染めのシャツを着て、A&Gのシルバーアクセサリーを何個も着けるという、今では全く意味がわからないファッションを躊躇なく試している頃でした。

しかしあまりにも日本人と韓国人が多く、ここで英語の上達はないと思い1ヶ月でトロントに移動しました。

トロントに移ってからは現地のインターンシップに参加しました。今では当たり前になった学生のインターンですが、当時はまだあまり例がなく、海外で日本人を受け入れてくれる場所も少なかったです。

それでも留学の目的として英語力の強化だけでなく、就活で何かしらのウリを作るという打算的なものがありましたので、必死で探し、ホテルと広告会社での就労機会を得ることができました。

トロントのど真ん中にあるシェラトンセンターホテルでは、地下4階の刑務所のような雰囲気のところでハウスキーピングとして働きました。世界中から亡命してきた人たちが集まっていて、私に対して「お前は今度オレたちのボスになるのか? 絶対にいうこと聞かねーからな!」などと威嚇される毎日でした。
500室のシーツとタオルが文字通り山のように積み上がり、それを見たこともない巨大な洗濯機に放り込んでいくのですが、ほとんどのインターンがこれで辞めるそうです。

私は意外と映画の世界にいるようで楽しんでやっていました。また全室のマットレスを交換するタイミングということで、キングベッドの新品のマットレスを客室に運び、古いものと入れ替えるという作業も体験しました。

毎回ペアになる人が変わるのですが「おれは50ドル握りしめてアフリカから貨物船に忍び込んでここまできて・・・」とか「私は女優になる夢を掴みにフィリピンの家族の反対を押し切って移民してきたの」とか、それぞれのストーリーを聞く中で、覚悟の決め方の違いを知りました。

広告会社では自動車の広告を作ったり、電子決済システムのCMを作るお手伝いをしました。社長がイタリア人で、部長が中国人と日系アメリカ人という会社で、私とも国籍なんて全く気にせず一緒に仕事をしてくれました。

大きな受注が決まったら、オフィスでシャンパンタワーをやるし、ハロウィンの日は一日中かぼちゃの装飾をやるし、クリスマスはパーティでしかしない、ファンキーな職場でした。

ここぞという時の仕事の集中力やプロとしてのプレゼンの立ち振る舞いなどは、いったいいつ準備してたの?と思うくらい爽快なもので格好よかったです。

こういう雰囲気で働けると最高だろうなと思い、インターンを去る時には社長が「このまま残って社員なれよ」と言ってくれたのに、大学や日本での就職のことが気になり、怖がって苦笑いで逃げてしまいました。

他にもトロントでは現地の幼稚園で教育実習体験プログラムにも参加しました。おもちゃを与えた子供達の様子をマジックミラー越しに観察するような実験(今はやってはいけないらしい)に参加したり、他の参加者とともに幼児に自分の国について紹介したりしました。

いろんな国籍の小さな子供たちが、自分たちのルーツなど関係なく、笑ったり泣いたりしている様を見て、自分も小さい頃にこうして集団生活をしたなと思い返しました。

きっとこうして記憶が定かでない時期でも、人と触れ合い、うまくいかないながらも何かを伝えようと四苦八苦したことは自分にとっても良い体験だったのだろうと思います。

トロントで住んでいた家はあまり裕福ではなく、とても狭い地下に若い夫婦と、幼稚園児2人と住みました。でもこれが最高に楽しい家族で、毎日大笑いしながら2時間以上喋っていたので、このおかげで英語がものすごく上手くなりました。

さらにもう一人産まれるタイミングで自宅出産を体験しました。この家族とは今でも仲良く、20年後に京都で再会するなど、大切な家族です。

大都会のトロントは観光名所もたくさんあります。ナイアガラの滝に行ったり、ニューヨークのロックフェラーセンターのクリスマスツリーを見に行ったりしました。ニューヨークでは大雪で帰りのバスが欠航になり、バスターミナルに野宿しました。

そんなことも平気なくらい楽しい海外生活でした。兵役明けの韓国人の友人は、りんごを素手で真っ二つにしてくれたり、袋のタイプのインスタントラーメンの袋にお湯を流し込んで作ってくれたりして、サバイバル術を教えてくれました。

ナイアガラの滝

妻とはトロントで出会ったのですが、私が先に帰国するまで2人で話す時も英語で会話していました。英語を学ぶためにカナダに来ていたので、そういう価値観の妻をとても尊敬できました。そして私が日本に帰る間際に初めて日本語で話したところ「関西弁なんだね」と言われました。

私は特に訓練したわけではないのですが、関西に生まれ育ったのに標準語でも会話ができる能力があったので、特に困ることなく、その日から関西弁を話さない人になりました。

トロントから帰国して就職活動を開始した私ですが、大学生になった時から世の中は就職氷河期の真っ只中でした。京都産業大学では先輩も同級生も相当就職には苦労していました。

本来そんな外部環境など自分の職業選択に関係ないのですが、当時の私は自分が選べる仕事は限られている、就職とは企業様にお願いして「雇ってもらうもの」というマインドが強かったです。

実際に書類選考で何社も落ちましたし、筆記試験でもたくさん落ちました。しかし幸いTOEIC900点と海外インターン経験の合わせ技で学歴フィルターを突破できるケースもありました。

塾講師とカナダでの職場体験で、社会人としての視点で話すことには慣れていたため、面接で落ちることはあまりなく、いくつかの内定を得て、最終的に海外営業ポジションを確約してくれた地元神戸のカーナビメーカーに就職することにしました。

メーカへの就職は自然な選択でした。
私は大学入学時にいとこから中古のMacをもらってダイヤルアップ接続でインターネットを自宅で行うような学生で、2年生の終わりには20万円を投じてSONYのVAIO C1という超小型モバイルPCを買い、単三電池2本で130万画素のデジカメを使っていました。

カナダでこれを見せると、どこの国の人たちもびっくりして興味を持ってくれました。そんな製品を作り出す日本企業、日本のものづくりを誇りに思いましたし、こういう技術を世界に紹介して驚かせたいという思いをさらに強める体験となりました。

先進的な技術を世界に紹介できるという点で、カーナビメーカーの海外営業職はとても魅力的でした。すでにテレビやパソコンは日本メーカーの優位性が揺らいでいる状況でしたが、カーナビは30万円もする高級品でまだまだこれからマーケットの広がりの余地がありました。

地元に戻る気など全くなかったのですが、東京の企業には採用してもらえなかったので、ご縁と思い地元の神戸の企業に入社を決めました。

同期は名門大学出身者ばかりでした。内定者懇親会で私は160人の内定者に対して、名刺を配り、メーリングリストを発行して、入社までに毎日のように情報発信をして、何度もリアルで集まる会を開催しました。

会社の人事部とも連携して「2004年度入社はサカモトの年」と言われる状態を入社前に作りきりました。入社直後の新入社員主催イベントでも企画運営・司会進行役を担当して、自分だけずっと会長・社長と喋っているというゴリゴリのロビー活動で、この先の仕事の主導権を握り切れるよう戦略的にスタートダッシュをやり切りました。

新入社員時代(2004年〜)


【JTCの洗礼、当たり前の長時間残業】

神戸のカーナビメーカーに入った私は、入社前のアピールが効いて、約束通り海外営業の配属を勝ち取りました。バリバリ海外にでて仕事をするぞと意気込んで配属部署に乗り込みましたが、そこで待っていたのはエクセルとパワーポイントによる大量の社内説明資料作成と、サイロ化したメーカの各部門の間の調整という、ローカルな仕事ばかりでした。

海外ビジネスができるという約束で入社したのにこれはキツイと思いました。毎日8:00-23:00で働いて、自費でタクシーで帰宅するような生活でした。パワハラも酷かったので、最初の半年でいろんな病気を経験しました。下半身のヘルペスと痔を同時発症したときは、泌尿器科と肛門科をハシゴする23歳とは思えない体験をしました。

「ちょっと前までは、朝3時まで働くのが当たり前で、残業代なんて当然なかったんだぞ!」と先輩たちに言われ続けて、良い時代に働けているんだなと本当に思っていました。

仕事は自分の思う営業と言えるものではなかった為、志願してエンドユーザとの折衝機会をもらい、相模原のオートバックスに2ヶ月店舗研修に出してもらいました。

カーナビを売るという実習だったのですが、その月の全国のオートバックスの社員よりも売り上げをあげることができました。

自社の製品だけでなく、ワイパーの取り替えや、ECTのセットアップまで、なんでもお困りごとに対応しているうちに、あなたから買いたいと言ってもらえるようになりました。

商品の説明をすることが好きだったので、毎日何回でも繰り返し同じ説明が出来たのも店舗の人に褒められたことでした。なぜそれが難しいことなのかは全く分かりませんでしたが、店員なのに製品説明が苦手という人もいることを知りました。

覚えている大きな仕事としては、ある米国の会社とドイツの会社が合併して、カーオーディオの会社をやっていたのですが、そこに対してDVD再生機を売るというお仕事です。アメリカの社長とドイツの社長の仲が悪く、どちらも自分の手柄にしたいという人たちでした。

これまで自社ではこのコントロールに成功したことがありませんでしたが、私はビジネス拡大できるチャンスを逃すわけにはいかないと思い、各社のキーマンを集めてトップ会談をセットしました。

直属の上司から派手なことはするなと止められましたが、自分が取り組む仕事のスケールをグローバルに広げたくないのか?と不思議で仕方なく、家に帰ってからも朝まで仕事をやっていました。
結果としてこのトップ会談でグローバルの複数年契約を締結し、売上200億円を単価の低い部品ビジネスで達成できたことは自信になりました。

先輩たちが苦戦する予算の稟議決裁承認も、鬼の根回しで誰よりも速やかに進めることができました。周りからはよくそんなことできるねと呆れられていましたが、私は稟議承認のスピードほど大事なものはないと思っていたので、なぜここで、怒られても役員に直談判しにいくということをみんなやらないのか理解できませんでした。

新卒3年目の頃、景気が回復してきた中途採用市場が盛り上がりました。私より2〜3歳上の中途社員が続々入社して、その先輩たちが私が行く予定だった海外出張の機会を得るという理不尽な扱いが繰り返されました。

私は不満を抑えきれず、本社の調整仕事ではなく、お客様と直接対峙する現場の営業がやりたいと社内で何度も進言しました。しかし、本社の海外営業担当者が現場に駐在するのは入社10年目くらいからと一蹴され、自分も新たな活躍機会を求めるしかないと、転職活動をはじめました。

ありがたいことに複数のメーカーから内定をいただきました。どうせならやりたい業界に行こうと思い、自動車を離れて航空機業界に転じました。カナダ留学時代にシアトルのボーイング社の見学にいったこともあるくらい、飛行機が好きだったからです。国産のジェット機が事業化するタイミングで、参画が決定していた兵庫県の会社に転職しました。

新卒で入社し、高く評価いただいていた会社を、同期の誰よりも早く辞める決断は、当時の私には容易ではありませんでした。まだ心に少し優等生マインドがあり、会社を辞めるということが、何か逃げるようなイメージを自分でも持っていたからです。

会社の業績もよくほとんどの人から止められました。一部の人からはここぞとばかりに嫌味を言われ、でも数人の応援してくれる人たちの気持ちを胸に新たな挑戦に向かいました。お世話になった直属の上司に退職を伝えるときは、指先が震えて止まりませんでした。惜しんでくれた時の顔は忘れることはありません。

同じ頃、当時アメリカで働いていた妻が帰国することになり、そのタイミングで結婚しました。結婚したらすぐに転勤という都市伝説もありましたが、自分の場合は海外転勤という話にはなりませんでした。
会社都合の辞令に自分のキャリアを委ねてしまうことが、未来のリスクであることも当時はよく分かっていませんでした。全社員がそういうものだと思っていたからです。

私は会社の先輩の結婚式の2次会の企画や司会を何度もやっていたので、自分の結婚式の準備も時間をかけて行いました。たまに自分以外の人が企画した結婚式の2次会に呼ばれたときは「何でこんなに準備甘いねん!」と運営者側目線で勝手にイライラするという悲惨な参加者をやっていました。

毎月の社内の宴会も結婚式の2次会ばりにコンセプトから詳細アジェンダの作成、前回よりも新しい驚きをという自己テーマを持って社員同士の交流が生まれる宴会をやっていました。懐かしい思い出です。

毎年家族写真を撮影しているメリケンパークオリエンタルホテル

社会人2社目時代(2008年〜)


【ついに手にした海外を股にかける仕事】

2社目の航空部品メーカーは1社目のカーナビメーカーよりこじんまりとしていました。毎日作業着と安全靴に着替えて、敷地内ではヘルメットをかぶりました。カーナビ会社でも本社工場勤務だったので、作業着勤務に違和感は感じませんでした。ただモノづくりの現場に前よりもアクセスしやすいという点で、前職以上に強い興奮を覚える環境でした。

工場の職人たちと直接会話できることが楽しくて仕方ありませんでした。多くの人は町工場の現場でどっぷりと働くことを大変だと感じるようで「本当に大丈夫か?」と心配されました。工場大好き人間の私にとっては1社目よりもずっと仕事はやりやすいと感じました。

海外営業職の中でもダイレクトセールスの条件で入社した為、現地法人や代理店を介さずに直接、グローバルのお客様に営業する機会をたくさん得ました。入社数ヶ月で単独海外出張ができ、退職までの10年間でほぼ毎月どこかの海外にいくことができました。

時差の問題で深夜や早朝にも仕事が発生することが大変で、海外営業をギブアップしていく同僚が多い中で、私はずっと楽しいと思いながら仕事ができました。100時間残業しても固定給だったのですが、疑問を持たずに受け入れていました。キャリアコンサルタントの勉強をして法律に詳しくなった今では、流石に請求すべきだったと思います。

私は仕事で海外に行けるなんて、誰もが夢のようだと感じると思っていました。実際に仕事を始めて、同じ海外営業部にいる人でさえも、そうでもないと知り驚きました。私がアフリカや南米に1人でいくときや、帰国した翌日にまた出国するような出張スケジュールのときには「大変ですね、頑張ってださい」と何人にも声をかけられました。

私は、会社のお金を自分だけがたくさん使わせてもらって、申し訳ない気持ちさえありましたので、すごく頑張っている人と評価されて不思議な気持ちになったものです。

パリエアショー


工場が好きという話ですが、昔「クイズ世界はショーバイショーバイ」というテレビ番組の「何を作っているんでしょうか?」という何を作る工場か当てるというクイズが大好きでした。
何かが完成する前の、回ったり、運ばれたりする様がなんともいえず見ていて気持ち良いのです。そんな私は海外のお客様訪問をするたびに工場見学もお願いしていました。

50社以上の海外の航空会社の工場に行きました。自分でも面白いなと思うのはお客様の工場見学の翌日に、個人的にコカコーラ社や地ビール会社の工場見学にプライベートでも行っていたことです。とにかく工場見学が好きな私は、日本でもお菓子工場の見学などによく行きます。モノが動いている状態をみるのが好きなんです。

海外に行く機会が多いと、いろんなトラブルにも巻き込まれるのですが、こういう状態がコンフォートゾーンになっており、何が起きても動じなくなりました。

ブラジルの荷物検査で空港の個室に軟禁された時も、トルコで出されたコーヒーを飲んだ直後に39度の熱が出た時も、ハンガリーでぼったくりバーに勧誘された時も、ベトナムでホテルの部屋がびしょ濡れだった時も、タイで食堂が虫だらけだった時も、韓国で誘拐されかけた時も、フランスで自分だけ料理が出てこなかった時も、エルサルバドルのタクシーに銃が置いてあった時も、特に何か大変なこととは思わず、これも旅のおかしみだよねと笑って楽しんでいました。

営業としての仕事では順調に業績を上げ、毎年目標数字を上回ることができました。プロジェクトリーダーやチームマネジメントなど国内外のメンバーとともに働く責任範囲をどんどんと広げていきました。
後輩育成についてはそのロールを指名されていなくとも、中途採用者、派遣社員の方など、役務に関係なく、仕事がわからず困っている人たちには時間をとって教えていました。

これは前職の頃からですが、自分自身が先輩から何も教えてもらえないのに、間違ったら怒鳴られるというサイクルを経験して、他の人をこんな目には合わせたくないと思ったことも理由です。
でも、根本的に私は、教える・説明するという動作行動が好きなのです。親切に教えてくれる先輩というのがあまりいないので、そういうポジションをとって、仲間の信頼を獲得していたという側面もあります。

思い出深いのは英国メーカーの不具合品対応で、サプライヤーオブザイヤーを受賞したときのことです。全世界の2000機の部品を1年で全て改良品に取り替えるというプロジェクトのリーダーでした。

通常、年間で実施可能な該当部品の交換数は200台、その10倍の仕事をしなければいけませんでした。私は世界5箇所の修理工場と新規契約を行い、100社のエアラインの部品在庫を集め、英国企業に滞在しながら日中はエアライン各社と、夜中から朝にかけては日本の自社のメンバーとミーティングという生活をしました。

中央が私

現状の10倍のキャパの仕事を1年で行うというのは自分が頑張ればなんとかなる話ではなく、完全に今までの仕事の仕方を変える必要がありました。人に助けを求めるということになりますが、それを全世界の関係会社の力を結集させるというスケールでやったのはゾクゾクする体験でした。

その後、MRJの事業の為にカナダに工場を設立して、他に2社買収したり、国内の修理工場も買収したり、ロンドンに現地法人を設置したりと社内の経営企画的な仕事もしました。

しかしMRJ事業が前に進まず、アフターサポートのプロジェクトリーダーになって直接全世界の事業を加速させるロールに移りました。私はお客様の中でも海外の航空会社出身でヘッドハンティングされてきた外国人の方たちと頻繁に会話を重ねて、少しでもこの事業を前に進めたいと思い、アメリカの部品会社や修理工場にも何度もいきました。しかし結局、事業として形にはできませんでした。

航空部品の会社には10年在籍しましたが、MRJの事業化が見えなくなったことや、会社の業績不振で株主が変わったこと、そして自分も関わって立ち上げたカナダ工場の駐在が叶わなかったことなどにより、再度、転職を決意することになりました。

この10年は家庭にも大きな変化がありました。
神戸市の有馬温泉の近くにそこそこ大きな戸建てを新築したその年、長女が誕生、2年後に長男が誕生し4人家族で自然の多い場所で健やかにくらしました。庭で毎週BBQをし、夏には流しそうめんもしました。

子供が3歳を過ぎてからは父娘、父息子での2人旅もやり、中学生になった今でも続けています。中学生の娘と父親の二人で沖縄旅行などできるとは思っていなかったので自分でも驚きです。0歳から毎年家族で海外にも出かけているので、子供達が飛行機や外国人に対して拒否反応がないことは頼もしい限りです。
戸建てに引っ越してから、毎朝6:30に家を出て片道1時間半を通勤に使ったのは人生の損失でした。会社の中にそういう人が多かったので、当たり前に思ってしまっていました。

グロービスの単科コースにも通いました。私の30歳という年齢は当時の参加者の中ではかなり若く、ほとんどが企業の管理職として法人派遣でした。自費参加の自分ほどやる気のある人がおらず、興味ある単科コースが終わった時点でSTOPしてしまいました。
もっと意欲ある人たちが集まるタイミングや場所を選べばよかったのかもしれませんが、期待していたほどの学びを得ることは当時の私にはできませんでした。

地域コミュニティとの関わりも深く、自治会の役員も務めました。
700世帯をまとめることは中々できない体験でした。老人会とお金の使い方で何度も話し合うことがありましたし、祭り会場の近くの住民の説得も大変でした。茅葺き屋根の修復や、10メートル以上のとんど焼きなど初体験の出来事も多く、そうしたイベントに近くに住む外国人をたくさん招待できたことも良かったことです。

自治会役員をやっても1円ももらえませんが、とにかく楽しくて、深夜でも資料を作ったり、土日の朝の会合も欠かさず参加して、自分はとにかく好きな人たちと面白がることが好きなんだなと再確認した活動でした。

年に1回はフルマラソンにも出場して4時間くらいで走っていました。ランニングは世界中どこに行ってもできるのと、出張で観光する時間がなくても早起きして町中を走りまわることで軽い観光をしながら運動もできるという点で気に入っている趣味です。

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⬆︎地元神戸マラソン完走。この1週間前に大阪マラソンを走っています

社会人3社目時代(2017年〜)

【心身を見つめ直す、人生の停滞期間】

2017年からは大阪の大手化学メーカーに転職しました。
海外営業職で入社したのですが、入社後の仕事は国内営業でした。採用時の約束の通り、海外ビジネスをやりたいと主張しましたが誰に掛け合っても、どうにもなりませんでした。過去所属したどこよりも体育会系のノリが強い組織でした。

それでも36歳で転職した会社をすぐに辞めるわけにはいかないと謎に自分を縛っていた私は、しぶしぶ国内営業の仕事を行い、それなりに受注もとりました。身に覚えのない理由で叱責されることが多々ありました。結果、入社して半年で適応障害と診断され、2ヶ月の休職を経験しました。

それまでの私は「心の病で仕事を休むとキャリアが終わる」と思って病院に行く判断が遅れました。ずいぶん前から私は完全にメンタルの病気になっていましたが、認めたくない気持ちが勝っていました。兄が自閉症になって30年が経過しており、自分があんな人間になってたまるかという気持ちもありました。

眠れない、食べられない、下痢が止まらない、毎日反対方向の電車に乗ってしまうなど、いろんな身体症状がでていましたが、決定的だったのは、駅のホームで身体が勝手に動き出し、今から電車がやってくるぞというタイミングで線路に飛び込みそうになったことです。
まったくそんな意思がないのに、脳が身体を制御できなくなっていました。異変に気づいた周りの人たちが止めてくれたのでなんとか生き延びましたが、危ないところでした。

休職していた2か月はあたかも出勤しているかのように毎朝子供たちの登校時に一緒に家を出る日々でした。

スポーツジムにいき、お昼に自分でつくってきたおにぎりを公園で食べ、昼から図書館で本を読んで帰るという何もない時間でした。あるとき80歳くらいのおじいちゃんを同じジムと図書館で見かけ「自分は引退して何もやることがなくなった人の日常を生きている」と分かった時に、30代の人生を生きていないと絶望しました。

幸いにも2ヶ月で職場復帰でき、私は事業戦略部門に異動させてもらえました。単純に営業部に残られても邪魔なので、いてもいなくてもどちらでもよい企画系の部門で、事業部長直下におかれたという措置です。

新しい部署では人材育成、業務効率化、事業戦略立案などの改革施策を実行しました。産業医からは1年くらいは通勤することを目標にしてくださいという指示でした。しかし、私はイベントを企画運営していたときと同じような感覚が持てた事業戦略部門の機能をフル活用して、半年で大幅な風土改革を実行しました。

休職明けの社員なので、まわりも腫れ物に触るような感じでコミュニケーションをとってきますので、あまり否定的な関わりはできませんでした。ここぞとばかりに好きにやってやりました。

半年ほどの活動成果発表の場では、企業文化の変革を起こしてくれたと複数の役員から感謝されました。その後、この改革活動を海外拠点にも広げようということでその実行リーダーにも任命されました。

翌年にはアメリカ、中国、タイ、ポーランドなど各海外拠点にいって、同様の組織改革を進めました。そこでの成果が認められ、社長直下に発足した全社のダイバーシティインクルージョンプロジェクトリーダにもなりました。

ダイバーシティプロジェクトでは人事制度の変更や評価指標の改定にも関りました。このおかげでスモールビジネスでは係長職から部長職へ飛び級もできるようになり、古い大企業の文化を破壊するという大きなテーマを少し実行できたと思います。

事業戦略部門で機嫌よく成果を出していましたが、コロナ禍になり本格的に会社として本業を立て直さないといけなくなった為、大阪と名古屋にあった営業と事業戦略部門をすべて名古屋拠点に集約するという組織変更が行われました。

私は反対しましたが、信頼していた戦略部門の直属の上司が「名古屋で一緒にやっていこう」と熱心に説得してくれたので、自分を救ってくれたこの人がいるならと異動をうけいれました。

しかし、その上司と共に名古屋に引っ越してきて、たった1か月でその上司が中国に異動になりました。一部の大企業は令和の今も、人生ゲームのルーレットを回すかのように、転居をともなう人事異動をいつでも平然と実行できてしまうのです。

私はこの名古屋支社で、ここでは書けないくらいあまりにも仕事が上手くいかず、継続して働くことは困難になりました。

神戸から名古屋への引っ越しは、5年生だった娘にはかなり負担をかけました。中学校でやりたいことを友達と約束していたこともあり、転勤を伝えてから毎晩泣いている姿を見るのは苦しかったです。残りの神戸の生活を楽しもうという気持ちになった矢先、学校だけロックダウンという状況になり、ほとんど友達に会えないまま引っ越すことになりました。

そして名古屋に来た直後に日本全体がロックダウンとなり「お父さん、狭い家に引っ越してきてテレワークすんのかい!こんなことなら引っ越さなければ良かったじゃないか!」と毎日詰められました。ちょっとでも楽しくできればと思い、毎朝、父・娘・息子の3人で一緒にランニングしたり、誰もいない広い駐車場でスケボーや一輪車をしたりしました。

それでも私の仕事がうまくいっていないことは妻には見透かされており、体調面も含めとても心配されていました。関西に戻るのか、名古屋で別の仕事を探すのか、そもそも今更まともな仕事に就けるのか、悩みは尽きませんでした。

名古屋に来て一番嬉しい「ひつまぶし」

コーチングとの出会い(2020年)

【人生のターニングポイント、まるで別人に】

40歳、管理職という立場で、引っ越してきた地方支店で、仕事のパフォーマンスも下がり、体調も良くない日々が続きました。
一度、休職しているので、2度も同じことはやるまいと、ある程度は上手にさぼりながら、多少の失敗も仕方がないという気持ちで仕事をしていました。

ただそんないいかげんな仕事の向き合い方で良いわけがなく、いつまでもこの状態でいたら結局キャリアが終わるという危機感は日々強まるばかりでした。

そんな時に、近所にベンチャー企業が作る新しいフィットネスジムができるというので、物珍しさで見に行きました。

AKIOBLOGという人が経営するGOAL-Bというジムで、フィジークやパワーリフティングのチャンピオンがトレーナーとして在籍していました。そこの体験会で指導してくれたトレーナーがあまりにも的確に私の身体の状態を診断し、上手に教えてくれるので、驚いてそのまま入会してしまいました。

「2か月間は月額2000円のキャンペーン価格なので、2か月でトレーナーから知識を盗んで、絶対2か月で解約して下さい!」と言ってきたので、なんて愉快な人たちなんだと思いました。こんなに元気に楽しく働く人たちがいるんだなと空間のパワーをたくさんもらいました。

GOAL-B名古屋ジム(現在は閉鎖)

それまでマラソンをやってきた私は筋トレをしても身体が大きくなるようなことはなく、筋トレをしてもムキムキにはなれないという思い込みがありました。実際にあまり筋肉がつくタイプではないのですが、正しい指導を受けることでベンチプレスは50キロから半年で85キロになりました。

この半年は平日朝晩で週10回ペースでジムに通いました。筋トレ目的というよりも、元気なトレーナーや、その人たちを信頼して集まる20代の若い人たちのエネルギーが気持ちよく、その熱量をもらいにいっている感覚でした。

日中の仕事が完全に停滞していたのに対し、GOAL -Bのジムは朝から熱気に溢れ、夜もパワーでみなぎっていました。今までの自分では出会えない若い世代の友達が次々と増え、家族からも何があったの?と驚かれるくらい元気になりました。体も大きくなり、体力もついて自信が漲ってくる感覚がありました。

そんなGOAL-Bという会社はコーチングも事業として提供していました。私は大学時代に社会言語学を専攻していたので、そもそも人がどんな環境で何を感じ、どう考えるのかといったことに強い興味関心がありました。

心理学系の本もよく読んでいて、苫米地さんの本もたくさん読んでいました。コーチングという言葉ももちろん知っていました。ただ、最初に新卒で入った会社のすごく嫌な役員が、退職後にコーチングをやっていると聞いていたので、あまりよい印象はもっていませんでした。

それでもこんなにエネルギー溢れる空間を作れるGOAL-Bという会社がやっている事業なので、きっと私の知らない何かがあるに違いない。そう思ってYouTube動画を片っ端からみました。

そこで語られるコーチングは私の知っているものと違って、こんなに魅力的なものならぜひ受けたいと思うようになりました。今の自分の状況はとにかくなんとかして変えないといけない状態で、緊急性もありました。

コーチング体験は、まるで頭の中の泥を洗い流すような衝撃でした。自分が一生懸命頑張ってきたことが、他人の目を気にして、合わせていただけの行動だったことに気づかされました。実際に軽い吐き気を覚えるほどのインパクトを受けました。

単発で2回セッションを受け、自分の変化とコーチングの面白さに魅かれ、もっと知りたいという思いでコーチングスクールへの入学を決意しました。ここからそれまでとは全く異なる人生が始まりました。この時すでに40歳、正直この年齢で人生をリスタートできるとは思ってもいませんでした。

これまでグロービス、プログラミング、キャリアコンサルタントのような単発のスクールには通ってきましたが、せいぜい20〜30万円くらいの投資です。コーチングスクールの80万円というのは家族4人の海外旅行でも一括で支払ったことがない額でした。この時を振り返っても、人生で最も正しい投資判断をした瞬間だと思います。

コーチングスクールは本当にやっていけるのか不安がありました。入学を決めて、後からGOAL-Bのプロコーチたちも一緒の期で学ぶと知りました。すでにプロとして活躍している人たちが学ぶようなところにいってついていけるのか、ご自身のビジネスでバンバン結果をだしている起業家の方が集まるような場所で自分が何か貢献できるのか、自分は今の仕事さえもうまくいっていないのに・・・という気持ちもありました。

正直なところ、グロービスで学んでいたときはクラスメイトよりも自分が一番よくわかっている、このクラスをリードしているのは自分であるという自覚を最初から最後まで持ちながら、気持ちに余裕をもって学べていました。でもコーチングスクールでは高校生の頃のように、自分はギリギリついていくことで精一杯という感じでした。

オンラインコーチングセッション


そんな入学する時点でこじらせまくっているような自分を一瞬で変えてくれるできごとがありました。入学早々に学校長から直々にコーチングセッションを実施いただく機会があったのです。そこでたった15分というセッション時間で、私の人生が大幅に動くマインドのアップデートがおきました。

多くの人が「自分のwant toを特定したい」「才能を自覚したい」などと相談する場にする中で私はあろうことか「自分の職業機能もよくわかりません」というひどい状態でセッションスタートしました。

私は海外営業という職業機能を自覚していましたが、実際には事業戦略を経て国内営業の責任者という、大企業の管理職にありがちなシャッフル人事にあっている真っ最中でした。しかもパワハラで過去に休職した部署への再移動という状況で、自分の職業機能を見失っている状況でありました。

その時に学校長が私に掛けてくださった言葉は「あなたはタフネゴシエーターです」というものです。正直、自分ほど「タフ」からも「ネゴシエーター」からも遠い人物はいないと思っていたので、言われたときは全くしっくりきませんでした。

ただ会話の応答の中で「B to Bのセールスに長けた人」であり「各業界で希少価値がある」「1社に1人欲しい必殺仕事人」であると、私のエスティームをぐいぐいと引き上げていただきました。そして「大きな組織のメンタルモデルの書き換えができる」「顧客側の組織向けでもできる」とエフィカシーもあがっていただき、最後には「今月中に今の職場にそういう仕事に配置を変えるように言ってこい!」とプッシュいただきました。そのセッション後、職場の景色がまるで変わって見えました。

結果として職場に申し入れても何も変わりませんでしたが、私の行動は止められませんでした。もう「タフネゴシエーター」としてバリバリ働くマインドになっていたので、気が付けば、そこから4ヶ月後にはフランス資本のIT企業への転職を決めていました。私が長く経験してきた製造業のDX支援をする会社です。

所属する1社だけでなく、何社も一気に支援できるベンダーの立場は魅力的で、古く変わらない仕事の仕方を大幅に変えるのにDXはよい入口だと思いました。化学会社時代のダイバーシティプロジェクトでも私はDX推進リーダーをやっていたので、加速化できれば日本の製造業を変革できると考えました。

その外資IT企業の中でも私は特にシミュレーション解析の領域を扱っています。これは長く現地現物にこだわり、生産性の低くなっている日本の製造業を大きく変える最後の切り札です。私が過去に製造業の会社にいながら、常に実行したいと考えていたことでした。

重要なことはソフトウエアの導入に合わせた、ものづくりの考え方のシフトチェンジです。50代〜60代の意思決定層には、過去の成功体験を捨ててもらい、新しいテクノロジーに投資してもらう必要があります。セールスの仕事ですが、このやりとりはコーチングにも似ていて、売上5000億円クラスの会社の本部長クラスと毎日こんな折衝ができるため、とてもやりがいに溢れています。

まさに「BtoBのセールス」で「大きな組織のメンタルモデルの書き換えを行う仕事」を「顧客向けに実行する仕事」です。
実際に転職してみて、多くの方から「ヒロキさんってものすごいメンタルタフですよね」と社内の人から言われることがあり、驚きました。メンタル最弱の自覚があったので、最初はそんなことを言われる意味が分からなかったのですが、多くの外資系IT企業の社員は日系大企業の合議制や根回し文化に辟易するらしいのです。

それは私にとって当たり前で、問題ではなく前提です。大変だとも感じませんし、現状維持に塗れたベテランの考えを破壊したくてやっているので、怒られてもそこは攻め込むしか選択肢はありません。
そのため「よくあそこであんなに粘りますね」「さっさと諦めようってなりませんか?」と同僚に言われるのです。私の製造業での経験則でできていることもありますし、コーチングを学んだことで出来るようになったこともあります。いずれにしても今となってはすっかり「タフネゴシエーター」としての自覚が持てるようになりました。

外資系企業といえども流石に未経験業界に40歳で転職することは簡単ではありませんでした。私の後に入社してくる人も概ね30代前半か、もしくは業界経験者です。それでも私は入社直後から活躍できる未来を臨場感を持って描けていたので、本音でやりたいことに真っ直ぐにチャレンジできました。

ちょうどコーチングスクールで自己適用として自らが現状の外の挑戦をやっていく時期でありましたので、そんな仲間がたくさんいる環境は、私の背中を押してくれました。まさにコーチングスクールは私の人生史上最大の学び体験でした。

いくつも理由はあるのですが、一流のコーチである学校長から直々に講義を受けられることが最も大きな点で、そこに加えて80名の同期の中に、これまでに学校長からの学びを受けてきた人たち、プロコーチとして活動している人たち、起業家・経営者としてご自身のビジネスをぶん回している方々など自分のネットワークはなかった多彩な人たちとともに学ぶことができたことは一生の宝です。

日系製造業で未来に絶望していた会社員が、わずか半年で外資IT企業に転職し、初年度からトップセールスになれました。この転職と同じタイミングでプロコーチになり、コーチングスクール卒業時点で数名のクライアントの方がいるという状態でした。会社員としての給与以外の収入源をつくることもでき、仕事の幅が広がりました。こんなことになるとは私自身が想像もしていませんでした。

コーチングスクールの仲間たち

社会人4社目時代(2021年〜)

【生まれ変わった現在、仕事と家庭の両立を支援する専門家】

外資ITセールスとして、売上高5000億円から2兆円くらいの企業を30社程度担当しています。お話しする相手は部長、本部長クラスの方々がメインです。そんな方々と毎日のように対話する中で、徐々にマインドの変化を感じてきています。

「変わるなら今しかないですよね」「このままで良いとは思ってないんです」と本音を相談してくれるようになってきました。この古くて強固だった日本の製造業のリーダたちのマインド変化をグローバルスケールで全社員に浸透させることができたら、大きなインパクトを社会に与えることができます。30社と関わっているため、総数で50万人くらいの人にインパクトを与えられると思っています。自分の関わりで日本のGDPを引き上げていきます。

コロナ影響もあり毎月飛び回っていた時ほど海外には行けていませんが、国内は毎週あらゆるところに足を運んでいます。たまに欧州と米国には行きますし、自社内に15カ国の多様な国籍の仲間がいるので、日本に居ながら刺激溢れる毎日を過ごしています。ターバンをしているインド人がカフェテリアで本格的なカレーを食べるので、ランチタイムがインドっぽい感じになってしまうところもご愛嬌です。アジア人のガッツには面食らうときもありますが、負ける気はしないので切磋琢磨していきたいものです。

モナコの街並み


子供たちは1人で米国のサマーキャンプに挑戦するくらい成長しました。昨夏、娘はUCLAの付属中学に、息子はIMGというプロアスリート養成学校にそれぞれひとりで1か月間行ってきました。他の国から来た留学生と相部屋の寮生活で、二人ともたくさん悔しい思いをしたようですが、頼る親のいない環境の中でよくがんばりました。

その間、親の私たちは2人で台湾に行き、漢方薬局を回って薬膳師の妻の事業である「食による体質改善ビジネス」について議論を重ねることが出来ました。子供が生まれてから、夫婦二人で海外旅行に行けるのはまだまだ先と思ってましたが、子供が小学生のうちに実現することができました。

個人的には身体のパフォーマンスを最大化したいという欲求が抑えきれず、マシンピラティス、ボイストレーニングなどを受けながら、呼吸を整えるヨガを朝晩する生活を送っています。淡路島にある「禅房精寧」という禅リトリート施設にも行きました。心と体のポテンシャルを最大限まで解放して人生を楽しみ尽くします。

禅房精寧

またヨガ生活にともなって、なかなか人に言えなかった美容にも思い切って取り組み始めました。小学校からのニキビ顔で、長年皮膚科に通ってきたのですが、実は30代を過ぎたあたりから、清潔感とか痛みの治療という領域を超えて、綺麗になりたいという気持ちが出ていました。

モテたいというのとは少し違って、綺麗な状態になりたいのです。血液や水分を体内で清らかに流すように、外面の毛穴の汚れも取りたいし、良い匂いも出したいのです。脱毛やヘッドスパに通い、気づけば30代までずっと老け顔だった自分が、マイナス5歳の見た目を手に入れました。

時間管理術もよく聞かれるようになりました。激務と言われる外資IT企業のセールス部門でトップの業績を出し続けながら、常時複数名のコーチングクライアントをサポートし、ほかにもセミナー講師やコミュニティ運営の副業も行っています。毎週数冊の本を読み、毎月舞台演劇やアート鑑賞をして、毎日7時間寝ながら、子どもたちとも遊びまくりです。

過去は休憩や回復に当てていた無駄時間がなくなり、休日という概念も消滅したことで、正しく使える時間が増えたのかもしれません。もちろん大変なこともたくさんありますが、機嫌よく楽しく生きていきます。

これから私は、大企業の30代から40代のビジネスパーソンの支援をより加速させていきます。

仕事と家庭の両立をしたいけど、現実的にできるとは思えていない人、今までにリーダーシップをもって役職のひとつふたつ上のレイヤーレベルの結果を出したことがある人、グローバルスケールでビジネスをやっていきたい人の人生を伴走します。

これがプロコーチとしての私の使命です。

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プロコーチ サカモトヒロキ

お問合せ
info@live-essence.com


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