独善性という足枷

独善:独り善がり。自分一人が正しいと考えること。

独善性は誰もが少なからず持っている。しかし、これぞ独善性の独善性たる所以だが、独善的思考に陥っている人は、自らのそれになかなか気付かない。
独善的な思考に陥りやすい人にはある種の共通点があると思っていて、真面目で正義感の強い人、ストイックで意識の高い人ほど、これに陥りやすい。自由人や、そもそも目標やモチベーションが低い人は、独善性とはあまり縁がない。

自信や誇りは、その人自身の魅力や活力になる。しかし、自負やプライド、使命感ゆえに、他者に対して否定的になるのは全くの別物だ。
「俺はこんなに頑張っているのに、ろくに努力もしていないあいつがなぜ成功するんだ。」これは一例に過ぎないが、独善性はこういった嫉妬や苛立ちの誘因となる。独善性がもたらす無意味な比較や自己肯定感への執着は、無駄な労力とストレスにしか繋がらない。

独善性のポジティブな点を挙げるならば、気付くのには何かしらのきっかけが必要だが、独善性を手放すことは比較的容易だという点だ。独善的な思考サイクルに気が付きそこに意識を向けると、自らの偏りや視野・度量の狭さがむしろ馬鹿らしく思えてくる。

独善性は足枷。

独善性を手放すと、まず自分が楽になる。
邪念や無駄なストレスを排除し、自分が為すべきことにフォーカスできるようになる。また、柔軟に他者の意見や情報を取り入れられれば、多角的に自己成長を促せる。ゆえに生産性や成長速度が上がる。

そして、多様な他者を受容しリスペクトする姿勢は、自身に跳ね返ってくる。相手に受け入れてもらいたければ、まず自分が相手を受け入れるべきだ。ましてや異質な他者と向き合う場合、異なる価値観を一概に否定しても、生まれるのは軋轢でしかない。大きな世代間ギャップや国籍・文化の違いも、小さな価値観・考えの違いも、受容や理解の先にしか生産的な議論・共存は生まれない。

主観だが、今までに出会ったトップオブザトップの選手ほど、柔らかさや穏やかさを兼ね備えている印象がある。
彼らは日々自らに大きなタスクを課し、持てる労力や能力の全てを注ぎ込んでいる。一方で、他者に対しては寛容で、自らの価値観を押し付けるようなことはせず、他者との違いを楽しみ、その違いから何か気付きや学びを得ようとしているように感じる。
これらの素養も、少なからず独善性と紐付けて考えられるのではないか。