何が間違っているのかわからない。それともわかっているのにわからないふり。
割と長く社会人やっていると、だんだんとなんでも普通のことになってしまいますね。
例えば、明らかにここが間違っている。ここさえ修正すれば、ぜったいにうまく行くとわかっていることを、わざとわからないふりをすることがありますよね。理由の第一は面倒くさいから。若くてね、毎日やる気に満ち満ちていたころだったら、同僚なり上司なり、職場以外でもいろいろな関係者に働きかけて、なんとか良い方向にもっていこうとしたものです。
「としたものです」です。「もっていきました」ではないです。
関係者の方みんなわかっていたと思うんです。ここさえ修正すればぜったいにうまくいくということ。そしたらたまたま、若くて毎日やる気に満ち満ちている人、例えば私、がそこを直しましょうと言ってきた。絶好のチャンスだったはずなんです。
ところが、最終決定権を持っている人というのは、変化を嫌います。もう一つ、明らかにそれを修正しましょうと言ってきたのが自分ではないことが許せない。若造が・・・という感情的なハードル。結果、何も変わらない。関係者の方は「やっぱりね」と思いながら、そういう上司になっていく。若者も、そんな、その他大勢の関係者と同様、大切だけど面倒くさいことをさけながら年を取り、あの時と同じ最終決定権者になっていくのです。
こうすれば絶対よくなることがわかっているのに、わざとわかっていないふりをする人に、なっていくのです。
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