磯田道史「無私の日本人」

生きていくのに焦っていた時期にこの本の中根東里の章に助けられたことを良く覚えている。当時の私は「人はなぜ生きていくのか」「なぜ辛い思いをしてまで生きていかなければいけないのか、辛いことが苦痛であるならば早々に命を経って辛いことの経験を断った方が幸せと言えるのではないか」とよく考えていた。そんな折に見たのが「生き物というのも宇宙に散らばっていた粒が集まってまた再び散る間の存在」である考えである。私たちが辛いことにも耐えて必死に生きていけるのには何か全人類的な大層なゴールがあるのではないかと前提的かつ盲目的に感じていたが、この考えに触れて以降張り詰めた緊張の糸が解けたように感じる。ここにきても命を早く断つことについてその考えが揺らいでいるわけではないが、東里はここから「他人事などなく、またひたすら自分を無にすることで彼はまた我になる我もまた彼になる。この心持ちによって嫉妬や憎悪が消え仁の心が宿る」と説く。


清貧が尊いという感覚はどこからくるのか。これは欲深くない、また欲を自制出来ているということへの尊敬の感情であろう。欲に振り回されて自分勝手になってしまうことが悪いように見られるのではないか。かと言って人間完全に無欲で生きていくことは、お釈迦様のように悟りを開かないとできないであろう。

ここで、(欲深く生きないために)大事になっていくのが、満足することに「満足する」ということだ。欠乏したものが満たされることで我々は欲を一時でも解消できる。問題となるのが欲が解消されるのは一時でしかないということだ。足りなくなればまた求め、逆に満たされればそれに慣れてまた新たな欲が出てくる。そのため、必要なもので満足する考え方が重要となってくる。そして必要なもので満足するためには貧しく・質素であらねばならない。

清貧の本質は「感謝すること」とみた。一箪の食、貧しいからこそ一膳の白飯にも満足することができ、それには感謝することが伴う。日頃のご飯にもよくよく感謝することが「足るを知る」ことになる。

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