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心は香のように身体は花のように

人生を振り返ってみて思う事

今年70歳になりますが振り返ってみると、人生で経験した事は未熟な自分を成長させる為に必然的に起こされていたものと感じます。全てが導かれていたようです。残された人生も導かれるままに素直に生きていきたいと思います。自分の生き方に対しての理想はありますが、気が付くと本能や感情に振り回されてありえない行動をした事もあります。

自分自身が今目指す理想の姿は『心は香のように身体は花のように』です。これは空海さんの言葉ですが、最澄さんの言葉『一隅を照らす』にも通じます。共に平安時代の仏教哲学から来ていますが現代にも通用します。

心は香のように身体は花のように

人間は死ぬまで修行だと言いますがその目指す姿は『人に安らぎや和みを与える存在を目指す』事とは弘法大師空海さんの言葉です。『お香が周りを浄めていくように、その心で社会の汚れを除き、花が人を慈愛で包むように、その身と行動で平和な世を築かれた』と文章の中である天皇の徳の高さを称えています。

お香のいい香りが漂ってくると、ふっと心が安らぐような気がします。また可憐な生花を見れば気持ちが優しくなっていく気がします。お香も花も仏教では欠かせないものです。仏さまも先祖の霊も、お香の匂いと花が大好きだそうですから仏壇にも忘れずに用意しましょう。

仏前に花を供えるのは供養の意味の他に『花のように清く無垢な心を持ち続けるように』と仏様が私達に示してくれているのだという人もいます。人に安らぎと心地よさを与えて消えていくお香と、見返りを求めず唯無心に咲いて人を和ませる花…これは生き方のお手本です。

さりげなく人の役に立ちたいと思ったら『心はお香、身体は花』の心掛けで行動しましょう。『心を洗って香とし、身体を慎んで花とする』

生花は心を和ませます

『感恩』という言葉

私達はたくさんの恩によって生かされていますが、不幸な事に現代人の多くはそれを感じていません。空気や食べ物はあって当たり前。人に何かしてもらっても有難いとは思いません。全ての恩は人間の当然の権利として享受できると思い込んでいます。しかしそれは大きな心得違いです。鈍感、無神経というのは生きていく上で他人にとっても自分に取っても良くない事です。

またその意識がないと、その分だけ不幸せです。人からいい事をしてもらっても、してもらって当たり前だと思っているとそこには喜びは生まれません。恩を感じる事を『感恩』と言います。また仏の恩を『仏恩』と言いますが、どんな恩の後ろにも必ず仏様がいらっしゃいます。

全ての恩は仏様から出ています。仏さまは私達の幸せを願って、私達に限りない慈悲を与えて下さっています。私達は生きているだけで既に得をしています。努力しなくてもいろんなものを頂いて生かされています。それを自覚しないと恩は感じません。無意識や無神経では雨の様に御恩がいっぱい降ってくるのを受け取る事をできません。何億分のⅠしか受け取れません。感じる事ができなければ御恩を無駄にしています。人から受けた恩をありがたく感じたなら、恩返しをしなければとか、人に恩を施さなければという思いが自然に出てきます。そして自分が人に恩を施すと恩を与えたという喜びを感じます。また恩が施されているのを見た人も喜びを感じます。

日本語には『おかげさま』『お世話さま』『お互いさま』という麗しい言葉があります。恩を感じ合うからそういう言葉が湧いてくるのであり、何かしてもらった時に『ありがとう』という言葉が自然に出てくるのです。

無神経で感謝の心が無い人は恩を感じ取れないから受けた恩もそこで消えてしまいま。しかし、情に気付く人達はそれぞれに恩を感じ合い、全ての恩が響き合って、どんどん膨らんでいきます。

そういう世の中にしていく事で私達一人ひとりが幸せになっていきます。もちろん感動や感激を得らとしても人間の苦しみが無くなるわけではありません。しかし損得勘定だけで人と付き合ってみたり、あるいは、他人の事には一切関心が無いような世の中では人間は幸せになれません。

私達は皆、一人で生まれ、一人で死んでいかなくてはなりません。だからこそ他人との関わりは貴重です。しかもこの世は誰もかれもが四苦八苦の苦難に耐え忍ばなくてはなりません。せめて情を掛け合って、心で共に生きていく事で幸せな気持ちに近づきましょう。

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