雑用とは?
中近東の町で
中近東で工事をする時や展示会に参加する時は同じ場所に長期滞在します。そういう時はホテルの朝食が毎日同じで飽きてきます。そこで出張旅費の節約も兼ねて、よく自炊をしました。会社のメンバーと一緒に出張する時には出張者全員アパートで雑魚寝をする事もありました。そういう時は全員の朝食を私が作りました。お米を炊いて、持ってきた日本食や現地スーパーで買った食材を使ってじぶんでは美味しいと思うごはんができました。
『今の仕事が無くなったら皆でレストランを始めましょう』などとトルコ出身のデニス氏に言われると嬉しくなって『明日はもっとおいしいものを作ろうと』張り切っていました。朝食造りなどは雑用と考える人もいるでしょうが、当時の自分にとってみれば楽しくて皆の気持ちがひとつになれる大事な仕事と思っていました。その内に自分用の『レシピ集』まで作りました。
ドバイのアパートで夕食に皆で作って食べたトマト鍋やテールスープ鍋は評判が良かった事もあって今でも絶品だったと思っています。
東アフリカのエチオピアで学校教育用のテレビスタジオや教室のAVシステムを全国7か所に施工した事があります。エチオピアはエチオピア正教というキリスト教の国ですが多くの場所が田舎の為に町にホテルが無い所がいくつかありました。そのようなホテルのない所でもキリスト教の教会があり、そこに宿泊させて貰う計画でした。合計で2か月も掛かる工事の為、工事監督に日本から行く人はたぶん食べる物に困るだろうと予想しました。
そこで商品を日本から出荷する際に、大型の制御卓の本体の奥にごはんやふりかけ、みそ汁の素等外国へ行った時に自分が恋しくなる味で、作る手間が掛からない食材をたくさん詰めて一緒に送りました。後で施工に行った人に聞いたところによると『あれのお陰で力が出た』と大変感謝されて、嬉しく思いました。
『作務』
大徳寺のお坊さんから聞いた話によると、お寺では日常の生活の為の作業を『作務』と言って修行の一つとして毎日こなしているそうです。食事の用意から、トイレや庭掃除、廊下の雑巾がけなどを自分たちで心を込めて喜んで実行されているそうです。その作務を毎日こなす事で心の充実と悟りの心境に近づけるそうです。
『雑用』
渡辺和子さんは先年亡くなりましたがカトリック教会の修道女でノートルダム清心女学院の学長でした。小学生の時に2.26事件で当時教育大臣であったお父様を自宅の顔前で射殺された悲惨な経験をお持ちの教育者でした。
渡辺和子さんによると『時間の使い方は命の使い方。この世に『雑用』という用はない。用を雑にした時に雑用が生まれる。』と言われました。彼女は若い頃、米国の修道院に居ました。『修道院生活をしている時突然修練長から「あなたは何を考えながら仕事をしているのですか?」と問いかけられて振り返ると、そこには厳しい顔をした修練長の顔がありました。「別に何も」と答えると、「あなたは時間を無駄にしている」と叱責されました。』
『そしてその後で優しく諭されました。「時間の使い方はそのまま命の使い方なのです。同じ仕事をするなら、やがて夕食の席につく一人ひとりのシスターの為に、祈りながら並べていきなさい。何も考えないで皿を並べるなら、ロボットの仕事と同じです。つまらないと考えて過ごす時間は、つまらない人生しか残してゆきません。
同じ時間を費やすなら、一つひとつ皿を並べる時に「お幸せに」と自分にしかこめられない愛と祈りを込めて初めて、愛と祈りの人生を送れるのだという事を教えられた』そうです。その結果どうなったかというとシスター達が幸せになったかどうかは分かりませんが、自分から仏頂面が消えたそうです。
『マザーテレサは炊き出しをするシスター達に必ず三つの事を実行するように諭しておられました。パンとスープボールを渡すときには、相手の目を見てほほ笑む事。手に触れてぬくもりを伝える事。そして短い言葉をかける事。それはロボットにはできない、人間の他社に対する愛と祈りの表現です』
仕事は『doing』も大切ですが、どういう気持ち『being』も忘れてはいけません。これは『一隅を照らす』事に繋がると思います。
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