死ぬまで自己中。
和風の平屋建てに足を伸ばす。
チーン、と甲高い金属音が鳴り響く。
この家も、もう売り払うらしい。
正座をして、両手を合わせる。
手相を見て、「あなた、結婚できないね」と信じ難い占い師に言われたのは記憶がある。
ちなみにぼくは結婚願望強め。30までには絶対したい。
レコードとか置いて、90sの音楽とか流して、風通しのいい部屋でコーヒー片手に本とか読みたいし。夜はネトフリ見ながら「ワインで乾杯」とかやりたいし。
できなかったらハスキー犬を飼うことにしてる。
まだ、40億弱の女性がいるし。(ちなみに言わなくてもいいことを言うと、ぼくは結構な確率で振られてるのが現実。多分、「まだ、40億弱の女性がいるし。」とか言っちゃうのが、できない原因。)
ずっと独身で、友達が結婚しだしたら悲しいので、独身の良さを吹き込んで洗脳してやりたい。(既に地元の友達にはその風が吹き始めてる。。)
でも、友達の結婚式とか行ってみたい。エモすぎるじゃん。それ。
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(まぁここからは本題で、賛否両論あることは承知。)
この間、特に深い関わりがあったわけでもない親戚が死んだ。そのちょっと前には、じいちゃんが死んだ。
もうちょっと近い親戚が鬱になった。らしい。
全然悲しくない、と言えば多分それは強がりだし、嘘になるとは思う。
けど、生まれた以上当たり前の、必然の、絶対に抗えない自然の法則に則っただけなのに、生存者は全ての用事を放って、故人最後のお祭りに参加する。
「あの時」は行かなかったのに。断ったのに。
正直、心臓に流れる血の色が変色していく気分。
火葬が終わって、大きいバスに体を預ける。
また生存者が手を合わせるので、僕も社交辞令的に手のしわを類い寄せる。
右前には小さな女の子と、悲しそうな顔をしている女性が話している。
『ちゃんと、手を合わせないといけないんだよ』って。
それは、お参りみたいな通過儀礼的な意味合いなのか、
呪われないようにするためのおまじないなのか。
生きている。って死ぬより薄いことなんだろうか。
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僕は死んだら、絶対に散骨がいい。
世界に僕の骨を撒き散らしてやりたいじゃん。生まれ変わりたくもないし。
行きたくもない直方体の石の前で手を合わせてもらいたくもないし。
だったら、いつでもどこでも手を合わせられる散骨の方がよっぽどか現実的。自分で面倒を見られない「死後の維持費」もかからないし。
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僕の家の犬は散歩が大好きだ。(人間目線で見れば、尻尾を振って走り周りので、そういうことにしている。)
でも、最近は歳をとってきて、散歩から帰ると死んだようにグテる。
頭が悪くなりそうなテレビの騒音の中で誰かがいう。
『もう、散歩行かなくてもいいんじゃない?』
今ままで行ってなかったくせに、よく言うね、なんて言ったら喧嘩になるので、「ははっ」と言って、リードをつなぐ。
まぁ、散歩後の疲れたその姿を見て「かわいそう」なんて思ったんだろう。
でも、僕は、生きがいを殺してまで家の中の牢獄で長生きをするより、で好きなことをして死ぬ方がよっぽど幸せなんじゃないかと思ってしまう。
だから、毎日散歩には行くし、直後に死んでも、多分後悔はないと思う。
殺した犯人か。
幸せのバトン者か。
一番気持ちが悪いのは、普段気にもせずに、考えもしなかった生存者が「かわいそう」とか「悲しい」とか言えるところだ。
僕から見れば、その思考と行動が悲しい。
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地球上の天才生存者たちが、数値では測れないはずの「幸せ」を数値で計測したらしい。
「好きな人と、好きな時に、好きなところへ行き、好きなことをする」のが幸せらしい。
だったら、尚更、生きている間にみんなちゃんと向き合えばいいのに。って。
だから僕は今日、たまたま人に殺されても、「あぁ、運命なんだなぁ」って言って死ねると思う。
でもまずは、パートナーを見つけなくては。
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