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松井五郎さんにきく、歌のこと 3通目の手紙「なぜ、書くのか」 水野良樹→松井五郎

2020.05.11

作詞家の松井五郎さんに、水野良樹がきく「歌のこと」。
音楽をはじめた中学生の頃から松井五郎さんの作品に触れ、強い影響を受けてきた。
もちろん、今でも憧れの存在。
そんな松井五郎さんに、歌について毎回さまざまな問いを投げかけます。
往復書簡のかたちで、歌について考えていく、言葉のやりとり。
歌、そして言葉を愛するみなさんにお届けする連載です。

3通目の手紙「なぜ、書くのか」
水野良樹→松井五郎

松井五郎様

緊急事態宣言が延長され、なかなか“雲”が晴れない日々です。
そのわりに季節はしっかりと前に進み、汗ばむ日も出てきました。皮肉なことに空気は以前よりも澄んでいるようで、いくつかの環境問題が一時的に改善に向かっているという話も聞きます。犬の散歩で外に出て、広いところで胸いっぱいに空気を吸うと、それでも拭えないものをむしろ余計に感じて、この日々の重さを思います。

我が家には3歳の息子がいます。
当然、この日々で一緒に過ごす時間が長くなっているのですが、毎日彼と接していると少しずつ言語能力が発達していくのがわかって、それがまた新鮮で面白いです。しゃべる言葉がより論理的になったり、一度に話す言葉の文節が増えたり。

言葉を覚えていく過程にある彼との会話は、言葉に“慣れている”と勘違いしてしまっている大人の自分にとっては、多くの学びを与えてくれます。

「パパだいきらい!」と言いながら、いたずらっぽくニヤニヤしてこちらを見つめる息子を前にすると、こんな小さな子どもでも、言葉の表面上の意味をフックにしたアイロニカルなコミュニケーションができるのだと驚かされます。

自分なんかよりも、よほど巧みな作詞家かもしれません。
また余談が過ぎました。本題へと入っていきます。

メロディの音数と、それに対する文節の区切り方、言葉のあてはめかたのお話、大変興味深く拝読しました。作詞にあたるうえで「メロディの“性格”を分析する」という言葉から始まる一連は、紙上の文字だけで表現する段階にとどまってしまいがちな作詞の作業において、油断するとすぐ忘れてしまいそうなことだと思います。

ひるがえって自分の制作作業のなかで、それらはどのように行っているのか考えたとき、やはりそれは松井さんが言うところのシンガーソングライターの書き方に近いのだろうと思いました。

詞曲をともに書く自分のような人間は今まで何度も「詞が先ですか?曲が先ですか?」と質問されてきました。僕はいつも「曲が先です」と答えるのですが、この返答、80%くらいは真実なのですが20%くらいは「厳密じゃないな」と思う答えです。

なぜか。
メロディをつくっている段階で、作詞の下準備のようなことが同時に始まっているからです。松井さんがおっしゃった「メロディの“性格”を分析する」作業も言い換えてしまえば、このときに自分のなかでは行われていると思います。

メロディを書く際は、僕はどんなときでも必ず歌いながら書きます。
楽器でメロディを弾いて作曲するようなことはまず無く、鍵盤やギターで簡単な伴奏をしながら、とにかく延々と歌い続けてメロディの展開、置き所をさぐっていきます。曲が書き終わるころには声が嗄れているなんてこともめずらしくありません。

この延々と歌う作業が、まさしく僕においての作曲作業なのですが、そのとき当然ながら歌詞はできておらず無茶苦茶な言葉をあてていくことになります。意味のない言葉をアドリブで感覚的にはめて歌っていきます。

もう、話の先をご想像かと思いますが。そうです。

無茶苦茶な言葉を歌っていく過程で、このメロディが求めている語感をさぐり、体に叩き込んでいきます。どこでどの母音(あるいは子音)をもってくるのが気持ちいいのか。どういう文節の区切り方をすればいいのか。延々と歌い続ける作業のなかで、それらを頭というよりも体感でとらえていくイメージに近いです。

だから実は作曲と作詞とは自分のなかで明確に分離されているわけではなくて、地続きのような感覚なのかもしれません。実際に作詞をする段階では、自分の肉体はもうメロディのボディラインをとらえているようなイメージです。

あえて“肉体”と言いましたが、やはり頭でとらえているというよりも、肉体でとらえていると言った方が実際の感覚に近いのです。すごく運動的というか…。くしくも松井さんが“歌として発声する時の音圧のような事も考慮する”と書かれていましたが、僕も歌っているときの体内の響き、共振みたいなものを意識して言葉を選ぶことが多いので、似たような感覚なのかもな、と思って読ませて頂いていました。

(加えて余談ですみません。この肉体でメロディの機微をとらえるときのセンサーのようなもの。何を心地よいと感じ、何に違和感を感じるのか。そのセンサーを僕は中学校時代、松井さんの作品を部屋にこもって歌い続けることによって体のなかに育んでいきました。)

もっと白状すると、メロディも100%まではつくりこみません。95%くらいの段階で作詞に入ります。語尾とか、ちょっとした休符の入れ方とかを、曖昧にしておきます。すべての接点をガッチリ固定するというよりも、いくらかネジを緩めておいて可動域を広げておくようなイメージです。それを作詞の作業をするなかで徐々に確定させていく。作詞の作業が、作曲の作業の最終工程のようなものと言ってもいいかもしれません。そういう意味であえて分類するのなら、自分はシンガーソングライター的な書き方をする書き手なのでしょう。

しかし、シンガーソングライター的と言いながら、自分は決定的に“シンガーソングライター”的ではない部分があります。いや、正確に言うのなら“あった”と言うべきでしょうか。

それが、松井さんが問いかけてくださった、作家と作品の精神の整合性に関する点についてです。

一般論として、シンガーソングライターは書いた歌を自身で表現するという出口の問題もあって、作家と作品とのあいだに自己同一性を求められがちです。ある時代は、それが社会でも重要視され、表現としての質はともかく「そのひと自身が書いた“ほんとう”の言葉」であることに、もはや偏重と言っていいほどに重い価値がおかれていた頃があったように思います。

僕はおそらくその価値観がすでに前提となった時代に、青春時代を過ごした人間です。

ですが、僕は作品を短絡的に作家と強く結びつけ、ときには作家の安易な分身(悪く言えば付随物のようなもの)として定義することに、端的に抵抗がありました。

理由はざっくりとふたつあります。
ひとつは、作品のなかに自分の精神を直接的に表現しても、それは現実とはならず、むしろフィクションにしかなりえないこと
そしてもうひとつは、ひとりの人間の限界を超えるのが作品をつくる意味であるということ

言葉とはその存在そのものが、すでにフィクションです
僕が何かを食べて「美味しい」と表現した、もとの感覚、感情は、本来はすがたかたちや輪郭があるわけではなく、漠然としたものです。
たとえるならば感情とは液体のようなもので、それを言葉というグラスで汲み取り、グラスを指差して「ほら、これが“美味しい”だよ」と目に見えるかたちにしているだけです。言葉とは現実とは違うものだと僕は考えています。

それゆえに、作家が、作品のなかに自分の精神をありのままに表現したといっても、それは多くの場合、現実よりも矮小化されたものになります。自分という存在よりも“小さな作品”をつくることに、僕はあまり価値を感じられません

しかし、ここで忘れてはならない大事なことがあります。
フィクションであるからこそ、自分よりも作品を“大きな存在”にすることができるという、可能性についてです

例にあげてくださった川内康範さんは、作品にご自身の政治観、倫理観を強く反映させていた作家だったように思います。また実際に創作活動以外の直接的なアクションも多くとられた方だと認識しています。

一方で、その川内さんでさえ、作品の紙面上に、精神を直接的に表現することが主だったわけではなく、虚構のなかに精神を組み込ませるというやりかたで、作品をつくっていった方だったと思います。

「月光仮面」などはまさに、その際たる例でしょう。
水原弘さんの「君こそわが命」なども、川内さんの“愛”にまつわる価値観が強く組み込まれているように思います。

川内さんと同世代で、同じく戦争を経験した、やなせたかしさんが「アンパンマン」という物語に仮託した価値観なども、川内さんの価値観とは異なるところが多々あったと思いますが、方法論は同じように思います。

作品にこそ、物語にこそ、虚構にこそ、そのひとの人間としての本質、思想の原液のようなものが滲み出てしまう。それが作品を“自己表現”としたときの面白さのように僕は思います。

さらに言うのならば、作品とは、そこまで色濃く作家の精神性を内包しながら、それでいて外側に開くことも可能です。作家という存在だけに縛られず“誰かのもの”になることも可能なのです。

僕はなぜ作品をつくるのか?と問われれば、究極的には、自分という存在を超えたいからだ、と答えます。

それは自分の死を超えることであったり、自分の正義を超えることであったり。

たとえば、目の前でナイフを握り締め、自分を殺そうとするひとがいたのならば、僕がその彼を愛することはおそらく不可能です。場合によっては身を守るために、僕も彼を攻撃してしまうかもしれない。これが、ひとりの人間としての僕の限界です。

ここまで極端なことはなくとも、日常のなかで自分が抱える政治性、正義というのは必ずあるわけですから、いつも誰かとわかりあえない自分で生きていかなくてはなりません。それは致し方のないことです。

しかし、僕を殺そうとしたひとが、僕がつくった歌には心動かされるという可能性は十分にあります。それは僕にとって希望です。

僕というひとりの人間がわかりあえないと思うひとに対しても、歌は手をそえることができるかもしれない。僕という人間が死によって社会から分断されても、歌は残り続け、僕の思想の原液は、それが歌われることによって誰かのなかに内包されていきます。

そこが作品をつくることに対して、僕が抱いているある種のロマンであり、目的なのかもしれません。

そこを信じて、今も歌を書いている気がします。

長くなってしまいました。

松井さんは、なぜ、歌を書くのでしょうか。

水野良樹

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