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松井五郎さんにきく、歌のこと 6通目の手紙 「契機となった“決定的な作品”」 松井五郎→水野良樹

水野良樹様

 相変わらず良い見通しが立たない毎日ですが、日々示される様々な数字に少し鈍感になってきたような気がします。音楽産業も厳しい状況に変わりありません。しかし、経済的にも誰もが厳しいはずなのに、音楽を支えてくださるファンの人たちには感謝しかありませんね。まだまだ戦いは続きそうです。頑張りましょう。

 さて、水野君が接してきた音楽は僕も同時代的に体験してきたものも多く、時に送り手として関わったものもあったり、大変興味深く拝見しました。水野君が安全地帯や玉置浩二を聴いてくれていた時期があり、その後ミュージシャンとして成功した事実は、僕や玉置にとって、ひとつの答え合わせを見た気がします。前回も書いたように、いきものがかりを聴いた若者がミュージシャンとして活躍する時代がもう来ていて、この連鎖こそが、我々の命の別の形かもしれません。今日お伝えしようと思ってる事もきっとそんな連鎖の話ですね。

 以前書きましたが、自作のきっかけはフォークムーブメントでしたが、それよりも前に音楽を意識したのは、おそらく加山雄三さんだったと思います。まだ小学生の頃、ゴジラなど特撮映画を観に行く流れで映画館に通いはじめ、若大将シリーズも観るようになったと記憶しています。女子たちはグループサウンズに熱狂していました。タイガースやテンプターズの曲は好きでしたが、男子がジュリーやショーケンの名前を口にするのは憚られる空気でした。加山雄三さんはスポーツのヒーローも体現されてましたから、男子が憧れるに相応しいアイコンだったわけです。2014年に加山さんのシングルを作詞させて頂いた事は、まさに夢の出来事でしたね。作詞岩谷時子、作曲弾厚作は今風に言えば神クレジットだったわけです。

 日本の音楽の歴史の中で加山さんはシンガーソングライターの先駆けでした。後になって自分がこの仕事をするようになり、いかに加山さんのメロディラインが素晴らしいか再認識しました。浜口庫之助さんや服部克久さんもそうですが、少ない音数や構成で、最大の効果を生むメロディ。昭和の先人たちの残したものは永遠に高い壁です。少ない音数という意味では、やはり玉置浩二も凄い作曲家ですよね。メロディに同化し、更に音と音の合間の無音もきちんと旋律として捕らえないと、言葉が活きてこない。往復書簡でも度々出てきた「書かずして語る」事を勉強させてもらった作曲家だと思います。

 その後、自分が多感な時期に影響を受けた音楽は映画から聴こえてきました。70年代ニューシネマは多くの洋楽を運んできました。ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクル、ビートルズ、ローリング・ストーンズetc.ロックの洗礼は映画で受けたのかもしれません。一方でヨーロッパ映画からはエンニオ・モリコーネ、フランシス・レイ、ミシェル・ルグラン、ジョン・バリー、バート・バカラックなど映画音楽の巨匠たちが生み出した名曲に心打たれました。

 作詞に於ける構成や演出は映画から学んだ気がします。歌詞をひとつの物語と考えれば、ト書きと台詞で構成されています。作詞という作業はフィルムを編集する感覚に近いと思います。ピンク・フロイドやイエスなどのプログレをよく聴いていたのも物語性があったからじゃないかな。外国語はそれほど理解できていませんでしたが、逆にそれが想像力を膨らませる結果になりました。その頃はじめたのが、洋楽を聴きながら本来の歌詞を無視して詩を書く事です。メロディに乗せるのではなく、散文詩に近い形で、その曲のイメージを好き勝手に書いていました。僕の作詞の素地はこの頃にあると言えます。

 70年代カルチャーの影響の流れで、その後ギターを手にして自作をはじめると、洋楽ではボブ・ディランに影響を受けました。ニューシネマでは体制に屈して敗北していく若者たちが多く描かれていました。ベトナム戦争の火はまだ消えてはいませんでしたし、学生運動も衰退してはいたものの、あさま山荘の事件などもあり、時代の空気は閉塞感がありました。そんな中で反抗心というのは若さの重要な要素だったように思います。ただ、僕自身は本当の意味でのプロテストをするにはまだ子供でした。ボブ・ディランやジョン・レノンの歌詞で語られる内容は頭で理解はできても、体感という点でリアリティに欠けていたように思います。恐らく、その点で、日本の戦争を知らない世代が共通した時代の空気を体感しながら創造と向き合う初めての経験は、阪神淡路や東北の震災だったかもしれません。そしてそれは現在のコロナ禍も同様に。

 80年代に入り、「We Are The World」後は、博愛的な作品も多く生まれ、自分も絆や愛について語る歌を多く書いていたように思います。エンタメにイデオロギーを持ち込む事を嫌う日本人からすると、「We Are The World」は抗議や弾劾とは違う方法で世界や社会との距離を考えるのに、とても大きな役割を果たしたと思います。この曲の精神は現在に続くチャリティの指針になったのではないでしょうか。源流を辿れば1971年のジョージ・ハリスン主催の「バングラデシュ難民救済コンサート」もあります。世界は常にどこかで悲劇が生まれています。日本の平和の中で世界を意識する歌を作るのはずっと課題でした。インターネットの普及によって生まれたボーターレスという感覚は、今後もヒントになるかもしれません。

 90年代以降、意識してひとつのジャンルに絞らず、様々な音楽を聴きながら、字面としてだけでなく、音楽として作詞を捕らえようとしてきました。サブカルチャーだったアニメや声優のアーティストがメインストリームを席巻し、ヒップホップも市民権を得て、歌詞の在り方も随分変化してきました。演歌や歌謡曲の様式美も絶えさせてはいけないものです。不変と革新。その狭間で創造者は常に葛藤していると思います。
 
 自分が出逢ったアーティストでは、やはり玉置浩二は不変と革新の両方を兼ね備えた作曲家ではないでしょうか。どこか懐かしい邦楽的なメロディも作れば、時に楽器のリフのようなフレーズだけでも作品を成立させる。1986年に作ったアナログ3枚組「安全地帯V」はまさに不変と革新の試みでした。出来上がっていた曲を3枚組にするのではなく、3枚組を作るというところからはじまったプロジェクト。制作期間が約1年、その間に映画のサントラも制作するという恐ろしいスケジュールで進められました。いまふりかえると、アルバム中の「こわれるしかない」「燃えつきるまで」といったタイトルは、この時の状態を表しているようですね。

 今回のテーマである「決定的な作品」ということで言えば、自分の作品では曲ではなく、「安全地帯Ⅱ」と「安全地帯V」になるかな。勿論、僕のデビュー作CHAGE and ASKAの「熱風」や氷室京介の「NEO FASCIO」や「Memories Of Blue」も転機になったアルバムでした。どの作品もほぼアルバム単位で関わることが出来た事が大きいですね。曲単体ではなく、そういったアルバムを残せた事が、自分のイメージしていた職業作家とは違う立ち位置を保てた気もします。

 そういえば、氷室京介のイベントで「KISS ME」の歌詞原稿が展示されることになりました。もう僕の手元にはないものばかりでしたが、改めて見て、最終形に到達するまでの試行錯誤が面白かったです。初稿はタイトルも違うし、そもそも歌詞中のKISS MEもKISS MEじゃなかったり。

 水野君はそういった経過を残していますか?僕は物持ちいい方なんですが、手書き時代のものは流石にないものが多いですね。途中、PCになる前にワープロなんていう時代もありましたし、フォーマットが変わってしまうと変換できない作品も多々あります。他の人はどんな風に詞を書いてるんだろうといつも思います。

 自分がなにに影響を受けたか、先にテーマを振っておきながら、ふりかえってみると、たくさんありすぎて困りました。自分の年齢を考えると自伝のようになりそうです。

 さて、吉岡聖恵さんのご結婚のニュース、この暗澹とした日々に一筋の光が射したようです。おめでとうございます。私生活の変化は、作品にも影響すると思います。そして吉岡さんの歌も変化していくのか、水野君の作風も変化していくのか。

 過去もアーティストの私生活の変化が、作品に影響する事は多々ありました。その都度、作詞者はどう在るべきか悩んだりもしました。作品に禁句が生まれたり、同じ歌を歌っても印象が変わってしまったり。勿論、悪いことばかりではありません、私生活が幸福である事は正しい事です。ただ、フィクションとノンフィクション、そしてリアリティという事を考えると、制限が生まれるのも事実かと思います。その場合の忖度は果たしてアーティストのためになるのか?

 以前、恋人が気にするから別れの歌詞は書かないでくれと言われた事があります。作品はドキュメンタリーである一面もありますが、私事しか歌えないのも世界観を狭めてしまうようで首をかしげました。この事は、作詞家という立場からすると、アーティストの肉声に聞こえるかどうかを左右する重要なポイントだとも思います。

 表立っては書きにくい部分もあるかもしれませんが、作家としての水野君は、アーティストのパーソナルな部分とどう距離を保とうとしているのでしょう?

 コロナ禍の自粛生活で、近況報告代わりに玉置に歌詞を送ってみました。それがどうなるかはまったくわかりませんが、もし彼の琴線にふれれば、二人にとってはじめての詞先ということになります。

 人生まだやってない事がありますね!!


松井五郎

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