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松井五郎さんとの往復書簡を終えて


作詞家、松井五郎さんとの往復書簡企画が、10通目を区切りに一度終わった。

初回から約1年を通しての手紙のやりとり。

互いに10通ずつなので、重なった手紙は20通ほど。松井さんも自分も字数制限などは設けず、自由に書き合ったので1通が数千文字の分量となることが常で、たぶん新書1冊分くらいの文字量にはなったかもしれない。

普段、歌詞という、言葉数だけを見ればミニマムな世界での表現を主戦場にしている二人だけれど、その”ミニマム”に詰め込んでいる何かを、際限なく手紙のうえにこぼせば、それはある程度の量となることは、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。

中学生のとき、実家の一人部屋でアコースティックギターを抱えながら、ずっと飽きもせずに歌っていた。自分がこの世界に入って、一応、まがりなりにも食えているのは、おそらくあの時間があったからだと思う。それは技術の面でもそうだし、マインドの面でもそうだ。あのとき育んだものが、38歳のここまでへと連れてきてくれているし、今、自分をかろうじて立たせている。

あの頃、夢中になってめくっていた譜面には、作曲者の欄に玉置浩二と書かれていて、そして作詞者の欄に松井五郎と書かれていた。玉置浩二に夢中になって、その過去をたどって安全地帯にたどり着いた中学生の自分は、松井五郎というひとが書いた言葉を歌うことで、メロディに言葉をのせるときの身体感覚を与えられた。

理論とか理屈以前に、体で覚えた。歌での、走り方を。飛び方を。
だから(誇張せずに言っているつもりだけれど)自分は、松井五郎というひとの言葉を母体として、生まれてきたソングライターだと思う。


…と、まぁ、こんなふうに、暑苦しい憧れだけを延々と語る後輩に、松井さんが辟易されないだろうかと、内心どきどきしていたけれど、松井さんはときに上品にリードしてくれながら、ずっと同じ熱量で手紙を返してくれた。

ずっと昔に書いた歌が、それこそ手紙のようにどこか遠くに届いて、やがて時が経ったのち、頭でっかちで理屈っぽい後輩が目の前に現れた。そいつが「あなたの言葉から生まれました」とか言うのだから、困ったものだと思う。

松井さんだって、こんな「返事」を、予想はされていなかったんじゃないか。
自分という存在そのものが、ずいぶんあつかましい「返事」となった。

二人で、のべ20通に及んだ手紙は、とても稀有な時間のなかで交わされた。

2020年の春から2021年の春まで。
やがて多くのひとが思い出すであろう、重苦しい1年。たがいに筆がわずかに止まったときもあった。文章の節々に滲み出るもの。原稿のやりとりのときに交わされるちょっとした事務連絡の言葉のなかにさえ、立ち上がる霧のようなもの。そういうものには自分も敏感だった。

自分は最初、14歳のときの過去の自分の夢をかなえさせて頂くという文脈で手紙を書いていたところがあった。だが、途中から少し変わった。

これは、おそらく未来から読み返すものになる。
そこにわざわざ触れはしなくとも、まるで焚き火を囲むように、常に”今”という現実を互いのあいだに置いて、二人は歌詞のことを話していたのだと思う。

「母体として生まれてきた」と言いながら、世に放たれて、勝手に育っていけば、よくも悪くも違うものになっていく。交わす手紙のなかで、作詞の事柄で松井さんと距離がある要素をみつけると、それはそれで嬉しくて、もちろん改めての学びとさせて頂けることも多かった。

自分も、自分なりに、少しだけ歩いてきたのだな。そう思えて、恥ずかしげもなく喜んだあとに、ふとこれも松井さんが導いてくれた喜びかなと思い返す。


歌は流れる。流れていってしまう。
手紙も歌も、書き残して、いずれどこかへ。書くことに懸命であった自分たちにできるのは、願い、そしてまた書くことだけだ。

いつかどこかで、誰かによって、返事が書かれていることを、信じて。

松井五郎さん、本当にありがとうございました。


水野良樹



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