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HIROBA AFTER TALK with コンドウアキ



”カンタン”に見えるもの。
”ゆるく”見えるもの。
”優しく”にも、”易しく”にも、見えるもの。

それはあくまで、受け手に届くときの、出口にたどりついたときの姿であって。

じゃあ、最初から作品は、そのシンプルさを手にできていたかと言えばそうではないし、心地よい滑らかな線を得られていたかと言えばそうではないし、どうにも愛らしいその空気をまとえていたかと言えばそうではない。

すべては”たどりついた”ものだ。


気が遠くなるほど長い道のりがある。

高い山へと登る階段を想像してみてもらってもいい。

何百段も階段があって、それらは舗装された綺麗な階段ではなくて、ごつごつとした岩の、ときに足をとられるようなもので。

それらを一段、一段、丁寧に登っていく。


ただ登っていけばいいのではない。荒々しくてはいけない。

登り方だって求められる品がある。在り方がある。踏みしめるべき文脈がある。

誰かが見てくれているわけではない。
もっと言えば、誰かが求めてくれるわけでもない。


多くのひとたちが欲しいのは、いつも"たどりついたもの"だけであって、そこまでどう歩いていくかなんて、あまり興味がないのだ。階段を登っていくときの背中に応援の声などかけてくれないし、ましてや称賛などしてくれない。(たまにすべてが終わったあと物語(=ドキュメンタリー)として楽しんでくれるくらいだ。それは、ちょっと冷たい楽しみ方でもあるのだけれど)


だから、自分で自分を律さなければならない。

けっこう、いや、かなり。寂しい道だ。孤独と言ってもいい。

だから”たどりつくひと”は、いつも優しいし、強い



コンドウ先生はたぶん首を振る。サバサバっと。ときにユーモアもまといながら。

「あなたは強いひとですよ」

「いやいや!」

「あなたはまじめですよ」

「いやいや!」

「なんで、そんなに一生懸命になれるんですか」

「いやいや!」

「めちゃくちゃ素敵な作品、ありがとうございます」

「いやいや!まだダメなところがあるかもしれないから、なんでも言って!」

「もう、めちゃくちゃ完璧じゃないですか」

「いやいや!ほんと、言って!」


どこまで、登る気なんだ。こっちがそのストイックさに感動していると最後にまた首と手をぶんぶん振りながら、言う。


「いやいや!わたしなんて、ぜんぜん」


たいそうな数の階段を、せっせと登ってきた。急な坂道を。
当然、息は切れているだろうし、途中、擦り傷のひとつやふたつはついているだろう。筋肉痛だってえらいことになっているはずだ。でも、たどりついたそのひとは何事もなかったかのような顔で、そっと作品を誰かの脇に置く。


すっと。差し伸べる。


子どもたちは、鉛筆を手にとって、絵を描く。

たどりついた”カンタンさ”(=シンプルさと言い換えてもいい)は、誰もがそれを自分のものにできるような寛容さを作品に与えてくれた。

寂しさにさいなまれているひとは、そっとキャラクターを隣に置く。

たどりついた”優しさ”は、押し付けるものではなく、作品をただそこにあるものにしてくれた。



ふと、かたわらにいてくれるもの。

それこそ、優しさと強さの、かたまりだと思う。


HIROBA 
水野良樹






















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