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「TOKYO NIGHT PARK」高橋久美子対談 ~外側を見るって、内側を見るために大切なことなんだな~

水野:去年の春前ぐらいに『HIROBA』の茶会へ久美子ちゃんに来てもらって、関取花ちゃんもいて。3人で代々木上原のカフェでお茶をしたんですよね。気の置けない仲というか、話しやすいひとと話そうって。それで「この日常の感じが良いよね」みたいな雰囲気で終わったら、その日常がぶっ飛んでいったっていう…。そこから1年経って、いろんなことがありましたけれど、こないだ久美子ちゃんに『旅を栖(すみか)とす』という本をいただきまして。10年間に渡っての旅エッセイなんですけど、まさに今は旅ができない状況で。きっとこの本を通して読者のみなさんは旅をしたりすると思うんですね。

高橋:旅行したいよー!っていう熱がこの本に詰まりまくっていると思います。とくに海外なんか行けない状況の中で、この本を出すのはどうなんだろうと、出版社のひとも心配していたんですね。でも、だからこそ読みたいんじゃないかなって。それで2020年、どこにも行けない1年間、部屋に籠ってずっとこの本を書いていました。過去の旅行記というか、メモノートがもう30冊ぐらいあるんですけど、それを読み返しながら。ただ、海外とか遠いところに行くことだけが旅じゃないよねっていうのも、去年1年で感じたかも。久々に見た空がすごく綺麗だったり、そういうのがみんなあったんじゃないかな。洗濯物を干しにベランダに行ったときの「私たちって地球の子どもだったんだよね!」みたいな感じ(笑)。

水野:わかる。「何気ない日常が大切」って、わりと歌詞でありふれたフレーズになっていたじゃないですか。でも本当にこれを体感できるのは、悲しいけれど素晴らしいことというか。

高橋:動物の原点に帰った感があります。人間じゃない生物。たとえば植物なら、人間の動きとは関係なく花をつけて実をつけて紅葉してという動きで。そういうものを観て励まされたり、活力になった1年だったなとも思ったりして。だから、ちょっとした近所の散歩も、海外旅行するぐらいの旅になったり。なんか、読んだひとたちが一緒に旅をしとるような感覚になる本になったらええなぁと思って…。ものすごい熱量でしたよね。読んでいてしんどくなかった(笑)?

水野:しんどくない(笑)。 読む側も想像力を働かせる状態になっているというか。僕らが全然行ったことない街、会ったことないひとが本の中に出てくるじゃない。そこで久美子ちゃんが思ったこと、たとえばお金のやり取りとかで自分の価値観が揺らいだりする瞬間とか、そういうものを読者の想像力がビンビンになっているときに読んで良かったなって。もし、この本を読んで「じゃあ今度の休みに行ってみよう」みたいなことができる世界だったら、そんなに想像力を働かせなかっただろうし。この本に書かれている街も変わっているんだろうなということも思ったし。だからこそ今出す意味があったんじゃないかなと感じましたね。

高橋:ありがとうございます。そうだね、日本だけじゃなく世界全体がストップしている状態なので。本の中に登場するひとたちは今どうしているんだろうみたいなこともねぇ…。元気でいるんだろうか、とか。もしかしたらみんなも想像しながら読んでくれたのかもしれないなって思ったなぁ。

水野:本の中に、現地のタクシーのひととのやり取りとか、市場でのちょっとしたやり取りとか、いっぱいあるじゃない。で、そのときの人間の圧ってあると思うんですね。そこに実在していて、多分このひとは家に帰ってこういう生活をしているんだろうな、とか。そうやって目の前にいるひとに対して想像することを、あまりしてない1年だったなということもまた振り返ったりして。

高橋:ひとに会わないってそういうことやもんね。会ってないからこそ想像できない。心配することはあっても。なるほど…。だから本の中のひとたちをより想像できるのか。

水野:映像で浮かぶっていうのもあるんだけど、ちょっと温度も浮かぶというか。

高橋:人間同士の温度感だったりね。私は国とか関係なく「もしこのひとが同じクラスにおったら…」と想像することが多くて。いつも海外に行くと、言葉はそんなにわからないんだけど「クラスではこのひとと私の関係性はこういうポジションだっただろうな」とか「このひとはクラスのムードメーカーだっただろうな」とか思うんです。水野くんと私も同級生なんやけど「同じクラスにおったら、話をしたかな? いや、してないかな? だけどきっと端っこにいる同士だっただろうな」とか(笑)。そういう現実的な想像をすることが多いのかもしれんね。

水野:それがわかりやすさに繋がっているのかも。ちょっと話を変えて、今さらだけれど、本当にたくさんの国に行ったね!ビックリしました。もともと旅行は好きなタイプだったんですか?

高橋:そんなには行かんけど、学生の頃からちょろちょろ。沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読んで、「あ、私に足りないのってこういうリアルな熱というか、外の世界を知ることだったのかも」と思って。それで2009年くらいから行き始めたなぁ。

水野:逆に僕は旅が苦手で、とくに海外旅行とかは怖気づいてしまうんですね。あえてド直球に訊くとすると、旅の醍醐味って何ですか?

高橋:とくに日本に帰ってきたときに「あー、日本ってこんなに良い国やったんやな」って気づかされるよ。安全だなとか、綺麗だなとか、ひとが優しいなとか、誰も騙してこないなとか。だから外側を見るって、内側を見るために大切なことなんだなって。あと「海外旅行するといっぱい歌詞が書けるでしょ?」って訊かれるけど、全然そんなことなくて。歌詞を書くために行っているわけでもないから。珍しいものがいっぱいあって、ギョロギョロ見ていて、逆に何にも書けない感じもあって。だけど、新しいものを見ることって、本当は日本でもできることなんですよね。近所を散歩しただけでも台湾に行ったぐらいの発見はあるはずなのに、見落としていることっていっぱいあって。そういうものを見るための目をひらきたいから、海外に行っている気がします。

水野:それはめちゃくちゃおもしろいね。自分の目の感度のリフレッシュというかね。やっぱり毎日行く喫茶店への道すがら、何も発見がないと思い込んじゃっているもんね。

高橋:そう。本当は発見ってある。だけど、歌詞を書こうと思って街を歩いていたら、目が海外旅行と同じ感覚になっているんよ。パーンッて第三の目がおでこあたりにひらいて、それで見ていることない? 水野くんどう?

水野:いやー…俺は…。自分の話じゃなくて恐縮なんですけど、前に芸人さんとロケ番組に行ったときがあって。ある芸人さんがロケバスで動いている途中、誰も気づかないものに気づいていくんだよね。それは話したら何気ないことで、たとえば「家の壁の模様がプレイステーションのコントローラーみたいだね」とか。でも、言われてみると「たしかにそうだ!」「何をコントロールするんだろう?」みたいなことで笑いが起きる。そのとき、気づきってすごいなってビックリしちゃって。今の久美子ちゃんの話も、芸人さんがおもしろいことを見つけようとアンテナを張っていることに近いなと思った。歌詞を書こうとしたときに「何か物語が立ち上がるものないかな?」って歩く。で、隣のアパートのちょっと開いている窓を見て「ここ何かあるかな?」って気づいたり。

高橋:そうそうそう。最近、海外に行けんからやることがあって。近所を「ここは台湾だ!」と思いながら歩くんです。台湾って漢字やんか。日本も漢字やからだんだん台湾に見えてきて。看板とか選挙ポスターとか見ても「こういうひとが出ているんだね!」とか「こんなポスターの色合いなのか」とか思ったり。いつもよりおもしろく楽しくモノが見える。そう考えると、今までほとんどのものを見ずに歩いていたんだなって思いましたね。

水野:家で過ごす時間が長くなったひとたちも、きっとそういう感覚になりやすいよね。毎日通っていた道が久しぶりに感じられることが多いから。

高橋:そうだと思う。みなさんリモートワークが多いと思うんですけど、久々に会社に行ったときって、また真新しかったり、懐かしかったり、「あー、あんなに嫌だったけど、なんか良いなー、好きだなー」って思うかもしれないなとか。だから期間を空ける、空間を空けるって、わりと発見に繋がることなんだと思います。

水野:でもまた怖いのが、マスクをすることにもう慣れてきているじゃないですか。座席をひとつずつ空けるとか、距離を保つための並び方とか、街中にいっぱい指示があったりして。最初は戸惑ったけど、みんなだんだんそれに慣れて。要は、この新しい雰囲気が当たり前になってきているんですよね。逆に1年前のドラマとかを見ると、すごく近い距離で喋っていて「これは今だったらありえないよね」みたいな。

高橋:そうなんよ。ドラマだったらまだアレやけど、ドキュメントとかでその街へ行く『鶴瓶の家族に乾杯』とか。昔のやつを観たら、すっごい密になって「鶴瓶さーん!」とか言っていて。今ならできないねー!と思うよね(笑)。

水野:だから結構、人間の感覚ってどんどん良くも悪くも適応していくんだなって。なんか、みんなが距離を取るとか、マスクをするとかに慣れてきた中で、歌詞を書くときに重力が変わったりする? 震災のときは明確にあったと思うのよ。簡単な<笑う>みたいな言葉も、重みが違うなみたいな。でもまた震災とは種類が違う、インパクトのあることが起きていて。それって歌詞に影響するのかなって。

高橋:あえて元気づけようみたいな意識はないけど、やっぱり影響しているとは思いますね。私の感覚が、みんなと同じように変わったということもあると思う。私も1年間実家に帰れていなかったりして。だから<会う>ということがものすごく尊いことなんだっていう気持ちが、前よりも強く心の軸にあって。それが歌詞に出ることはあるな。体感したからこそ、真実味を持って書けるというか。あと、聴くほうもそうなんだろうね。過去の曲であっても、前はスーッと流して聴いていたのに今、何倍も感動したり。

水野:そうですよね。なんかタイアップ曲で、わりといろんな制限がある中、まったくコロナは関係ないつもりで書いた曲でも、ちょっと自分のモードが変わっているなって思う。あとこの1年で、悲しい決断をしちゃうひとも何人かいたじゃない。旅立ってしまうというか。で、なんかこう…覆っている空気みたいなものはどうしても敏感に感じるというか。それが楽しい歌を書いていても、ちょっと…あるよね。

高橋:それはすごく…あるな。今、小説集を作っていて。2年前から書いていたものもあるんだけど、コロナの前に書いていた作品を入れるのはどうなんだろうって。こんな無邪気で良いのだろうか。それが今の時代というものにそぐわないんじゃないか。そういう心配はあったりしますね。書き直したほうが良いんじゃないかなって。

水野:自分が書いた物語の見え方が変わったりする?

高橋:そういうことなんよ。あとリアリティーがなくなるってことなのかもしれん。それぐらい世の中の常識や定義が変わったってことなのかもね。知り合いの映画監督さんは、去年の3月までに脚本を書き終えていて。「できあがった!」「おめでとう、良かったねー」って言っていたんだけれど、そこから緊急事態宣言に突入して、書き換えたって言ってた。すべてを。たくさんの方に観てもらえるのが良いだろうということを考えると、定義が揺らいだら、やっぱりそういう選択になったんだろうなって。だから作るひとにとっては、まぁ目がひらいたという点ではおもしろいというか、新しいものが書けた年でもあったんだろうけど…。大変な年でしたよね。

水野:過去を知っているというのがまた重いよね。今、震災から10年経ったわけですけど、あのときの世の中の空気を大人として感じていて、経験として持っていて。で、震災前の空気も知っている。このコロナの前の空気も知っている。そうやって全部自分の中に蓄積されているのが、余計に難しいなって。ひとつのモードでいられれば、それは楽なのかもしれないけど。

高橋:そうだね。近所のひとと喋るときなんかも、前は気軽に声をかけていたんだけど、ちょっと「あっ…」って距離を取るとか。なんか喋るときの人間と人間の距離って、すごく重要だったんだなとかも思いました。親しいひとだったら離れていても大丈夫なんだけど、時々話すようなひとは近くにいるから親密に話せたってこともあったから。だから少し距離を取って、マスクをして、ってなると「あ、また今度!」って感じになりがちというか。そう思うと、人間関係を構築するのが少し難しくもなったのかな。まぁそれは前と比べたらってことだから、また新しい方法があるね。

水野:そうですよね。ちょっとここで話題を変えまして。リスナーからのメールを一緒に聞いてもらってもいいでしょうか。


水野:「clubhouse」やってる?

高橋:やってないよ。恐ろしいー!水野くんやってるんよな? Twitterで一回見た気がする。

水野:そう、知り合いにやってみようって言われて誘われて、一回だけ話したんだけど、それ以降はもう話してないし見てないね。何がダメだったってわけでもないんですけど…。

高橋:あれはつまり部室っぽい感じってことよね?

水野:一応、非公開で、密室というテイになっていて。たとえば今、久美子ちゃんと僕が「clubhouse」をやって話し始めたら、この会話を僕らのフォロワーが聴けるんです。で、話しているうちに話題が飛んで、小説の話になったとき、フォロワーに小説家のひとがいたら、手を上げてくれて、「じゃあ来てください」ってすぐ番組に呼べる、みたいな。それで話題がどんどん広がっていく。あと、知り合いだけじゃなく、たまたまそこにきた知らないひとも呼んで、みんなで話すこともできて。途中で退場することもできて。そういうサービスみたいです。

高橋:一見、ラジオの延長線な感じもします。こういうふうに水野くんと私が喋っていて、それをまわりでみなさんが聴いている感じは今と変わらない気もするんだけど。そこにまた新たに参加者が来て、予定外のことが起こっていくってことよね。ラジオはスタッフの方と一緒に「みんなでこういうものを作ろうね」って作っていくものなんだけど、「clubhouse」はそうじゃなくて、どんどんイレギュラーが起こっていく楽しさがあるんだ。

水野:ラジオとはコントロールのルールが全然違いますね。「clubhouse」は突然はじまることもあるし、そういうところがSNS的で楽に使えるというか。あとラジオは今、お車で聴いている方も、ご自宅で聴いている方も、お店でJ-WAVEが流れていて聴いている方もいると思うんですね。だから良い意味で聴き手を選べないというか。流れていて、リスナーが突然出会うみたいな。だけど「clubhouse」はSNS的な繋がりの中で、ちょっとクローズドにやる感じですかね。

高橋:クローズドだから、私なんかはお酒を呑みながら要らんことを喋っちゃうと思うんですよ(笑)。間違いなく。だからそれが恐ろしいなと思って。ちゃんと喋ることができたら、楽しいんじゃないかなぁ。

水野:で、規約上は録音とか文字起こしとかダメなんですよね。だからその中の会話が漏れないようにはなっているらしいんですよ。でも有名人の方とかが喋ったことって、やっぱり週刊誌の記者さんとかが書いちゃったり。そういう感じだから、ちょっとみんなもう敬遠していて。クローズドだと思うと、タガが外れてみたいなこともあると思うから難しいよね。Twitterとかは、どういうテンションで書いてる?

高橋:呑んだら書くな、書くなら呑むな。それをモットーにしていますね(笑)。

水野:(笑)。エッセイを書くときの文章ともまた違うじゃないですか。短文だし、気まぐれに書くものでもあると思うから。

高橋:なんかTwitterはいつもメモ代わりにしています。ツイートしていて「あー今、自分はこう思っているんだ」ってわかったりするんよね。だからそこから広げてエッセイとか小説にしようと思って、私はTwitterのメモから広がっていくんですよね。

水野:そっかー。もう本当、Twitterどうしようか困っちゃうんだよね。

高橋:え、本当? でも水野くんはいつも日常のこととか、制作で「今、煮詰まってる」とか書いていたりするよね。

水野:それぐらいしか書くことがないから(笑)。あと宣伝はたくさんしちゃうけど。Twitterは、ずっとやめどきを探していますね。

高橋:まぁなー…。でも気がついたら私、Twitter10年やっとるのよ。

水野:同じ(笑)。

高橋:10年って、もう「子ども10歳になってますよ!」って感じでしょう。だからTwitterと私は一緒に育っちゃったよと思って。28歳から38歳まで。そういう意味だと水野くんと同じかも。やめどきを探すし、このままずっとこれに縛られながら生きていくんだろうかって思ったりするし。

水野:たまにさ、Twitterで呟くとき、公になる言葉だからちょっと頭を捻らしたりするじゃない。で、呟いたら呟いたで良いんだけど、そのあとに「俺はこのためにこんなに時間を使って、何をやっているんだろう…」って(笑)。だったらこの労力を使ってメロディー考えたほうが良いなとか思ったりするんだよね。

高橋:本当にそう思うよ。この時間でちゃんとした、流れていかない文章を書いたほうが良いのに。どんどん身の切り売りというか、切り捨てというか、そういうことをしてしまっているんじゃないかって。なんか「文章を書くひとはTwitterとかしないほうが良い」っていうひともいるじゃないですか。ネタというか、書くタネを捨てているわけだから。でも、なんせ10年も経ってしまいましたからね(笑)。

水野:腐れ縁というかね(笑)。あと文体がTwitterで似てくるというかさ。よく言われることですけど、誹謗中傷とかのツイートって、アイコンだけ変えると誰が言っているかわからなくない? みんな同じような論理構成でさ。で、なんか自分もなんとなくTwitterの140文字に文体を合わせているのを感じるときがあって。それって、書くひとにとっては良くないなって。

高橋:そっかー、ホンマやね。140文字で完結するような文章に慣れていっているってことか。たしかにそうや。でも今後noteが流行り始めたりすると、何千文字ぐらいがいちばん読みやすいみたいな、みんなが飽きずに読める文章量が大事になってきたりね。でも今回の本は、タイのことを書いている文章だけで3万5000字。カンボジアで2万ぐらい。両方で5万字を超えてしまって、編集者さんが「いやー、高橋さん、これやらかしましたねー」って感じになっちゃって(笑)。やっぱりnoteとかの基準でいくと2000~3000字ぐらいが良いじゃないですか。なんかそういうのもありますね。読みやすい文字数とかって、書くときに気にする?

水野:いやー最近、気にしすぎるのは良くないなって思っているんですよね。noteではnoteのウケ方というか、型がある気がして。それに慣れすぎると、歌詞も文章も奪われていくなって。だから『HIROBA』もnoteからもう一回、撤退しようかなとも考えているんですよ。読まれるかどうかは別にして、文体を保つって大事だなって。筋肉のしなやかさというか。で、たしかに『旅を栖とす』を読むとき、いろんな場所に行くエッセイだから短い文が続いていくのかなって思ったんですけど、結構実が詰まっていて。でも多分、それがすごく良いんだよ。

高橋:そうなんですかね。ふり幅がありますよね。2~3万字のものもあれば、1500~2000字のものもある。この差はなんやねん、って思っていたんですけど。でも、これで良いんですよね。想いっていうのは不揃いなものなんですよ。

水野:本当にそう思います。さぁそして、僕らの会話もディレクターさんから「取れ高OKです」の指示がでましたね(笑)。いやぁ…、ちょっとなんかまた『HIROBA』にも来てください。いろいろ話したいです。

高橋:是非是非!なんかどんどん深堀していってしまうな。またいろんな話をしたい!

<プロフィール>

高橋久美子(たかはしくみこ)

作家、作詞家、詩人。チャットモンチーのドラマー・作詞家を経て、2012年より文筆家として活動。様々なアーティストへの歌詞提供、詩作、エッセイ、小説、絵本の執筆、絵本の翻訳、詩の朗読や、画家との詩×絵の展覧会など様々な表現活動を続けている。2021年1月に旅エッセイ集『旅を栖(すみか)とす』をKADOKAWAより刊行。携帯持たず、スーツケースとタクシー使わず、バックパックを背負って飛び込んだ世界の国々、10年を辿るエッセイ。4月に短編小説集『ぐるり』を筑摩書房より発売予定。

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Twitter
https://twitter.com/kumikon_drum

Text/Mio Ide(Uta-Net)

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