とれーにんぐ

大概の物事は簡単にこなせてしまうのが難癖であり、それが生涯の罪になるとは全くもって想像がつかなかった。
尽きない知的探究心が枯れるなんて一切思っていなかった、目を閉じていれば灰色の蝋燭がまた灯るだろうとさえ思っていた。
“当たり前“の背後には必ず情熱が影さえも落とさずに眠っており、自然現象と同じような姿形で私を支えていた。
しかし、身体中に毒が蔓延し出した頃から、蜘蛛の糸のように張り巡らされた炎が消え、絶望という名の壊れた私がそこに立っていた。
静寂を伝える月に手が届くわけがないだとか、ピアノを一度を弾いたことがない人間がベートーヴェンのような傑作を残せる訳がないだとか、煩いだけが取り柄の“愚“に負かされ、事実、枯れた。
飄々と書けていた文章でさえも、たった一つの隙間風で体制が崩れ、足速に才能とは何か?目を閉じることである苦行であるとさえ嗤われた。
小心者の私は納得しないと自分が自分でいられなく恐怖に平伏し、内心では否定するが、表面上では頷き、筆を折った。
ただ、筆には芯が残っている。
芯が残っているただその事実だけが、表情を繕った私に残された証明だった。
フェルマーの最終定理は生涯の夢が科学者ではない私にとっては遠い存在であるが、その難解が解けた際の喜びは多分等しくなるのだろうと心の中で思った。
やがて、時間が過ぎ、私の脳で囁く悪魔たちは寿命を迎え、すっかりといなくなった。
というよりも、悪魔たちは遊戯の虜になり、出口のない本当の迷路に迷い込んだというのが最適解である。
兎にも角にも、明日が最期かもしれないと毎日のように思い込んでいた私の視界は晴れ、今から田に稲を植えよう、水をまこう、収穫時期は春を迎えてからだというように新しい追い風が吹き始めた。
そして、私は一枚の絵に深々と頭を下げ、お礼を言った。
この世に神様が存在すると思い込んでいた私の無知に対する罪の期間と考えると随分とながく感じるが、人生の半分を怪物に食われたくらいで諦めかけていた執念の無さと見つめ合わなかったのだから仕方がないことである。
そして、私は半分に折れた筆を再び手に握り、目の前にある原稿に一心に書き綴った。
そこでもまだ自身の無知に対する戒めが残るが、これから先は有識になるために学者までとはいかないが、ぼんやりとした景色をくっきりと明るくし、色くらいは足せると誓い、それの証明にあたった。
体の足の先にでも眠っていたのか、その炎は肺を駆け巡り、熱となり、指先へと伝わった。
1000字。煎じ。二番煎じ。先駆者の後に続くように、二番手が駆け上がる様も格好がつく。つくつぼうし。神秘的な模様かつエメラルドが輝く様が何とも綺麗である。アルコール。コールダック。ダッキング。


私たちはより良い生活を求めれるあまりに科学技術の進化に対し賞賛しかしない。

というより、賞賛することが一番の人類の発展に貢献していると思い込んでいるからである。

また、私たちは忙しさのあまり、政治は国の責任だとか、個人は集団の責任だとか、思考のベースを“私“から違う対象へと責任転嫁する。

はっきり言って、人間は自分の身の回りにいる人たちと親密になって、幸福を相互に交換し合えれば何の問題もないし、それ以上は全体という規模の大きさに飲み込まれてしまうだけなので控えておくのが最適であり、間違いではない。

まずは国をつくるのではなく、村からつくる、誰がどう見ても思考の隔たりは感じないだろう。

ただ、その規模の小さなコミュニティだけでは、狭い視野でしか物事を考えられない状態に陥り、科学技術に対し、絶賛するだけの陳腐へと変貌を遂げてしまう。

猛暑の原因は温室効果ガス排出量の増加であるが、石炭、石油、天然ガスに携わる職業にでもつかない限り、異常気象は仕方がないの一言で方がつく。

気温が年々上昇を続けていき、日傘では赤外線から防御できなくなれば、宇宙服のように内部構造で体温の調整、冷却が可能な装置が必要になり、ロボットと人間が融合しない限り、生活するのは厳しいだろう。

私たちは日頃からリサイクルという言葉に強い期待を抱いているが、資源そのものが無くなってしまえば、待ち受けているのは絶滅である。

話を戻すと、科学技術そのものに対し、常に肯定的な態度で迎えてはいけない、少しは小さなコミュニティが抜け出し、関心を持つことが大切だあると言いたい。

科学で歴史的に解けない問題を解くのは科学者の弛みない探究心で尊敬に値するが、すでに人類が求めているより良い生活の水準を満たしていれば、レベル調整するのが務めではないだろうか。

村の人口が減少し、交通機関が遮断されてしまっている環境の場合は、山の麓から頂上へと物資を届けるレールのようなものが求められ、科学技術の発展が鍵だと思う。

つまり、充足している環境に対しては人情を軽視しないで欲しい。

また、真っ新な土地でもう一度、稲と向き合う環境があっても、歴史をなぞる境遇があったとしても、それも人類の多様化といえないだろうか。

2000字。


文章を書く際に心がけているのはなるべく無心に近い、自分への少しの過信を当てにすることである。

文字が踊るというと少し妖怪のような奇妙、不気味さが残るがそうではなく、一つのパフォーマンスである。

文字は馬鹿正直で真正面から向き合えば、連なった文章に全ての性格が現れ、粗雑さや、思考の範囲に至るまで影ひとつなく表現される。

人間は他人に褒められるとどこか恥ずかしく赤面してしまい、顔を両の手で塞ぎ、なんとか本心を隠そうとするが、文字は次元が異なるため可変が効かない。

笑うと表現すれば、その登場人物が何か嬉しい、喜ばしい出来事に遭遇し、微笑むといった場面が思いつく。

また、嗤うと表現すれば、その登場人物のねじ曲がった性格が浮き彫りになり、はらわたが煮えくり返る場面が思いつく。

まあ、正直、文筆家が愛してやまないレトリックという手法を好めば、この類は手品のようなパフォーマンスができるが、暗号化するまでの手間に比べたら、ストレートの方が手間が省ける。

よって、性格は文字そのものと一体化している。

その人自身の編集なしの著書を絶え間なく読んでいけば、その口調さえも理解できるし、思考さえもいやでも分かる。

幼少期から昆虫が好きなら、どの程度の知識や理解を持っていたのかも判る。(ここでは判明の判るである)

2500字。


彼女は占方を職業にしているみたいで、他人の不幸に対し親身に相談に乗り、今後の人生が花開くようにと助言している。

それにしても、私が相談している内容とは明後日の方向に向かい、ちんぷんかんんぷんな助言をしては微笑む。

私もそうすれば幸運になれるんですね。早速、試しに取り組んでみますというが、いきなり性格を変えることから始めるのは可笑しいというより、無理に近い。

社会を生き抜くためには辛抱強さが肝ですので、目をこう釣り上げて、いかにも威厳がありますよという風貌にし、性格は粗さがなく、品行方正に。

私は彼女に言われるがまま、性格を治す努力をするが、大雑把な性格が次第に増し、あれもこれもと手をつけては自爆する。

彼女は次の助言もまた、性格を治すことから始めましょう、そうすると朝が夜になりますよと言い、私は納得した。

朝が夜になるとは世紀の大発見であり、地球の回転を否定するものになると思ったが、よくよく考えてみれば、違う。

私は彼女に真相を尋ねたら、私はあなたの脆さであり、浅瀬であると答え、だから、表面上の問題に対し助言をしてあげたのだと。

どうせ、あなたはこの手品を見破るだろうし、面白みに欠けるから、揶揄うのはやめにしようとしたけど、いつまでも無知を威張るからわらってたようだ。

私は確実に浅瀬に一本取られ、次第に深淵が私の脳裏に近づいてきた。

ただ、深淵には宿木はないので、気をつけて進むように、そのためにはまずは性格を治すのが必要だとまた言われた。

私は彼女の言葉に失笑し、自分の存在の小ささに何もいえず、一歩足を深淵につからせた。

私は言葉の次が見えてきました。とだけ向こうの意識にいる彼女に伝えた。

3000字。いいね。最高に文章に身を委ねている。リズムを大切にするのはいいけど、後ろを振り返らないのは相変わらずだな。楽しくて仕方がないのがあの頃と変わらない。坂口安吾の堕落論に出会った時に生意気にも力量で負けたと思ったあの頃と。炎は枯れない。その証明だ。病になろうが、心が崩れようが、お前はお前だ。


散々書き綴った日記に見せかけた雑記では、下手な玩具のように音のならないピストルと同様、空洞である。

空洞と言っても、龍泉洞のような地底が青に輝き、一面を装飾するものではない。

本来なら、筆者が思う物語となり、血肉になるはずだが、極め付けになる味がなく、板状にのばしただけの呑気な唄である。

少し気分が高揚すると鼻歌をうたうのと全く同じである。

散々な目にあったせいで、言葉が窮屈になったのにも関わらず、まだ、書く行為をやめないのは鼻歌が生きているからであると、そう思いたい、願いたい。

3600

長い間、落語から離れて暮らしておりまして、見たくもない、聞きたくもない、反抗期ではないのですが、そういった青春を過ごしておりました。

心の内では心底落語を楽しんでおり、かの有名なパイポパイポと誰かが口ずさめば喜んで子供のように無邪気に笑っておりました。

思春期になると、落語はどこか大人が楽しむ娯楽と定義され、子供が好き好んで聴くものではないと、揶揄いの対象になってはゲームやらカードといった遊戯に合わせて遊んでおりました。

そして、友人たちと遊び終えると、静かに落語に浸り、これは親にも内緒で慕い、感心に満ち満ちていました。

まあ、こうやって落語を聞きにきてくれる皆さんがいるおかげで、私たちは冗漫といっても、縁起がないわけではありませんよ、成り立たせていただいております。

扇子だって、若者用語でセンスといって駄洒落を言うのではなく、風を咲かせる小道具なんです。

それじゃあ、もう時期日が暮れてしまいますので、落語を始めると致します。

あっという間に終わってしまっても、それは空間が止まったではない、感心で時間が消えたのであると証明したいと思います。

4000。何かきめ細かい文章の模様は見えてきましたか?まだ、見えていないのではあればあなたの語彙の無さと自惚れと決別すること。

あなたの神様はいません。そうとでも思わない限り、自分に甘く、弱い人間に逆戻りです。

あなたの心の目はまだ生きています。希望という光を見るために残されていたのです。

神様だって、いつまでも天上であなたの憂いを慰めて、雨を降らしている訳ではありません。

文章の音です。音を聴きなさい。


ミステリをコーヒーの味に例えるなら、苦味というのを強調しない限り、いつまでも階層のない白霧が身体が覆い隠す。

静けさで辺りが真っ暗になった頃、近所の田園では蟲達が騒がしく鳴き始めた。

この村ではとある言い伝えがある。

蟲達が騒がし鳴き出せば、あいつが来るという言い伝えである。

あいつとは、暗闇の中からひっそりと姿を現す、“目には見えない“悪魔である。

奴は首元に鎌を垂れ下げ、真っ暗闇で微笑む。

その正体は誰もが一度は願ったことのある、命と引き換えにした代償であり、かすり傷では生ぬるい戒律である。

私は身震いしながら、煩くなく蟲達の声を耳を塞ぎ遠ざけた。

虫音さえなければ、それはただの噂であり、偽りの幻想に過ぎない、つまり、仮初の悪魔に過ぎないと。

しかし、悪魔は私の思惑を上手く掻い潜り、地上にくっついた鎌の先端を微かな聴覚を通じ喜ばせた。

暫くすると、悪魔の持つ鎌の不気味な音が目の前まで近づいた。

私の眼中にははっきりと“悪魔“が映った。言い伝えの通り、姿形は見えないが、その人にしか見えない心が映し出された。

人間が鏡の前に立つと現れるもう一人の自分と表現した方が近しい。

悪魔は言葉が少しだけ喋れるようで、舌がもたつきながらもこう言った。

おめでとう。と少し皮肉まじりで、本心ではない明らかな失落。

私はその悪魔にもう大丈夫だからと言葉を返した。

5000

うまみのない食べ物を好き好んで食べるのは性に合わない。

なじみ深い、コクのある食べ物が大変好物である。

ぎょうざ、そうだ、ぎょうざ。

おいしいだけでなく、醤油、ラー油といった調味料と合わせれば

いっそ、旨みが増す。

しょうがと。


この世界に愛は存在するのでしょうか?私はどうも浮ついた心が遠い空の彼方へと浮遊しては消えていく、まるで、淡い呼吸のように思えて仕方がありません。

そうか、君は愛についての哲学の壁にぶつかっているんだね。君にとって良い機会ではないか。自然に触れようと思わなければ、いつまでも体をすり抜けていく風のように目には止まらないからね。とは言うものの、君は愛に対する偏見が人一倍強いようだね。酒場に入ってはいの一番に酒を飲み干し、空になった臆病を満たすためにもう一杯と重ねてしまう性格のようだ。君は真愛というのを知っているかい。

真愛ですか?初めて聞きました。生きている内にアンチテーゼの音楽がいつまでも駆け巡っているのかは分かりませんが、尊い何かですか?

そうだね。君はまだ本当の愛を知らないようだ。それに気がつかないのは周りが静かに見守っていくれているからだね。

ほら、あのテーブルの上にある林檎を真剣に見てみなさい。

最初は淡い凛とした皮しか見えないけど、芯の方へと向かえば向かうほどに甘くなっていく。確かに、時期が異なれば、苦い部分もあるだろうけど、本質は変わらないのさ。

何か小難しい話ですね。私にはさっぱり。というよりもまだ若いから、愛を理解するのが不十分なままで透明なのかな。

ははは。君は本当に面白い子だね。そうだね、私は単なる哲学しか語れないからね、それなら、君の彼女に真相を聞いてみるといい。彼女が一番君の本質を知ってると思うし、その花束は彼女に送るためのものだろ。

げっ。なんでもお見通しなんですね。

5500字。テーマの抽象度が高すぎると、アイデアまでの時間が長いというより、語彙の量が満ち足りない。フクロウ飼いたい。


誰でも心が壊れた二度と起き上がれないんだってさ

明後日の今頃、地球が無くなってしまう可能性だって零ではないんだって

目を閉じるのに慣れたら二度と深さを知るのは難しいだって

足が腫れたら遠い向こうへと歩いていくのは乏しいんだって

それって一体誰が決めたんだい

客観的に見て私を評価したかった

一体何様なのさ お釈迦様にでもなったつもりなの

私は自分なりの価値観を大切にしていつまでも文章と踊るのさ

発明だって、発見だって、発展だって、始まりがあるからなんでもできるのさ

他人はお金がなければ不幸せという

他人は自分が不幸だと他人の幸せを妬むのを習慣とする

くだらないね 本当にくだらない だったら私が幸せをたくさんの人に届けるよ

雨が降っても 嵐が鳴っても 雷が怒ったとしても

それが私の価値観だから 全くもって綺麗な価値観でしょ

6000 

私たちの世界では目に見えるもの、現象が限られており、その歴史的背景を追いながら体験するためには著者の経験そのものが大切になる。

おとぎの国を知りたいのなら、実際に迷路の中に迷い込んだ旅人の実体験が必要であり、一般的な価値観では絶対に知りえないのである。

これは後世でも同じことが言え、今の日本の現状は現地の人たちが総出で実体験を書き残していかなければ、浮世話のフィクションへと変化を遂げる。

恐らく、2100年の歴史の授業では、その当時の日本は急激な円安により、経済的なダメージを受けておりといったように生身のない授業が繰り広げらているだろう。

ただ、そこに“私たち“が介入すれば、「その当時の日本は生活的には厳しかったけど、新しい価値観の見直しになる良いきっかけをもらえた。だから、君たちの“今“書かれている歴史の事実は正しいけど、“経験“として引き継いでいかないといけないよ」という具合に会話にテイストを残すだろう。

私たちは現代に至るまでコミュニケーションを通じて、あらゆる物事の本質をオブラートに包み込んだまま、上塗りを重ねてきた。

しかし、経験だけは文字の上でずっと踊り続け、終いには疲れ果てて勢いを失う。

でも、そこにたった一つでも胸が躍る経験が現代と呼吸するように残されると、いつになっても色褪せない。

私はどんな人でも筆を握り、いくらでも来世に向けて書き残していくべきだと考える。

農家に従事している、医療に従事している、生活的に厳しい状況に強いられている、本当に誰でも信念さえあれば書き残すべきだと思う。

今に残る“経験“が多ければ多いほど、その当時の情景は色濃く、そして、根強く私たちの心の中でいつまでも呼吸を続けるだろう。

アブラゼミが鳴いただけでも、ちょっぴり懐かしい気持ちがするだとか、猫の鳴き声に胸をくすぐられるとか、そんな些細な出来事で良いのだろう。

今を楽しむとはそう意味合いもあるだと、未熟ながらも私はそう思います。

7000

私には天賦の才能はないけれど

誰よりも詩を大切にこれからも生きていくことを誓います

もしも、他人に嗤われるようなことがあれば

私の詩を愛する気持ちの未熟さを改め、より詩に磨きをかけます


それしても、今の人たちは生活的にも窮地に陥ることがないから(まあ、それなりに知恵は必要だけど)現代に絶望するか、安心だと思い込むだろうな。

本当の話をすると、人間は悟りを開くためには無欲になれというけど、欲はほどほどに残しておかないと、現実に打ちのめされて二度と起き上がれなくなる。

多分、言われても共感してもらえるのはほんのひと握りだし、それが実際に起こりうる確率は稀なんだろう。

両親が優しい人でいつでも本がある環境でしたという人もいれば

本もなく活字とは疎遠でしたという人もいる

遺伝という言葉に惑わされて、本来の自分を見失ってしまった輩もいる

周りの変化を期待していても、変わらない出来事、変わる出来事の二つに分類されるのも気がつかないふりに長けているからとごまかす

まあ、自分はそこまで誰にでもなりふり優しい性格ではないので、正直、知ったこっちゃないけど、誰でも必ず誰かに“必要“とされていることに気がつかないのは使命から目を背けている事実だと思う。

まあ、知らんけど。

7500

かつて、若かりし頃の彼女の心は正義で満ちており、誰にでも優しいそういう聖母のような人でした。

しかし、その彼女を良く思わない悪人たちは彼女から多額のお金を借りてはどこか遠くの土地へと逃げてしまいました。

そして、彼女は正義とは何か?優しさとは何か?について深く学び始めました。

彼女の結論はこうです。

正義とは悪とは何かを理非するための物差しである、優しさとは他人を守るため、救うための手段であると。

少し余談にはなりますが、アンチヒーローって正義だと思いますか?それとも、悪だと思いますか?

アンチヒーローの定義は人それぞれですが、少なくとも、その人のおかげで人が救われるならその人は紛れもないヒーローだと私は思います。

“アンチ“の定義は、正方向とは真逆だけれども、目的は優しさの裏返し。

正直者が馬鹿を見る世界の前に、正直者が多い世界を作り上げていくのが普通。

7800

今の現状に対し、何も違和感を感じない、それどころか目を向けない能力を磨いている人を度々見かける。

ただ、その機会が年々増えていってしまい、最終的には容量を超えてしまう。

例えば、令和元年に行われた参議院選挙の投票率は国民の半数を割っており、政治に対しわざと目を向けないように自然的な工夫?をしている。

よく、メディア報道で今の日本の政治は“ヤバイ“と言われているが、その基準は全て個人で作り上げたものではなく、無意識の内にメディアに侵食された第二の自分が作り上げた一層下の基準である。

つまり、この一層下の基準を無意識の内に作り上げているのが物事の関心の欠如である。

仮に、自分の身の回りの人たちを幸福にするために、関心事のサイズを小さくするためには、どれだけ“日常“に対して違和感を感じずにいられるかであるが、(空っぽさと置き換えても良い)時間が経つにつれて、その輪郭はぼやけ続け、終いには単語すらも見失う。

もし、その“単語“が私たちの身の回りで起こる幸せであれば、尚更、本当の幸せに気がつくのは難しくなり、恐らく、気づかない人は“気づかない“無意識の内に消えてなくなってしまう。

人生の中で一番大切なのは、人生の中で一番素晴らしい記憶を作ることである。

ただ、その総集編は決して人生の中で完結はしないけれど、“アップデート“(多分、思考の次に大切なワード。人生という大カテゴリーの中で)の最終地点の量は見えてくる。

はっきりいって、辛い経験はアップデート、または二度目の災難にあわないようにするために必要だけど、本当に逃げたくなるくらい辛い経験は全く必要ない。

だって、そもそもの環境が悪く、その非を自分に向けなくてはいけないのは誰がどう考えてもとち狂っている。

どこかの俳優、女優の結婚報道とか、味気のないエンタメくらい不必要。職業上、そのエンタメについて発信しているだけ。

8500

私の性格上、他人が草臥れた話をした際には、直ぐに気持ちにあぐらをかき、いつ頃会話が終わるのやらと心底意地悪そうに待っている。

勿論、私の顔には一切そのような表現は見せず、時折、こくりと頷いてみせたり、相槌を打ったりとやたら愛想は良い方である。

ただ、他人が会話の途中で息継ぎをした際には、隙あらばと、欠伸をし、少し目線を上に向け、心に察しがつかないように気分転換していた。

お前、俺の話を聞いているのか?でな、うちの家内、その時、なんて言ったと思うと友人が矢継ぎ早に言うので、そうだなと考えた素振りをし、それはお前が一番知っているんだから、質問なんかにせず、教えてくれよと上手く会話を返した。

道中の明かりが大分暗くなってきた頃、友人の会話にも終わりの兆しが見え始め、私も昼頃に食べた物が随分と胃の中で消化されてきたので、仕切りにお腹をさすって見せ、友人がもう夕飯時だな、明日、続きの話をしてやると言い残し、私の前から糸を切るようにすっと居なくなった。

昔から、人に関心がないというか、他人に気持ちを合わせるのがあまり得意な方ではないので、その性分、他人とのぶつかり合いが多く、日常茶飯事のように喧嘩が絶えず、今の友人は大分気を許せる仲なので、それは起こらないが、どうも過去の猛毒とやらの効果は引き続いてしまい、もしも、友人の観察眼が私の心の内をすっかりと明かしたものなら、気が離れてしまうかもしれないが、今の所はいくらか安心は残っていた。

私の昔からの性格は少しだけ時空のように歪んでいるだけ、まあ、これを個性とでも呼ぼうという、半ば強制的な解釈の一路であり、現代と調和していないのも十分なほど理解しているので、明日から変えよう、来年から変えようと思っているが、雑多な世の中から目を背ける技術には乏しく、それは難しい、というより、そう思えば歪んだ性格を認められるとさえ考えてしまい、いつまでも既知に縛られる情けない放浪者であった。

よく書物の中では、性格はそう簡単には変えることは難しいけれど、歯磨きのように習慣化してしまえば、眩むと書かれており、その真相を確かめるべくやってみるが長続きはせず、自身の性格の有り難さにあぐらをかく始末に絶賛するのを繰り返す、仮に地から天井まで続く螺旋階段があったとしたら、その入り口と出口は常に繋がっており、配管のような役割をし、まあ、という言葉で片付けてしまうだろう。

私は重たい腰を上げ、目元に残る隈を手のひらでなぞり、読書に耽った。

大好物な文章はやっぱりゆったりとした、作者の意図がなければ野蛮な行為そのものと非難されてしまう、一挙手一投足繋がる文章。

当然、文章の一文ごとに適量は存在し、相手に伝えるのためには文章の間で息継ぎをしてもらうのが万人受けする文章。

それは理解できるけど、仮に、一文に大事な要素が所狭しと詰め込まれていたら、一切、途絶えずに、間髪入れずに“描き続けている“のが良い文章だと私は思う。

人間の動作で例えると、両方の手の手指を絡ませて、一、二回間節のあたりでストレッチをし、グーっと空に向けて手を伸ばす。

文章の密度と理解の密度は2:1くらいで、なるべく細かく描く。






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