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薄い文量の本を卒業する

広辞苑ほどのボリュームのある本は普段の生活において敬遠しがちである。

それもそのはずで、分厚い本を読み終えるためには膨大な時間がかかり、かといって生きていく上での絶対的な血肉ではないので、実用性は極めて低い。

また、近頃ではタイムパフォーマンスを重視する学生が流行り、なるべく時短でスキルを身につけるのが主流となっている。

時間がかかってしまう本は彼らにとってはリスクそのものであり、それを回避するためにSNS、YouTubeといった媒体がマジョリティに支持されるようになった。

YouTubeでは通常動画を2倍速で視聴できたり、文字起こし機能を活用すれば、自身の知りたい情報に一発で飛ぶことができるようになった。

また、TikTokのようなSNSを活用すれば、情報量は少なくても、要点の上辺だけは知ることができるようになり、それで満足なら深い教養を身につけなくても実生活においては何ら支障は無い。

しかし、情報には絶対値というのが存在し、その文量を自身の都合に合わせて調整することはできない。

もしもハリポッターの簡略版があったとしたら、ハリーがいきなりジニーと結婚している結末になり、読者は混乱するだろう。

よく書店に並べらている新刊の本の大半は、ジャンルにおける一部のエッセンスだけを取り扱い、平たい表現で引き伸ばしをしている。

それがようは薄い本の特徴である。

確かに、タイムパフォーマンスを重視する人にとっては、なるべく薄い文量の方が手頃で読みやすくて良いが、ただそれに満足してしまうと、深い教養というのは絶対に身につかず、そのジャンルについて決して精通はしない。

読書の入り口としては薄い本でも構わないが、いつまでも入り口の周辺で右往左往せず、そのジャンルにおける分厚い本(≒専門書、辞典)に移行し、深い教養を身に付けるのが賢いだろう。

薄い本を卒業するというのは、新しい知見の開拓でもあるので、例え、時間がかかったとしても読んでおいて別に損はないと思います。


トレーニング

周りからしがない詩を書くと評判の少年は、いつの頃からか他人の目を意識した内容の詩のみを書くようになり、虚無の世界とは何かという真理と向き合い、口を噤み、両手で目を閉じるのが日常になっていた。

だから、その少年の目の前はいつも真っ暗で、いくら指先が太陽に触れたとしても焦がれて燃え尽きてしまった。

その彼の書いた詩は愛想笑いが得意になり、混在する色の中でも取り分け馴染み易い白で周りの調律と溶け合い不穏を奏でた。

その音は金切り声に近いが、特定の人にとっては心地よいといった二律背反が起き、少年もまたそれが嬉しいと錯覚しなければいけなかった。

その少年はふと目の前に神様が降り注ぐと、丁寧なお辞儀をし、教えを乞いた。

すると、神様は目を覆っていた両手を剥がし、もう一つの目を彼に授けた。

ただ、その目はプツリと針を刺せる程度の小ささで目というよりかは小さな虚な穴であった。

そして、神様はこれを暗闇と呼びなさいと言い残し、彼の眼の前から去っていった。

その日から、彼の詩は生き生きとし始め、童心という本来の素直さが蘇り、周りに流されないようになり、希望は両目で見て初めて理解するものだと悟った。



かつての栄光というのは難しいほどに絡み合い、いつまでも迷宮の中に閉じこもっては胃の中で消化されない堅物のように居座り、遅滞し、目を暗くさせる。

私もその一人であり、捩れた性格ではいつまでも気が付かないのが性であると言い訳を繰り返し、見ないふりをし、夜の帳を引き伸ばした。

地上に足がついているのなら、いつか飛べると信じているダチョウではないが、信心を曇らせないためには地上を走るのが好ましいのだろうというのが栄光に縋る思いである。

「言葉というのは、呼吸のように吐いて、吸ってを繰り返して、はじめて旋律が奏でられる。また、綺麗な言葉を使えば、いくら澱んだ川でもさえも潤し、土砂で埋まった道でさえも開拓できる。それと反対に、汚い言葉を使う者は、自身の臆病を隠し、他人に当たり、邪気と常に睨めっこする悪魔と化する。だから、私は言葉には霊が宿ると思っており、そ



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