10/25の夜のフリートーク

こんばんは。
Hiro_Matsunoです。
うーん🤔。
やっちまったなぁ。

今日の反省点

これは考えては行けないことなんだけど難関をどう乗り越えるかという局面について明日3分間スピーチをやる気になった。
そうあの難局の話をしようと思っている。
ADITと言う難局。
これにゃ悩まされたわ。
本当に日本にある外国状態だった。
この話をすることにした。
本当に辛かったんだよね。
英語地獄。
今日は何事もなかったのでこれを書いているんだが。
本当に難局だった。
下手な英語は書けないしピンチの連続だった。
やっとわかってきたのは最終月の7月だった。
本当はアドバイザーとして入ったのに何故かいることになってしまってたというお話。
Linuxが詳しく経って組み込み系は詳しくないのが俺の最大の弱点だった。
いわゆる情報不足による著しい欠如があったのだ。
車の場合はセンサー類やエンジン関係全てがカーナビで表示できるようになっている。
だからこその地獄があるのだ。
その上基板のファームの書き換えのマニュアルもビルドのためのマニュアルも全て英語という過酷さがあった。
英語読解ができなければ生きていけないところでの仕事をやっていたのだ。
毎日が覚えなきゃ行けないことの連続で俺が名古屋に戻った頃にもう1人犠牲が出ていた。
まぁ、あの現場ははっきり言って車の何もかもがわかっていないと務まらない現場だったのだ。
最終的には気が滅入ってしまっていたのは電車に乗るまでは気が抜けないというところだった。
帰りもデバッカーのインドの方と帰る時もあったのだ。
ほっとしたのは刈谷駅からJRの電車の中が多かった。
あの出来事は触れたくないと思ったけどこれが一番つらかったことだった。
これが仕事をしていたおかげでハイブリット車の電源流用を思いついたのだ。
結局はこのつらかった仕事が何かの役には立ったということにもなる。

過酷な職場で生き抜くのは息抜きが必要

土日はほとんどどこも行かずにただ黙々と考えあぐんでいたわけではないと言っておく。
抜け出すにはどんどん逆に外に出てハッカソンとかワークショップに参加していたのだ。
そこで自分のできなかったことをして発散するしか方法がなかったのだ。
その頃は過酷でも難局を乗り切ろうとしていたこと。
でもね。
結局これが最終的には仇となったのよ。
最後の現場ではやっぱり組み込み系に行ってしまったのだ。
組み込み系の怖さを知っていたんだが期待されてしまい1人で頑張れになって孤立無縁に近い状態になってしまったのだ。
放っておけばいいなんて相手も思っていないのは分かっていたんだけど新しいものが大好きな先輩だったので何も聞けず自分でコツコツやるしかなかったのだ。
疲労は蓄積するし考えることができなくなったのも4月の中旬くらいかな。
ホント怖かった。
今まですごい能力を持った人間が一気に落ちるところまで落ちたのだ。
自分でも信じられなかったのだ。
息を抜けない職場で働くと自然とこうなる場合が多い。
だから言えることは息を抜くことが時には大切ってことだと思う。

本当に戻ってからの4年間は過酷だった。
行く先々でいろんなことが起きるし迷うことが多かった気がする。
正直いうと最初っからPHPとHTML5が得意ということをもっとアピールするべきだったと今は思っている。
HTML5の先頭切って走っていた頃の方がまだ楽だったのだ。
組み込み系に行った時は本当に苦労の連続で毎日が嫌だった。
特にADITの現場では英語地獄と組み込み系の合わせ技には相当苦労していた。
思い出そうとしても断片的なのだ。
それだけ苦労したからこそハイブリット車の話ができるのだ。
デンソーって日本のほとんどの車メーカーに納入しているからね。
しかもADITの苦労ってボッシュとデンソーの合弁だったからさらに難易度が上がっているのだ。
ありゃ本当に参っていた。
今でもあの苦労は思い出そうとしてもなかなか思い出せないことが多い。
でも精神崩壊まではいかなかったのは幸いだった。
苦労の連続でも疲弊しても仲間がいたから救いがあったんだと思う。
本当に苦痛だったなぁ。
今から思い出しても思い出すことができないんだからなぁ。

Hiro_Matsunoでした。

また、明日。

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