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牧之原の生産者がどこよりも美味しいお茶を作り続けるために

 皆さん、トゲルです。前月は投稿できなかったので、少し時間が開いてしまいましたが、お元気でしたか~。

 昨年の3月1日に初めてブドウやナシを育種された芦川さんの記事を出してから1年が過ぎました。これまで22人の育種体験記事を投稿し、4月初めまでに1万人を超えるビュー、千人を超えるスキをもらうことができました。

 振り返れば、情熱をもって新品種育成の夢に向かって努力する育成者を励まし、多くの皆さんにその姿を知ってもらおうと始めた投稿ですが、普通の人にはほどんど馴染みのない育種の取組みを書いても、読んでくれる人が果たしているかとの不安をもってのスタートでした。

 しかし、昨年の夏以降から徐々に読んでくださる皆さんが増加し、育種家の情熱を感じた等のコメントを多くいただき、それを文字にして紹介する私にまで暖かいコメントが届くようになったことを、大変にうれしく思っています。
 読んでくださった皆様、スキやフォローをくださった皆様、コメントをくださった皆様等に御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 育種家の減少、高齢化が進んではおりますが、育種に努力した体験を語ってくださる育種家の皆さんがいる限り、記事を書き進めようと思っていますので、今後もよろしくお願いいたします。

 今回は、茶処静岡の旧金谷町(現在は合併して島田市)で代々茶農家として地元の生産者のために奮闘されてきて、先日82歳となられた水野昭南さんを紹介します。

 牧之原大地の茶の歴史、島田市の集中豪雨被害(1960年)の復旧に携わったこと、「やぶきた」(栽培面積が最も多い茶品種)の苗20万本の生産に取り組んだこと、新たな5品種を開発したこと、茶産地の維持・発展への思い等、幅広い内容となったので、記事を2回に分けることとしました。

 今回はその1として、地元農家に「やぶきた」の生産を普及させるための苗の大量生産を行ったこと等を紹介します。
 数日後に投稿するその2には、「やぶきた」の後継候補にしようと5品種を育成を行ったことを紹介する予定です。

 茶の育種だけでなく、牧之原の産地のこと、茶の生産・流通に関することを知れる内容となっていますので、それぞれ長い記事ではありますが、ぜひ最後まで読んでくださいますよう、お願いいたします。

(その1)

「やぶきた」の大苗を生産し、850ha分の改植を推進する


話し手  水野昭南さん

 ❒茶農家の中心者だった父は、地域から慕われた茶の教師
 江戸時代の東海道の宿場町であった大井川の両岸に位置する島田市、その大井川の西側の旧金谷町の地域で、お茶とサンチュなどの葉物野菜を生産している水野昭南です。

 ぼくの名前は「しょうなん」と読むんですよ。1942年(昭和17年)に日本が占領したシンガポールのある島の名前なんです。僕は6人兄弟の上から3人目、次男で生まれました。

 島田市、牧之原市、菊川市にまたがる牧之原台地は、我が国有数のお茶の産地として知られています。ぼくの親父も茶の農家でした。農協の組合長で、僕が小学校3年生のころには、もう組合長をやってましたね。我が家の茶畑は、山を開墾して開いたりした1.8ha程の広さでした。
 牧之原大地に広がる茶園も松林、赤松の小さいのが生えていた痩せ山を勝海舟などの命によって、開墾して作られたんですよ。気候や土質が茶に向いていたんですよ。

 

❒牧之原での茶栽培の歴史
 僕と茶のかかわりを話す前に、牧之原台地で茶が作られるようになった歴史のことに触れておきますね。明治に行われた牧之原開拓は、武士や大井川の川越人足を救済するためにやったんです。

 大井川は、江戸を防衛するために橋を架けることが禁止されていたんですね。だから、旅人を向こう岸に渡す川越人足がいたんです。江戸時代が終わると武士もその川越人足も仕事が無くなりましたから、それらの衆が開拓についたんですよ。

 大規模な開発をやって茶の生産拡大をしたのには、当時茶が生糸と並ぶ重要な輸出品だったこともあるんですね。明治15年には、我が国の生産量の82%がアメリカ等に輸出されたと聞きましたよ。

 当時の茶園は、今のように一列に並べて作っていないので、一本一本が丸くなって、畑の空間が広くてね。茶の実を拾って植えたんですよ。実を蒔くと収穫できるまで10年(今は8年)かかったんです。僕も小さいときは、小遣い稼ぎに茶の実を拾って売ったんですよ。

 うちの先祖は、開拓前からお茶を作っていたんで、牧之原に開拓に入った武士に茶の作り方を教えたんです。武士は金勘定もあまり知らないので、刀を抜いては「ちゃんと教えろ」と脅かすので怖かったと親父から聞きましたね。古い話はこのくらいにして、昭和の時代に戻りましょうや。
 
 ❒高校では、自分がお茶の作り方を教える

 ぼくら兄弟は、小さいときからとにかく農作業を手伝わされました。ぼくは小笠農業高校に行ったんだけど、そこではお茶の専門教科もあったですね。ぼくの父親が茶の品評会で優等賞を取ったりしていたんで、先生から言われてぼくがお茶の作り方などを教えさせられたんです。

 1961年(昭和36年)に高校を出て川崎市にある実験器具を販売する会社に努めたんですけど、給料も安く1年で辞めて実家に戻りました。
 
 ❒島田市役所に入り、不慣れな災害復旧の仕事をする
 そしたら、世話になっていた身内のおばさんの旦那に島田市役所勤務を勧められて、19歳で島田市役所に入ったんです。

 島田市では、1960年(昭和35年)に集中豪雨で山津波が起きて、ほとんどの川が氾濫する災害が起きていたんですね。それで、小笠高校を出たんだから農業土木のことがわかるだろうと、土地改良課で災害復旧の仕事をやらされることになったんですよ。
 専門職だから、災害が片付くまではいなくてはいけないと言われて、やりたい仕事ではなかったんですが、砂防ダムやそこまで行く道を作ったり、田畑を元通りに直したりしました。
 7年間が経ち、大平(今は山女平)まで、バスが通れる道が引かれたんで、好きな仕事でなかったから1969年(昭和44年)に市役所を辞めたんですよ。
 
 ❒妻の実家で「やぶきた」に改植するが、義父に反対されて実家に戻る
 その後、1969年(昭和44年)に大石さんという茶農家の娘と結婚して婿に入ったんです。

 その茶園に自分で作った苗を植えていったんですが、鉄分が多くて水はけが悪いんですよ。排水管を植えて改植をしました。枯れることもあったんで、試験場の先生に見て意見をもらったりもしてね。そうしたら、うまくいくようになったんです。

 でも、家内の父親は、これまでの在来種から「やぶきた」に改植するのに反対したんです。自分がやってきたことを打ち消されるのが嫌だったんですかね。休みもとらず、業者に頼みブルドーザーで起こして改植したし、作道もどんどん作りましたからね。父親は自分についてきて来ないので、面白くなかったんでしょうね。拗ねて1か月も親戚の家に泊りに行っちゃったんですよ。

 大石さんの家は農家としても大きいし、もんでいる茶も早かったんですけどね。でも、大石さんから頼まれてした結婚のことまで言われたので、実家に戻ってきたんです。その時に女房と娘だけでなく、その母親まで水野の実家について来たのには驚きましたけどね。

 帰ってきたら、実家にいた兄さんには良い顔をされなかったですね。でも、家の中の全てを親父が握っていたんで、家内には苦労をかけたけど、何とか暮らすことができたんですよ。

 「やぶきた」に改植したのは、在来種が千円なのに「やぶきた」は5千円~1万円もしてましたからね。いくら茶商が欲しがっても、「やぶきた」は在庫がないんで高価格になったんです。だから、農家は皆が必死に改植したんですよ。
 
 ❒「やぶきた」の育苗担当者となり、850ha分の苗を生産して改植を推進する
 大石家からに戻った私は、役場に勤めるように言われて金谷町の職員となり、農政の仕事に就いていました。そしたら、町長が「大井川の河川敷でやぶきたの大苗育苗をしよう」と言い出したんですよ。

 どの程度の金がかかるか、設計を組んで測量して起こして、土を入れて1町歩(1ha)の圃場を作ったんです。その金が750万円位かかったんだったかな。町長にそれを話したらOKのハンコを押して、その圃場での育苗を誰が担当するかということになって、親父が金谷の振興会の会長もしているんだから息子が良いと、私に白羽の矢が当たっちゃって引き受けることになったんです。

 そこで、「やぶきた」を作っている処から1年生の苗を買ってきて、2年間植えた3年生苗を20万本育てて販売し、金谷町での改植をどんどん進めていったんです。そしたら、始めの年は7百万円位の金がかかったんですけど、次の年からはかかった金が少なくなり、5百万円程になったんですね。
 苗の値段は、1本当たり50円で売ったんですけど、50円で20万本売ると1千万になりますから、儲かるようになっちゃったんです。1年黒字になったら、次の年からはずっと黒字になるんですね。茶農家は在来種を作ってたけど、「やぶきた」でなければ儲からないからって改植を進めていましたからね。

 ぼくがやった大苗育苗は、1973年(昭和48年)に設計を組んで、翌年から生産を続けていたんですが、1年目は3百万、2年目からは5百万づつ儲けが出るんですよ。

 それを3~4年続けていたら、町長から「行政では、黒字になるのは困るんだ」と言われたんです。ぼくは、「黒字でもいいじゃないですか」と言ったんですけど、「何かしなくてはいけない」と町長が言うので、「それなら、改植した農家はやぶきたが売れるようになるまで何年もかかるから、改植者に補助金を出しましょう」と言って、補助金制度が作られたんです。

 だから、金谷町の農家はどんどん「やぶきた」に植え変えることができ、それが全国に波及したんです。「やぶきた」がこんなに増えるようになった発端は、ぼくらがやったからなんですよ。

 でも、作った三年生の大苗は、それまでに出た根を切ってしまっているんで30年~40年ほどしか持たないんですね。それで、ぼくはできた苗を売るときに、「この苗を植え変える時までには、自分が新しい品種を作るからね」農家に話して苗を渡したんですよ。

 大苗育苗は大井川の河川敷でやったんですが、台風の時に水が来たけど、全然流されなかったですね。若い苗は吸収力が強いですから、1年経つと土が駄目になっちゃうんですけど、ブルドーザーなどで二段起こしすることを教えたんです。だから、ずっと失敗なく続けることができたんですよ。

 育苗の担当者になった後に、20人ほどいた農業青年を集めて改植するように進めたんですけど、15年行う育苗の計画が補助制度もできたので、皆が一生懸命協力してくれたから9年で終わることができたんです。それで、ぼくも金谷の役場を辞めちゃったんです。
 
 ❒茶葉を湯通しする実証試験を行う
 その後の5年間は、ぼくが考えた茶の湯通し設計と分析をやってくれた紀文の研究室に通って、勉強しました。湯通し機械の設計をやって、機械を作ってくれたんです。

 茶には空気中の浮遊物等の汚れがひどいので、湯通しすればきれいになりますよ。蒸気で蒸す方法は、茶葉への蒸気に当たり方が均等に当たらない欠点があるけど、湯につければその心配はないんですからね。
 でも、湯通しは機械を作るのが大変ですし、金がかかるから、普及させるのは大変です。

茶葉の湯通し洗浄

 ❒水田にハウスを建ててわさび作りをするも、単価を下げられて断念する
 紀文に通った5年が過ぎた後に、湯通しには値打ちがあるとわかったんで、1989年(平成元年)から始めたわさび作りに力を注ぎました。お茶は、やってるのが試験だけだし、全然金になっていないからね。

 農家は、生産物を売って金を稼ぐのが本来ですよ。だから、茶の作り方を教えるだけで、金を取るわけにはいかないもんね。他の物を作って稼いだ金と年金で何とか生活しようとしてきたんですよ。

 わさび漬けなどを静岡駅で売っているたまり屋の社長が金を出してくれたんで、稲を作らない水田を60aほど借りてハウスを建てたんです。こっちが設計を組んでやってるからわさびの単価も良くて、借りた金も返せたんですけど、20年行った後に社長が亡くなるとガーっと単価を下げられちゃったんで、やれなくなって辞めちゃったんです。
 
 ❒サンチュの生産を始め、自分で値段をつけて静鉄スーパーに出荷
 わさびをやめて2003年(平成15年)からは、焼肉を巻いて食べるサンチュっていう葉っぱがあるでしょ。それを始めました。
 ぼくがわさびをやっているときも、女房達はサンチュを作って、農協に出荷してたんです。1パック80円で1ケースに10パック入れて、100ケースづつ出していたんですけど、わずかのうちに80円を4分の1の20円にされちゃったんです。それでも、ぼくはしばらくは農協に出していたんですけどね。

 でも最近は、農家が自分の名前を付けて販売できる道の駅なんかが出てきたでしょ。「これは面白い」って思ってる頃、静岡に静鉄スーパーというのが40カ所位できたんですね。スーパーを始めるときにバイヤーが静農会というグループを作りたいと言ってきたんで、2014年(平成26年)にその1期生になったんです。

 今は千人位の会員になっていますが、それぞれがそこにしかない良い物を作ろうということで取り組んでいるんですよ。バナナなんかの箱でもいいから詰めて、自分で出したものに値段をつけれるんで、張り合いがあるんですよ。箱に詰めて、14のスーパーに卸してるんです。サンチュを売った金に年金をプラスすれば、何とか生活していけますのでね。

 サンチュの栽培は、夏は1か月位しかもたないけど、冬は4か月位もつんですよ。ずっと下の葉っぱを採っていくだけで、どんどん上にも伸びていくから、何回も採れますしね。

 でもハウスで栽培するときは、わさびのように平面積のものは、値段を高くしないと合わないんです。
 垂直栽培といって、エンドウとか、ソラマメ、トマトとかは上に伸びていく分だけ儲かるわけだけど、平面積のものは1回で終わってしまうわけです。だから、うんと値段を高くしないと合わないっていうんです。

 サンチュは冬の作物なのに、皆は夏に焼肉を食べるんで生産者は困るんですよ。ハハハハ。今、自分が作っているもので金にしてるのは、サンチュとわずかの葉物野菜だけです。
 
 ❒1度植物が吸ったリン酸を利用して、土中にリン酸が残るのを回避
 最近思うことは、お茶でも野菜でも、硬くなったですね。歯が悪くなったんで硬く感じるという感覚じゃないんですよ。甘いのはいいけど、生で嚙んでも野菜が硬いんだね。
 空気中にカリ成分が舞いすぎていて、両面散布的に付着していってるんですよ。セシウムだってカリですからね。

 お茶にとっては、肥料による環境汚染も大きい問題ですね。硝酸態窒素が増えて、飲むと髄膜炎を起こすってことだったけどね。

 お茶の味にはタンパク質が重要だから、肥料を少なくすると味が落ちてくるんですよ。それを有機態窒素にするかだけどね。昔はどこの農家にも牛や豚がいたので、それで農作物の肥料を結構補っていたんですよ。だからすごくできたし、一番早くできた化学肥料がアンモニア、それしかないのでおいしかったんですよ。
 最近は口に入らない数の子、魚のえさにする小さい海老やイワシとかが畑に入っていたんだ。カイコの糞、さなぎのカスなどの効果が高かったんだよね。カイコカスの窒素成分は魚カスの1.5倍あるからね。カイコは桑という植物成分を食べてるからまともに肥料として効きますからね。

 ぼくの場合はリン酸を高くしても、化学肥料などのリン酸は高くないんです。植物が一度吸ったリン酸なので土中にリン酸が残らないんですよ。化学肥料だと残っちゃうんですね。リン酸は、チリだとかその辺の鳥の糞ですよ。鳥の糞より、肉カスとか骨粉等の方が効果が高いんですね。
                         (その2に続く)
 
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