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Image note:01 毘沙門天-Buddhist God of Wealth and Virtue.

はじめに

 はじめましてからだいぶ時間が空いてしまったけれども、ぼちぼちマイペースに投稿していきたいと思う。
 今回から少しずつ、自分が描いた創作物やYouTubeで挙げている動画の制作秘話(というが大層なものではないのは先に忠告しておく)やらを日付順不同で投げていこうと思う。
(煽りレベル1)
 普段本を読むのは地球の自転を一周するカタツムリくらい遅いが4コマ漫画なら速読よりも早く読めるんじゃないかレベルと言っても過言ではない小生。(笑えないゆとり世代の典型)
 文を嗜めるなんていうことは現代文平均3の私にとっては朝飯と昼飯と夕飯のあとの夜食のカップ麺くらいハードルが高い。(意味不明)
 好きな文学?『走れメロス』かな。
とかいうレベルである。
 そんな私が唯一続けられた趣味というのは絵を描くということくらいである。
小学生の頃から始めて高校3年の夏休み前に引退した部活(聞こえはいいがいわゆる青春っぽいことをしたくて堪らなくて辞めたと言って良いくらい理由はしょうもない)よりも遥かに長い。
とはいえ何かの賞を得たことがあるわけでは無いから大したことは無い笑
 そんなことよりも早く何がしたいのか言い給えの諸君…。いや、画面越しの皆さま。
まずはこの動画を観ていただきたい。

なぜ毘沙門天を描いたのか?

 毘沙門天(びしゃもんてん)とは、『戦いの神、勝利の神』といわれている。
 その姿は全身に鎧(よろい)を纏(まと)い片手に武器の宝棒(ほうぼう)を持ち、もう片方には仏舎利(ぶっしゃり)という宝が収められた宝塔(ほうとう)という箱を持った神様である。
まさに武人、勇猛果敢(ゆうもうかかん)なイメージの神様である。
 一見すると非情で何か常に怒りを表した怖い表情をしているが『財福をもたらす』神様や、疫病を祓(はら)い『無病息災』を願う神様だったりする。
 人は見かけによってはいけないということと、本当の優しさとは厳しさの中に本質があるということを教えてくださるしっかり優しい神様である(失礼極まりない捉え方で失礼しました)。
という稚拙(ちせつ)な紹介はさておき(後でしっかりと心から謝りました)。
 本題はなぜそんな神様を描こうと思ったのか?ということである。
振り返ること2020年の初頭よりコロナ禍が世界で猛威を振るう最中の2021年8月下旬頃。
 やっと未曾有のウイルスに対しての抗体が打ち終わりしばらく経った頃だ。
 少しだけ気持ちの中でほっと安心した束の間、何か湧き立つような何かわからないが、『今それを描かなければならない!』
という気持ちに駆られた。
 絵というのはお題を決めてイメージを膨らませる為しっかり記述や資料などを見たり読んだりしてしっかり調べてから描くというのが絵を描く描き方をしなければいけないと思ったのもこの作品からである。
 つまり私としてはとんでもない失敗をした作品でもある。

何が失敗だったのか?

 というのもこういった信仰や宗教などに関わるものを描くというのは非常に繊細で緻密さが求められる。
既に確立したモノを改めて描かせていただくというリスペクトをする心が必要となる。
その為にはそのイメージはどんな姿をしたものかをしっかり捉えている必要があるのだ。
 私の失敗とは既に描いたものをPCに画像データとして取り込みデジタルで彩色を施したり編集する作業の最中だった。
 問題となったのは前項の冒頭あたりの神様の姿の話。

その姿は全身に鎧(よろい)を纏(まと)い片手に武器の宝棒(ほうぼう)を持ち、もう片方には仏舎利(ぶっしゃり)という宝が収められた宝塔(ほうとう)という箱を持った神様である。

完成したものは全身に鎧を纏(まと)う姿の武人の容姿では無く上半身は筋肉隆々した裸の姿だったのだ(ガーン)
 そもそもそうだと思って描いた毘沙門天は毘沙門天ではなく、不動明王(ふどうみょうおう)という『戦いを司る』としては共通しているものの違う宗教の仏様だった。
 さあここから血の気が引いた。午前3時半、全て順調かと思ったことがひっくり返った瞬間である。

なぜ描き直さなかったか?


毘沙門天

 さて画像左の像が『毘沙門天』である。この状態では筋骨隆々した裸である。左は日本刀を持つセーラー服を着た若い女性である。  女性の日本刀と毘沙門天の宝棒(ほうぼう)を交差したように見せる。  女性の腕と足元は霧のようなモヤが立ち込めはっきりとした全身は見えず曖昧(あいまい)な感じになっている。このモヤは世の中の不安とか暗い部分を表していて、暗雲(あんうん)立ち込める周囲に、身ごと今薙(な)ぎ払おうとする気迫の後ろに毘沙門天が迫真(はくしん)の血相で真っ直ぐ前を睨(にら)みつけるように見る。女性の目もその眼差しにリンクして真っ直ぐに前を見据(す)える。 若い女性とは、これからを担っていく方々、つまり若い世代の方々であり毘沙門天は強い信念の象徴とかなんでもいいのだがそういう気持ち的なものの表現だった。未来にどんなことがあろうが前に構え今から切り込みにいく勇気を持ってほしい。 そんなメッセージを不躾ながら表現の中に隠しておきたかった。しかし、描いた毘沙門天が毘沙門天ではなかった。別物を本物とは言うにはチープで愚かだ。 しかし全く同じものを描き直すことは難しく、ボツにするにはあまりにも勿体ない。絵というものは描き終わるといつもだが気持ちがナーバスになり疲れてしまう。趣味なのに。特技なのに。もう描いてたまるものかと。こんなこともう辞めようか。毎回それを思いながら描き物を作っている。好きなことなのだが辞めたくなる。そんな変な趣味なのだ(あくまで私はの話)
ということで、今日同じことの再現は不可能。というか描いてたまるか。という感じ。ならばどうする?と頭を悩ませた。

加筆修正というチート
完成形

 私の中で筆ペンや鉛筆で描いたということのリアルさを盛り込むことが私のオリジナルの表現になるのでは無いかと思ってやっている。  線画ペンは使いやすいが使いにくいもので描くことで私の線が出来ないかと思って筆ペンを使っている。 デジタルのような正しく正確な線への反骨心に近い。私の絵はひねくれているし、非常に頑固で要領が良くない。 その割に色はデジタルで塗りたくるガサツさがある。便利なものを否定しても、所詮は便利なものに心奪われる。 ある意味人間味と捉えてしまえばそれほど都合の良い話はよくあるものだ。デジタルで加筆修正したのは、当初の予定では女性の人間らしい肌の色味や目の色、服の着色、白いモヤなどに施すだけだった(とかいいつつ結構補正している) しかし、毘沙門天の仕上がりとリアルな答えを照らし合わせると根本的に間違っていた。  そこで私は急きょ毘沙門天にもデジタルでの加筆修正を施(ほどこ)したのだった。  鎧(よろい)の表現は血管のような模様のような筆風の線をレイヤーで書き加えハイライトで表現した。 女性と毘沙門天の目もハイライトの効果で一層強さを際立たせた。 オマケだが毘沙門天のご利益(りやく)である『無病息災』を忍(しの)ばせたり、さらに切先(きっさき)に軌(き)線を筆のカスレっぽく表現した。 (なんと厚かましい) このようにして当初の間違いを上手いかはともあれリカバリーし、それ以上に作品のディテールを変えるのは加筆修正というチートを用いたからこそ出来たことである(ドヤ)

選曲について

 さて、長々と弁解をするスタイルにカッコ悪さを見せつけてしまい読む側はそろそろ嫌気が差していく頃だろう。
そんなことで動画についての話をしていこうと思う。
 本チャンネルでは今まで動画を少しでも視聴者様に魅力的に感じられるよう視覚的にも聴覚的にも工夫するよう心がけている。その1つとして著作権フリーの楽曲を用いることも多い。

 今回の動画で使用させていただいた楽曲も、著作権フリーの楽曲を多数挙げているレーベルチャンネル
NoCopyrightSounds 様(略称:NCS)
をよく使用させていただいている。
 使用条件は例外の楽曲はあるものの非常にシンプルでYouTubeでの使用はクレジット表記をするのみである。
 世界的な著作権フリーのレーベルで魅力的なハイクオリティなサウンドが無料でダウンロード出来るので動画のみでなく普段聴く音楽にもNCS様さまである。
 昨今は著作権が厳しく曲選びというものも慎重にしなければいけないご時世になった。ストップ。無断使用。かといえ自分自身では音楽が作ることなどハードルはアルプス山脈は世界最高峰エベレスト登頂くらいハードルが高いと感じている。絵は描けても音楽とはのおの字も神様は才能をくださらなかったからである(このやろう)
 そんな私にとって著作権フリーや使用可能な楽曲という情報は喉から手が出るほど尊いものだ。(もし本Noteを見ていただいた作曲家・著作権フリーレーベルの皆様お声を掛けていただければ全力で宣伝しますので是非お声掛けいただければ非常にありがたいです。)

この動画で伝えたかったこと

 さて、最後にこの動画で伝えたかったこととは、この『毘沙門天』という神様のご利益の中にある『無病息災』である。
 現在のコロナ禍は未だ終息が見えない状況である。これを描いた昨年の9月は絶望感に打ちひしがれるよりも大切なことはなんだ?我々人に希望はないのか?という所からようやくワクチンやコロナというものへの具体策が行われるようになった時である。
 油断は出来ないし、未だ危機的状況が去ったわけでもない。むしろ渦中ではある。
 ただ、その中で一筋でも何か叶えばと思ったのだ。信仰心は熱があるわけではない。ご都合主義の生生しさすらある考えであるが、祈ることは自由ではあるとは思う。
 叶う叶わぬとも思えば人は変わらずとも自分自身の気休め程度にはなる。そう思いながら描いたというのが経緯である。
 そういう感じで今回の動画の解説とはなります。最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
 



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