100年に1度の騒動の中で その1
感染症騒動の中で、生きていたらこんなことに出会うんだと痛感している。
(ちょうど3年前の2月オンライン会議というものに出会い、これで「学校」をつくりたいと本気で思った。学校に来ることができないこたちとも繋がるツールとしてのオンラインってすごいと思ったから。でも、現実の超多忙な生活の中、京都の実家(理科まちや)の改築計画もガンガン進むし、どうしていいか暗中模索、五里霧中、四面楚歌…そんな感じの濁流を進みながら、理科まちやを無理やり開けてみたり、したみたけど・・・・・。)
で!突然止まった日常
子どもたちの日常も止まった。止まった日常の中、今まで考えることをやめてしまっていた自分に気づき、学ぶことも実は貪欲さに欠けていたことを痛感。と同時に、自然はいつも雄大で、変わらないことも再確認。
昨年9月に出会った
野外で算数
これがしたい.
そして、過密都市の環境下で子どもたちが育つこと。学ぶこと。これほんまなのか?私はこれから、また過密な環境下で、これが答えだよというほんまに学びなんか?みたいなことをするの?
昨年野外で算数の研修を受けてから、来年の春から半年くらい、北欧に行ってしまって、本当の自然に会いたいと思っていた。お金もないくせに、自分の子どものことはホッチラケで行こうと決めていた。で帰ってきたら、京都の家(理科まちや)隠居生活しながら、学生下宿やしながら、理科遊びの場づくりしようかと思っていた。
が、無理だ海外なんて行けないよ。この数年は
そんなことできないよ、目の前のことが頭がいっぱい。
急に止まってしまった子どもたちのメンタルケアのこと、これからの学びのこと、そして社会はどうなるのかなんて思っていた。
仕方がない。やっぱり、今の仕事ギリギリまで停年しても再任用で頑張るか。なんて思っていた。
そのなかで、発熱、倦怠感が治らない我が子が…。(東京で1人暮らし、社会人)
コロナ疑惑発生
味覚・嗅覚異常はない。食欲はある。でも一日中起きていることはできない、吐きそう。そして熱が下がらない。(1回目の受診ですぐに実家に連れて帰った。熱下がらない、どうしようといろいろ調べるも、熱がある場合は保健所へということで、実家近くでみてもらうことは無理だ。結局、アパートに搬送、かかりつけクリニックへ)はじめにかかりつけに行ったことが幸いで、5日抗生剤を飲んでみて、どうにも熱が下がらないので2回目の受診の際に「PCR検査できるところに紹介するよ。どう?」という」先生のお言葉で、翌日大きな病院に。
外に建てられたプレハブ小屋。ここで待機して救急外来で検査。(実は最初のかかりつけのクリニックでも、外の駐車場で決まった時間での対応。いろんなことを考えてしまいました。)
陽性だったら、保健所から、陰性だったらこの病院から電話がかかってくるとのことで、検査を受けたのは金曜日、横浜に連れて帰り、おかげさまで、陰性と月曜に病院から電話。だけどまた、下がらない発熱という「陰性だった人枠」の診察のために1週間後に通院のために東京へ。
さらに1週間下がらない発熱ということで、その病院まで行きましたよ。
結局、抗生剤の種類は途中で変わりましたけど、4回処方され、最後の2回は解熱剤を1日3回飲みなさいと。これでも熱が下がらなかったら、もう一度PCR検査をしようと言われる始末。1ヶ月間も37.0〜38.0℃の体温って。聴診器を当てるでも、血液検査をするでもなく、血圧と血中酸素濃度と遠目で喉の奥を診て腫れてるかって…。
で、やっとこ、体調もボチボチ落ち着いてきたこともあり、体温も36℃台になってので、日曜に東京に帰りました。5月2日〜24日まで行ったりきたりの実家生活の娘。こんなに母さんとべったりって?とか、話をするなかで、本当に2歳の頃以来かもねとか。穏やかに時が過ぎていました。
だか、いいのかこれで、街の生活は。
その2に続く
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