このnoteの目的

まず、目的は2つに分かれています。1つ目は

1.どんな観点や善悪の価値観からも、「自己責任」「自業自得」は無いということにしないと、民主主義や、そのために必要な「議論」は成立しない。

ということを、皆さんに、うっすらとでもいいので認識していただいて、そこから考えていく、ということです。

「謝ったら許す」「弱い人間を助ける」というのは、宗教や良心の問題ではありません。「弱い」というのは勝手に判断して良いものではなく、例えば「悪い」人も、ある程度しっかり助けないとダメです。

納得できないでしょうか?そうかも知れません。ただ、民主主義のルールと、現状の日本の言論をみていると、そうとしか言いようがありません。

これをやらないと、「コミュニケーション」は、たんなる終わりのない利益の最大化に成り下がるので、利益がないときは徹底無視するのが当然になってしまいます。無視というのは、単に反応しないというだけでなく、理解できないふりをするとか、詭弁だ、個人攻撃だ、などと言って却下することも含みます。

そのため、憲法、科学的事実、倫理、表現の自由、といったありとあらゆる「当たり前の話」も「党派性によって争う争点」になって、何一つ話は通じません。

いま言論で起きている「対立」はほぼこれなので、事実上何の話も通じていません。全く無意味な論破合戦です。

「相互理解」のためのコミュニケーションをするには、インターネットを含めた言論空間全体という広い「場」全体にかなり強い信頼関係が必要です。

これを議論する前にやっておかないと、議論までたどり着けません。

誰かが悪いわけでなく、他にどうしようもないのです。

ところが、これを私が「論証」して「主張」すると、それもまた一部のひと、とくに少数派で頑張って戦ってる人、への強い攻撃になってしまいます。というわけで詰んでるのです。なので、みなさんもこの状況をうっすら認識していただいた後、他に方法ないのか、とか、もうちょっとこうすれば良いんじゃね?みたいな全く別のアプローチを考えていただく、ということが、実は一番必要です。

いま、学問や教育すらほとんど無意味です。なぜなら、それもただ自分の利益のために学者が勝手にやり、勝手に宣伝するお題目だからです。そうじゃない!明らかに正しい!と誰かがいうたび、逆にますますそう思われます。一部の自然科学などの、まあ多分やればみんながだいたい得をしそう、すくなくとも、誰かが大損することはない、という学問を除いて、その信頼はもはや地に落ちています。

つまり、一方的な「教育」はもはや害悪であって、この状況を悪化させるだけで、何ら改善はできません。この状況を生み出して固定化しているのが教育だからです。

2つ目は、そんなの、みんなにやらせるの無理じゃね?という当然の疑問に、なんとか「こうやればできる!」というシステム的な「解答」を創り出すということです。究極の最終目標は

2.「自己責任」「自業自得」は無い、ということが明らかになること

つまり、実際に、普通の人、運が悪かっただけの人、悪人、頭いい人、ダメ人間、頭悪い人、優しすぎる人、病気がちな人、強い人、卑怯な人、すべてが「助けてもらいたい」となったらまあだいたい助けてもらえる状況、単にお金ではなく、言論で多くの人間に擁護してもらえる状況、を作る。それは例えやりたくなくてもしょうがないのでやるべき

という状況までもっていくということです。無理?

個人の努力ではまず無理でしょう。教育や、システムや、色んなものを変えていかないと難しいと思います。しかもそれをかなり長く続けていく必要もあるでしょう。

まあ無理だ、となったら「民主主義は不可能である」となって終わってしまいます。その場合、どうしようもないのですが…

1.は、「説明」的なnoteでやります。時事ネタなどから説明するかもしれません。

2.は、私にもどうすれば良いのかよくわからないので、「論考」的なnoteをで行っていきます。

ぼちぼちやります。暇な方はよろしく。

ちなみに、以下の2冊あたりから出発してます。これ読んで、違う!お前は間違ってる!って言ってくれる方も歓迎です。

マックス・ウェーバー 「職業としての学問」 

マックス・ウェーバー 「職業としての政治」

追記5/27

どうもこのnoteだけだと、私が主張している内容の本質的な「危険性」が分かっていただけないようです。要するに、具体的に何をやっているか?暇になったら下を読んでね。


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