なぜ、デュシャン、なのか。

~マルセル・デュシャンについての簡単なお話。~

最初にハッキリさせたほうがいいことは、デュシャンが何かの影響を誰かに与えたから“すごい”のではない、ということだ。画家に対して、というか、表現者に対して、その作品以外の要素で表現を語ることは権威主義的で欺瞞である。

今デュシャンの作品を見て、“全然いいと思わない”とか、“これは美しいと思わない”や“なにがいいかわからない”という風に思った場合、それはそれで全然オーケーなのである。
デュシャンはすごいですよ、と言われて作品を見て、はぁ、すごいらしいから見たけど、なんかよくわからんけどすごいんだって、という反応もあるかと思う。でも、それもそれでオーケーなのだ。

それは表現すべてに当てはまることで、別にデュシャンに限ったことではないが、とりわけデュシャンに関してあらかじめそう言っておきたい。

たとえばここに便器がある。男子便所にある小便器だ。しかも、ここは画廊であり、作品台に陳列されている。便器は、台に置きやすいように背面を下にして配置され、その真っ白い本体には筆のような筆記具でなにやらアルファベットが殴り書きされている。サインのようにもみえるが、実際は何かはわからない。その台には作品プレートのような物が見え、そこには『泉』と書かれている。どうやら、この男子小便器は『泉』と名付けられた“作品”のようだ。作品……。画廊にあるのだから、これは美術作品なんだろうか。しかし、どう見てもこれは単なる便器にしか見えない。横から見ても、後ろに回っても、上から見てもやはり便器だ。本物の便器。しかし、『泉』とは一体何のことだろうか……。それに、どうして画廊に便器があるのか、これは作品ではなく、なにかの間違いでここに置かれているのかもしれない。

マルセル・デュシャンは、これを本当にやってのけた。
1917年に便器を『泉』と名付け、美術作品として画廊に出展したのである。しかし、主催者に展示を拒否され、陳列はされなかった。

   1913年に、台所用の腰掛けの上に一個の車輪を固定し、
   これが回転するのを眺めるという名案を思いついた。
   ~マルセル・デュシャン~

   『マルセル・デュシャン全著作』
   ミシェル・サヌイエ編・北山研二訳(未知谷刊)

これは“レディーメイド”と呼ばれ、デュシャンを特徴づける重要な芸術性となり、その後の芸術に大きな影響を与えたこととして大変有名である。ちなみに“レディーメイド”とは完全にデュシャンによって与えられた言葉であり、名称だ。

1913年から制作が始まった“レディーメイド”はデュシャンの思考が生み出した芸術表現の方法論であり、実践であった。
1917年、便器を『泉』と名付けた“レディーメイド”はセンセーショナルな“事件”になったが、もしかすると展示を拒否されることすらもデュシャンは予見しており、その事件性をも表現としての“レディーメイド”に組み込んでいたのかもしれない。

ここで、冒頭で書いたことをもう一度記しておきたい。

デュシャンが何かの影響を誰かに与えたから“凄い”のではない、ということだ。
“レディーメイド”が後の芸術に影響を与えたからデュシャンがすごい、のではまったくない。単に“レディーメイド”という思考と表現がすごいのである。便器にサインをして横置きにし、『泉』とタイトルを付けてこれが作品、としたデュシャンがすごいのである。見ている我々はその“作品”を見た瞬間、自らの思考を認識する。というか、認識せざるを得ない。その時、作者であるデュシャンの思考と交錯する。
デュシャンはそういった表現の現場性を誘発した作家であった。

実は、優れた絵画作品はすべからくそういった“表現の現場性・思考性”を強く放出し、作品を見ている人の思考と作者の思考とが交錯するという生々しい“体験”的現象を引き起こすのだが、実際はそうとはあまり意識されない。
なぜか。
多くの作品が美的要素で覆われているためである。美的要素があるのは当たり前のようだが、作品が生まれることになった動機がいつも“美”であるとは限らない。黄金に実った麦畑の上を群を為して飛ぶ鳥、そういった景色を見たゴッホが、そこに“美”ではなく“恐れ”を、あるいは“祈り”を、または“悲しみ”を感じたとしてもなんら不思議ではない。しかし、描かれた作品には美しい色彩と見事な麦畑がある。それを見たとき、何を感じるだろうか。
キレイな絵だね、で済んでしまってもなんら不思議はない。実際、“キレイ”な絵であることには間違いがないからだ。
その絵に何かを感じ取ろうと躍起になって食い入るように見る、という人には、単に“キレイ”だけではすまされない作者の深い絵画的動機を感じ取ることが出来るだろうが、そうではない人にとっては“キレイな絵”で済んでしまい、見ている自分自身の思考を絵に対して深く差し向けることなく、見終わってしまうこともあるはずだ。

ところが、デュシャンの考え出した“レディーメイド”ではそうはいかない。
見ている人は、自分の思考を動員する羽目になる。本物の便器に“美的要素”を感じ取ることなどとうてい無理で、さらにややこしいことに、タイトルにはいわゆる美しいものだという一般認識の『泉』という言葉が用意されている。
“見る”という行為だけではすまされないくらいの強烈な存在感とアンバランスな提示。
しかし、それこそが作者であるデュシャンの思考であり、見ている人は自分が作品を見て思考する瞬間、作者であるデュシャンの思考と交わり、作者の作品的動機を受け取るのである。
便器を見て顔を背けたとしても、その背ける直前には作品を一瞬でも見ているわけで、そこに思考が入り込んでいる。だからこそ顔を背けたわけだ。

思考。
デュシャンの芸術表現はそこにある。
デュシャンのいう、網膜的でない絵画、というのは、そういう“思考”を呼び覚ます絵画のことをいい、作者と鑑賞者双方の思考を持ってなされるものが芸術作品なのである。

優れた芸術作品は、どのような作家の作品でも実のところ“網膜的”ではない。それがいくら美的、色彩的に美しかったとしても、思考を呼び覚ます強い表現に満ちている。
デュシャンは作品にもっとも強い磁力を持ち込み、見て思考するという誘惑を仕掛けているのである。そこにこそ、芸術表現があるという風に。

デュシャンの作品を見る。しかも、画集ではなく本物を見る。
そこにこそ、デュシャンの思考を感じ、見ている我々の思考を活性化させる絵画体験があるのである。

Nori
2012.5.3
www.hiratagraphics.com