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働いていると映画を観れなくなっていたが、『チャレンジャーズ』に救済された

ここ2ヶ月ほど、うまく映画を観ることができていなかった。
原因は覚えている。楽しみにしていたドキュメンタリー映画『成功したオタク』を観に行ったとき、仕事でインシデントが起きてしまったことだ。スマホの電源を切る間際、後輩からの指示を仰ぐメンションを見てしまい、「もう退勤してるんで……」とも「映画館いるんで……」とも言えなくなった。

フレックスタイム勤務なので、別に、打刻をして仕事を上がっていても問題ない時間だったのだが、運悪く打刻も忘れていた。こそこそ座席を立ってはロビーでSlackを開いて指示をだし、また15分経ったら確認し……という、最悪の行動を取る羽目になった(一応、その列の一番端の席をとっていたのでかろうじて許してほしい……)。私だってこんなことはしたくなかった。でも、連絡に気づかなかったことにすればよかったのに対応したってことは、どこかでしたかったのだ。

「また、映画鑑賞中に仕事で緊急事態が起きるかもしれない」「そのときに対応してしまうんだろうな」と思うと、無意識のプレッシャーがあり、平日の夜に映画のチケットをとることができなくなった。休日はあったといえばあったのだが、休日は休日で、友達との飲み会や、寄る年波の中心身を維持するための運動・美容系のメンテナンス、うっかり手を出してしまった不動産購入系のアクティビティで埋め尽くされており、映画を予約しようという気が起きなかった。というか、明らかに「映画に集中できない自分」がはっきり存在していて、土日でも絶対無理だなーと思っていた。

ADHD的傾向のある私にとって、映画は基本的に映画館で観るものである。一応NetflixとAmazonプライムを契約しているが、自宅だと、5分くらい鑑賞したところでTwitterや、Instagramや、Slackをブラウジングしてしまう。配信動画サービスは、人が一緒にいる時しか見ることができない。映画館であれば、基本的にはスマートフォンの電源は切れているから、「SNS見たいなー」と思っても、そこで電源をつけてSNSを見るようなことはない。衝動をぐっと我慢すると、だんだん映画に没入できる。没入できずにあれやこれや現実のタスクに脳内を占められていることはあるけれど、しばらくやり過ごせば、また興味をひかれるシーンで映画に集中することができる。映画があまりおもしろくない場合であっても、刺激は必ずあるから、思考と映画が半々くらいにはなる。うっすら別のことを考えていても、強制的に刺激を脳内に流し込んでくれるのが、映画館での映画鑑賞のいいところである。強制的に刺激を流し込んでもらうことで、そのうっすらした思考ーー会社や人間関係の悩みやタスクに関するあれこれーーからつかのま解放される。映画館での映画鑑賞にはこのようにマインドフルネス的側面があり、私はそれを重宝してきた。
しかし、である。思考ががっつりと「生活」に奪われていると……映画の刺激が生活の刺激に勝てない! エンタメに対する不感症がまざまざと感じられてしまったのが辛くて、それ以降、実際にオンコール対応させられる・させられないに関係なく、映画館から足がとおざかってしまっていたのだ。

正直、「生活」の刺激というのはとてつもないものだ。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が大ヒットし、快進撃を続けている。

この本を読んだうえで自分が「本を読めない」「映画が観れない」理由を考えたとき、それは結局「エンターテイメントが与えてくれる刺激より、『会社』の刺激が強いから」だなあと思った。

だってほら、エンターテイメントの中でもみんな、リアリティ番組好きでしょう。会社って、自分が登場人物になれるリアリティ番組だ。仕事がうまくいっていてもうまくいっていなくても、渦中にいるのは自分だ。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』でも言及されているが、映画「花束みたいな恋をした」の男性主人公・麦は、労働でボロボロになり、「もうパズドラくらいしかできない」と言う。これは麦の人間性が労働によって打ち砕かれたシーンとしてもちろん描かれている。しかし、周囲の「パズドラしかできなくなった」系労働をしている人を見ていると、そこにはある種の「陶酔」があるようにも感じられる。最近の自分がまさにそうだったから。麦くんも、「会社の床でパズドラしてるくらいボロボロの俺」をやっているとき、絶対一種のヒロイックな気持ちを感じていたと思うのだ。客観的に見たら面白いと思ったんじゃないだろうか。たぶん『宝石の国』よりも。

そんなわけで私も、「上司の期待にうまく応えられずに惨めな気持ちで残業している私」や、「彼氏によるLINE未読スルーに『別れたいのかも…』と思って一喜一憂する私」のリアリティ番組的刺激に、すっかり夢中になり、映画が見れなくなっていたのですが。

ありがとう、『チャレンジャーズ』。

ありがとう、ルカ・グァダニーノ。


正直言えば、今月の頭から、「1週間に一回は映画を観よう」と決意し、映画を観る習慣を取り戻し始めていたところだった。
それはまさに『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだからもあるし、「会社や彼氏に振り回されている自分」のリアリティ番組のことを、さすがに馬鹿馬鹿しいと感じ始めたからである。会社の仕事や、恋愛の成否に結びつかないことに時間を使って行こうと、自分に対する自分の反逆として考えられるようになってきた。

それで『悪は存在しない』とか『関心領域』とかぼちぼち見てたんですよ。どっちも面白かったんだけど……

「労働/生活」の映画なんだよ!!!!

なお今回の記事で私が使う「労働/生活」というのは、「自己実現ではなく経済や生存の必要、社会的地位のために行っていたつもりが、必要以上にアイデンティティのよりどころとなり、嗜癖的になっている活動」を指します。

頭のなかで、どうしても「自分の労働/生活」が呼び出されてしまってね……それはそれで有意義な鑑賞体験だったし、どちらの映画もすばらしかったのですが、「もっと、私を『私』とか『今』から遠くに連れ去ってくれ〜〜〜〜」というフラストレーションがたまっていました。

そんなところに、『チャレンジャーズ』を観たのです。見たのです。目撃したのです。

素晴らしかった。現実のすべてを忘れられた。すべてクソ食らえだと思った。
現実なんて、生活なんて、私なんて、アイデンティティなんて。
自暴自棄ということではなく、悲観主義でもなく、清々しい気持ち。
目の前の、すごく狭いところばかりを凝視して、凝り固まっていた脳味噌と眼筋と全身から力が抜けて、血行が良くなる感じ。
今すごくすごく前向きだし、自由だなって感じ。
そうだ、エンターテイメントに心動かされるってこういうことだった!と思い出しました。

後半1時間ずっと涙ぐんでいたし、終わったあとも嗚咽が止まらなかったし、終わったあと喫茶店で同行者と好きなシーンの話をしている間も、たまらず涙がこぼれてきた。デトックスだ!と思った。救済だった。

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悩むのが趣味の35歳兼業文筆家が、日々摂取したコンテンツ、自意識との格闘、人間関係、労働、美容の試行…

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