はじめての、狩猟。
<実際に目にしてどう感じるかを自分の心に集中しながら、命というかけがえのない生命や動物からお肉への変化を学ばせていただきたい>という目的の中、有害鳥獣駆除として狩猟をされていらっしゃるOさんにお声がけいただき、2021年3月に、はじめて狩猟の捕獲に同行させていただきました。
目の前で起こった出来事。
罠で仕掛けられた鹿が、脚を繋がれたまま、かけまわっていた。人間が鹿を捕獲した。関節の骨が出ていた。鹿が、ミャーミャーと鳴いた。「ごめんね、ごめんね、大丈夫だよ」と、人間が鹿をなだめた。後ろ足を結んだ。鹿は必死に立ち上がって、逃げようとした。人間が鹿を抑え、「ごめんね、ごめんね、大丈夫だよ」と再び鹿に声をかけ、鹿を撫でながら、四つ脚を結んだ。鳴き声はまだ止まらない。そして、「こうすると、落ち着くんですよ。鹿の本当の気持ちは分からないですが、そう言われています。」と言って、タオルで目元を押さえ、ガムテープで巻いていった。車で運ばれていく。解体場に到着した。落ち着いた様子に見えた。だが、狩猟人が「怖がっているかな、ほら、耳が少し震えている」と言った。体を触る。体を撫でながら、体温と、脈であろうか、心臓が動いているのを確認した。解体台に下される。解体人が、脈を確認する。首あたりを触りながら、「ここではない」と一回で命に留めをさせる場所を探る。首あたりに、震えている場所を発見したという。それから、手を合わせた。私は、その光景に戸惑い、じっと見ていた。と、同時に、小学生は手をポケットに入れて、私たちをさらに俯瞰して見ていた。私は、「しまった」とも思った。小学生にとっては、大人たちが見本になると思ったからだ。ナイフが首に入れられた。鹿は鳴いた。コンクリートに、血が滲み出ていく。鹿は、しばらくの間、びくびくと動いていた。血を抜くために、鹿を逆さにした。血が鹿の体を伝って滴っていった。血が目にかかる。鹿の目に、血がかかる。鹿の目には、どのように映っているのだろうと思った。解体人が、鹿を上下に持ち上げては下げる。血を抜くためだ。1回目、鹿の鼻が地面に付いた(突かれた)。「あ、痛そう。」と思った。「自分がされたら、悲しいな」と思った。その人は、地面に当たったのに気づいたのか、次から付かないようにさらに持ち上げて付かないようにされたと私には、見えた。「あ、よかった。」と、命が絶たれた状況への戸惑いと同時に、その解体人の配慮に少し、温かく救われた自分がいた。まだ、生きていた。「死には3種類あるっていうよね。細胞の死。組織の死。個体の死。今はまだ、個体の死にもなっていない状態。」ついに、鹿は、動かなくなった。動物から、死体になった。コンクリートの上を、ホースで流す。血の塊が出てきた。触ってみた。ゼリーみたいだった。子どもの頃に高校の文化祭でもらったスライムみたいな、ゼリー状だった。手から放すと、手は真っ赤だった。ドラマみたいだった。「これは、どこから来た血...?私は何をしたの?」という感覚だった。鹿の目は、グレーになった。目を触ると、膜で覆われていた。目を触るのは、何か抵抗を感じた。だって、生きていたら触れないものを、今、触っていたから。死んだからこそ、触れているんだもの。必死に抵抗していた鹿が、もうここにはいないのだから。私は、私という人は生への尊厳を大切にしたいのだと思った。
お昼ご飯は、カルボナーラパスタを食べた。
鹿の解体が開始した。孔門付近をナイフで開き、紐で結んだ。うんちが出てこないようにするためだ。お腹を開いた。硬い部分は、トンカチでナイフを叩き、開いていった。体に傷をつけているようで、心に鈍い痛みを感じた。これがメスならば逆に助けられているのに、と思った。この地球上で、助けられる命もあれば、人間自らが留めを刺す命がある。今、命に留めを刺されている動物がいる一方で、手術台で必死に命を救っている人がいる。奇妙に思えた。では、病気で寿命の短い動物や罪を犯した動物を食べればいいのかといえば、そうでもないと思った。「人道」というものの範囲を考えさせられた。気管支は、ホースのように、円の窪みの繰り返しでできていて、人間社会に応用されていそうな機能性だなと思った。体を開いて見ていけばいくほど、心の中は「わーー!」という驚きの感動で溢れていた。体の絶妙にうまくできた成り立ちと、これらがうまく働くことによって鹿は生きていたのか、という生が成り立つ要素に、感動を覚えていた。一人の人が、「ほら、もうね、可哀想、とかじゃなくて、好奇心なのよ、この子たちは。」と言った。それは、多くの人たちは可哀想だから見れない、やらない。だけど、この子たちは好奇心でできているというニュアンスだと感じとった。私の中で、お腹を開かれて、今目の前で部位をそれぞれ切り離されている目の前の物体は、「肉」であった。それは、食卓に並ぶまでの段階に近づいてきたことや食卓に並ぶ肉を想像できる状態になったからであろうと考えた。顔と胴体が切り離された。コンクリート上に置かれた顔は、戦国漫画に出てくる、「頭獲ったぞー」の一コマが第一に頭に浮かんだ。壁に掛けられている、鹿だった。奢侈品だった。内臓は、バケツに入れられ、胴体は枝肉にされ、調理場に運ばれて、各部位に分けられた。忙しかったからだろうか、「皮は今回はやめにしよう」といつもの皮なめし師は言われたが、皮なめしをしてみたかったから、させてほしいと伝えた。皮なめしをしてみたかったのは、活かせるものはすべて生かしたいという想いがあったからであろう。皮なめし師に「じゃあ、やる?」とはじめ言われた時、「やりたいです」のあとに、「捨ててしまうものであったのだから」という失敗しても責めらてない保険として「練習としてでもよろしければ」と言ってしまい、それにハッとして、すぐさま「いえ、練習としてだとは思いませんが」と言い直した。このことに限らず、普段の日常においても「練習も本番もない、全てが本番だ」とは自覚していたが、「練習=失敗してもよい(許される)」という概念を持っている自分にとって、今回、命をいただいた鹿の命は、鹿という動物を一括りせずに、名前はついていないが、私にとっては初めての解体経験をさせてくれた唯一無二の存在であって、失敗など許されない、しっかりと鹿の死を私たちも鹿自身も肯定できる活かし方をするんだ、という想いに変わった。
鹿の命はもう、ない。でも、私がこれからいただく心と体の栄養となってくれるお肉も、体を温めてくれる絨毯も、私を生かしてくれる。鹿は、私のために、犠牲になったのか。犠牲という言葉をい調べると「一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものをささげること」と出てくる。私という人間が生きるために、鹿は動物でいるための命をささげてくれた。人間社会においても、「戦争によって犠牲になった命があるから、今の日本がある」などと聞くことがある。確かに、そうだと思う。犠牲のない世界は、ないと今の私は考える。何かしらの欲求や本能を持った感情を持つ生物にとって、お互いがお互いを尊重し、配慮し、生きていくことが重要であるが、それぞれが理想を追い求め、近づいていくためには、その過程で失敗も生まれ、その時点で犠牲は生まれる。これを考えると、「では、平和な世界などの究極の理想状態は実現可能なのか」という意見が生まれると思う。それはどんな世界が平和というかなどの定義を明確にして、その定義をどの段階で達成とするかが肝であると考えた。
今回、捕獲から同行させていただいた、大越さん。最初にお逢いしてお話いただいたのは、「みんな(目的は)同じなのに、争っている。ヴィーガンであることには、変わりないのに、その程度の差やきっかけによって、優劣をつけたりする。議論が起こっている。」という語りはじめと締めである「山に入る前に一つだけ言っておきたいことがあります。よく、人間の方が上とかいう議論がありますが、僕はそういうパワーバランスみたいな部分においては、人間も動物も一緒だと思っています。だから、捕獲する時は僕が酷く見えるようなことをするかもしれません。でも、それは、鹿も生きるために必死で、僕も鹿を捕まえるのに必死で、怪我や、最悪の場合、僕が命を失うかもしれないからです。だから、これからすることは、僕も自分の命を守ることに必死だということを頭に入れておいてもらいたいと思います。」ということ。パワーバランスとは「国と国のような特定の集団同士の力関係のこと。または、身体のバランス感覚が向上する、とされている、リストバンドのように手首に巻きつける商品のこと。」と出てくる。つまり、力関係のことだ。「力関係」とだけ言えば、人間と鹿では人間が鹿を食べる、捕まえる、有害鳥獣駆除して生態系をコントロール可能であり、人間の方が力は上であると思う。そこで「大越さんのパワーバランスがない」とは、どちらも命懸けであり、どちらが命を落としてもおかしくない、ということだと解釈した。野生において食われる方は逃げるのみで抵抗のしようはないが、人間対動物では、人間は知能の高さから動物よりも力が勝っていると捉えられ、肉体的な力の面では動物にまず勝てないだろうと考えるためだ。その点では、全ての面で勝てている訳ではないからこそ、命をいただくことへの感謝(ありがたく思って礼をいうこと)をすることが、人間が動物に対して奢り昂ることなく、人間と動物がともに尊重し合って生きていくことに繋がると考える。
Oさんが農業をしたい背景や想いをお聞きして、人工物で成り立った世界ではなく、自然の中で暮らしてみたい、自給自足の生活をしたい、という想いに、とっても素敵だなと感じた。Oさんのお言葉は、一つ一つに重みと優しさがある。そして、その想いから実際に移住されて、実現のために一つずつ行動に移されているお姿、またまた素敵だなと思う。
今回は新聞記者さんもいらっしゃり、Oさんを様々な視点から知ることができた。この日の1日とこの記述を通して、私は「伝える」ということがやりたいのかなと改めてさらに思った。素敵な人たち、素敵な場所...で溢れている、ここ。SNSで感情論もしくは論理のみで話している人に、「ぜひ、やってみては?」と、まずは「このような機会があるということを知ってほしい」と思うからだ。最近は、自分にとっての「尊い」を見つけている。ある本の親子の会話で「どんな仕事でも、人に役にたてるのよ」という母親の発言に対して「それはそうだけど、、夢の問題なの!!!!!」という子どもの言葉を2年経つ今でも、鮮明に覚えている。仕事はお金(価値)の交換によって成り立っている訳だから、どの仕事も役には立てるのだろうけど、やっぱり私は、私だからこそ活かせる、かつ、やりがいを感じる、仕事を持てるように頑張りたい、と思ったのである。
今回のことを通して、「心で感じてみよう、やってみよう」ということを、多くの人に届けたい。感情論ではなく、理屈ではなく、自分の心が現場でどう感じるのか、そこから、志を伝える際の重要な説得材料となると思う。
この日の経験を、家族LINEに写真3枚とともに投稿した。一人からは、「おいおい」ときた。「おそらく、この後は刺激が強いので、載せないでおくよ。笑笑」として終えてしまった。家族だから知ってほしい、ではない。一人の人にこの経験を伝えたいとして投稿したつもりだ。賛成される、反対される、ではなく、自分の意志と想いを大切に、忠実に、生きていきたいと思った次第である。
Oさんの「長期的な繋がりを大切にしたい」とのお言葉、とっても嬉しかったです。ありがとうございました。
罠についての説明。
これを仕掛けている。
ついに、入山
鹿がつけた跡。何のためかは忘れてしまった。
これにより、木も傷付き、被害の一つとなる。
鹿を捕獲
目をガムテープで押さえ、ロープで四つ脚を結んだ。
鹿を抱えて、山を降りていった。
太いもので結んだ方が、
特定の圧力が掛からずに、負担が大きくなくなる。
息が途絶えた、鹿
目に、血が、かかっている。
ポキっじゃなくて、少しずつ露わになってきたのだろう。
ほんのあと、もう少しでもげそうだった。
簡単に切れてしまいそうで、一度しか触れなかった。
耳に、たくさんの血が入っていた。
体を逆さにして血を抜いたからだ。
目は見えていないだろうけど、見られている気持ちだった。
最後に振り絞った訴えに見えた。
必死に、逃げようとしたんだね。
どんな気持ちだったかな。
心臓は止まっているけど、あたたかかった。
まだお腹を開けていないとき。
あたたか...い。
胸から顔にかけてお腹を開けていった。
ホースで尿を流し出すようす。
臓器を出し終わったようす。
目はカメラを向けるとグレーからエメラルドグリーンに見えた。
見たときは、悲鳴をあげてしまった。
高圧洗浄機で油や抜け毛を取っていくようす。
塩と〇〇で保存をするようす。
皮なめし師に再度聞かないと思い出せない。
枝肉から骨を外していくようす。
こうやって、ふりかえってみると、「すごい」光景である、としみじみ思う。でも、これが起きたのは現実世界であり、しかもその現場に、今「すごい」と思っている私はいたのである。眠っているときの夢やテレビの画面越しの出来事に見えるが、このような原体験が、人の経験や言葉を借りずに、自分にしかない、かけがえのない「想い」の要素となっていくのだと思う。そして「すごい」で終わらせず、どのようにすごいのか、一つ一つ言語化していくことが、自分を知り、人に伝えるために重要だとも学んだ。今後の改善点としていこう。このような機会が増えていくことを望んで、私の初解体である鹿さんにありがとうと頭を下げたい。ありがとうございました。
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