メディアの人の他者受容力と視点の高さ
記者などメディアの人の他者受容力と視点の高さ・・・どうしても気になるんです。。私は教育を通して、あらゆる多様性が自由に行き交う社会作りに貢献したいと思い、日頃から投稿では熱量高めであーだこーだ言ってます。すべての人の意見や存在は、ありのまま尊重されてほしく、そのために受け入れる器作りが大切だと言ってます。と言いながら、本当は、私の器がちっちゃいんです。。。
私は基本的に、すべての意見を尊重しているつもりです。世の中の発信も、SNSでの投稿やコメントも、みんな違うからこそ良い!でも、引っかかるのは、メディアの仕事をしている人の発信に多様性の受容力や視点の高さが感じられないときです。。
たとえば、
「専業主婦という仕事を選ぶことは危険だ」
「キャリアはこの順番で築かなければ失敗する」
「そういうサラリーマン根性が社会をダメにしている」
「働き方は変わった。昔の方が男性は楽だった」
「想像力が足りない中高年が、多様性が生きにくい社会を作っている」
記事の内容自体というより、世の中の人に分断を生みかねない発信に疑問を感じてしまうんです。専業主婦と働く女性の間に、会社員と学生起業家との間に、サラリーマンとそれ以外の間に、男性と女性の間に、中高年と若者の間に。みんながいて、社会です。普通の人が「私は専業主婦が一番カッコいい仕事だと思う!」と言うのとは、人に与える影響が違ってきます。
記者の仕事をしたことがないので偉そうなことは言えませんが、もし、仕事を通してより良い社会作りを目指しているのであれば、記事を通して多くの読者に「A or B」「A vs B」という構図を見せることが役に立つのかなぁ?と思ってしまいます。「AとBの比較を発信する」という作業視点だけで記事を書くならば、結果として分断を生んでも致し方ありません。一方、「AとBの比較を発信することを通したより良い社会作り」という視点があれば、分断を生みかねない表現に記者自ら疑問を抱くでしょう。
AとBの比較は、どちらかを否定することではありません。両方をありのまま認め、それぞれの特徴を伝えることです。否定の上に成り立つ比較を鵜呑みにする読者は減っています。否定があれば表現が過激になり、売れてきたのかもしれません。しかし、多くの人は、その姿勢に違和感を通り越した拒絶を示していると思います。否定だって表現の自由です。でも、私は器ちっちゃいので、そういう記事が多くの人の目に触れないでほしいと密かに願っています。
記者自身の「多様性の受容力」と「どこに視点が向いているか」というのは、記事を読めば分かります。世の中の流れに「合わせて」表現に気を遣っているのか、本当にご自身の受容力と視点が成熟しているのかは、記者ご自身が想像している以上に読者は読み取っています。少なくとも私は、記事の内容より、「記者の意図」を意識しながら読みます。
記者の方も、仕事を通して今の社会を築いた人たちで、そこに私たちが今生かされてます。その働きに敬意と感謝を抱いています。その上で、これから私たちが「何を選ぶのか」「どこに注目を流すのか」「どこを避けて歩くのか」が大切だと思っています。
発信力のない一個人である私にできることは、疑問を抱く記事を書く記者や出版社の商品を買わない・読まない・リアクションしない。疑問を抱くテレビ番組を見ない。そして、自分が感じたことを、微力でも諦めず、ネットやリアルで発信し続けることです。
幸い私は、人材基盤形成教育を通して高校生などの若者に接していますが、若者は意外にも大人たちの「視点」と「受容力」を見抜いています。ある高2男子が、いくつかの記事を読み考えを表現する講義で言いました。「この記事に隠れたビジョン視点は、自分が目指したいレベルではありません。」これは、大人たちの視点の段階を見抜き、ありのまま認めた上で、自分の目指したい方向を理解しているからこその言葉です。
売れるために書かれている記事なのか、
単に情報を発信している記事なのか、
より良い社会作りを目指して書かれている記事なのか、
これを見抜くのが読者の責任です。
見抜いた次は、どこに価値を流していくのかを決めて動く・動かない。
このようなことを言えば、私は、特に一部のメディアの方から嫌われるのでしょうか。気分を悪くした方がいらっしゃったら、謝ります。「こんなとぼけたこと言う人もいるんだな」くらいに思っていただければと思います。
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