またひとつ、年を重ねる

誕生日です。
とうとう40代も最後の一年となりました。

しかし、私の中では40を少し越えた頃から、あんまり時間が過ぎてないように思う。なんせ、一年が3ヶ月くらいの長さ(ま、これが老化の一種らしいけど)
この一年間何をしていたかなぁと振り返っても、はて…となってしまうくらいにあっという間だった。

見た目も中身も立派なオバさんなのだが、実は自分がオバさんなことに対しては別になんとも思わないし、それが事実だから否定もしない。
そりゃ10代のお嬢さんのお肌のハリと比べたら、私なんて靴下のゴムの後がなかなか消えないくらいにハリがない。
それは現実なので、受け入れるしかない。朝起きたときに顔になぜか枕の後がクッキリとついていた日には、ひぃ!早く消えてくれってなる。
お肌のお手入れも浮腫みの対策をしても、現状維持するのが精一杯だ(笑)
だから、いつの頃からか年相応に見えれば御の字だくらいに思っている(年相応に見えてるかどうかは疑問だが)
でも、私にも乙女心は多少残っているので、抗ったりもしているけど。

実は「自分のことをオバさんだと言わない」って言葉が嫌い。それは裏を返せば、オバさんという言葉を否定してることになると思うんですよね。
だって、年を取ってるってことは事実。
それを受け入れることが大事だし、そもそも、年を取ることは悪いことではないはずだ。
日本って若いってことだけに称賛がいきがちで(特に女性に対しては)、時々不思議だなぁと思うときがある。

49年も生きていたらそこそこ色々あって、手垢もついてりゃ傷もあるかもしれない。が、年月を重ねた味わいというものだってあるんじゃなかろうか。
良くも悪くも経験というものは、人の個性になると思うのだが。

というのも、私は若かった頃の自分自身が大嫌いで、今の自分のほうが好きだからだ。
ほんと、今思えば若かった頃の私はとんでもない女だったと思う。
でも根本的な内面は大きくは変わっていない。
振り返ってみると、まさに40歳すぎくらいに【不惑】だった。孔子先生は流石に理にかなったことを言ってるのかもしれない。
40歳の時に人生で初めて手術なるものを受けて、3分の1くらい輸血で血が入れ替わったからだろうか(笑)、その頃から考え方が変わった。
自分を受け入れる、ということができはじめた。
ダメな部分はダメな部分だし、卑屈なとこもすぐにネガティブに受け取っちゃうとこも、それはそれで私なんだなぁ、もう変わらないわという一種の諦めだろうか。
でも、こういう部分は私のわりといいとこじゃんって思う部分も見つかった。
他人の目を気にすることもあったが、それを気にしたところで自分を押さえていても何にも面白くないなぁと思うようになった。
40歳を過ぎてから「誰に何を思われても、この人にわかってもらえればいいかぁ」と信頼できる出会いがあったのも大きいかもしれない。おそらくわかってもらえてると思う(思いたいって希望的観測大きいけど)ので、そのことは大きな自信にも繋がる。
そもそも、人はすべての人から好かれるなんて無理なんですよねぇ。大人は友だち100人できるかな、なんて心配はいらない。

そういう一種の開き直りができ、自分の中のプラスもマイナスも受け入れることができて、初めて自分を好きになることができたと思う。
ずいぶんと時間がかかりましたね(笑)

そこからは、毎日のほほんと生きているので、誕生日だからといって今年は良い一年にするぞ!みたいな気負いもなく、平穏に1年が過ごせたら御の字だなくらいに思う。
やりたいことは山ほどあるから、その中で1つでも2つでもやれたらいいな。

40代って私にとっては変化の日々だったので、その最後の一年に自分自身がどう過ごすか、俯瞰でみて興味がわく。

50にして天命を知るらしいけど、天命って何ですかね。知ることはできるのか、それはまた月日を重ねて振り返ったときにわかるものかもしれない。
天命を知ることができる日まで、自分を否定しない生き方をしていきたいものだ。

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