ディファイルド、感想

HPより抜粋

Defiled [ディファイルド]
気高く・神聖なものが汚されること

テクノロジーが進化し、オンラインで会話ができる時代。 本作品は9.11の起こった2001年の10月に日本初演、グローバル化が進む社会に警鐘を鳴らし、便利になったが何かを失ってしまった2020年の今日に、改めて真に大切なものは何か?を問う作品です。

私は7月26日、青山DDDクロスシアターで 章平×千葉哲也回を観賞。
配信にて、上口耕平×加藤和樹、成河×千葉哲也の回を観た。
オンデマンド配信での成河×千葉哲也回が記憶に新しいので、そちらから感じたものが大きく影響されていると思う。

まず、実際に劇場に出向いたときの記録。
50人のみということで、会場内は2席空きでの配置になっていた。
私は最前列の端っこ。演者との距離も2メートル弱はあったかと思う。
デジタルチケットだし、アルコール消毒は手だけではなく、靴の裏も消毒するという徹底ぶり。
当然、みんなマスクだ。
クロスシアターはとても狭いので、すぐさま客席に座る。静かだ、誰も喋らない。
張りつめた緊張感さえ漂うような客席だった。
気迫も感じるような…あぁ、ここには芝居好きだけが集まってるんだな、みたいな同志たちが集まっているような気にもなった。
舞台クラスターという言葉が世に広まっていた頃だったので、もう一度クラスターが出たら舞台は本当に開けなくなるんじゃないかっていう心配もなくはなかった。

あの静けさの中ではじまった朗読劇。
朗読劇だからこそ、余白だらけで、そこを埋めるのは観客だ。
このご時世だからこそ、そう受け取ってしまうものもあった。ディファイルド、私にとっては舞台だなってのが実感としてわいてきて、泣いた。
違う時代に観たなら、きっと感想は全然違うものだっただろう。

物語は、ハリー(犯人)とブライアン(刑事)の駆け引きの物語だ。
それぞれが自分の信念を貫くために、相手の心に近づこうとする。
でも、相容れない。それは、お互いが大事にしているものが全く違うからだ。
観客も自分が大事に思うものに近い方の気持ちに寄り添って話を眺めるんじゃないだろうか。
私はハリー側の人間だ。おそらく"一般的・常識的"に大事とされるものよりも、自分が大事だと思うことが重要な人間、枠組というものからは少しはみでている。
でも、結婚して子どもも産んで、年を取ったからこそブライアンの気持ちもわかる。千葉ブライアンには一種の諦めのようなものを感じたのだが、それが年を取り世間に馴染んでいくということなのだろうなぁ、とボンヤリと考えてみた。
人間とは環境に適応する能力を持つ生き物だし、それを賢いとする生き物でもあると思う。

しかし、ハリーははみ出た人だ。
章平くんと成河くんは、幼さの残る人物に作り上げていたように思う。二人の相手が狡猾さを感じるような千葉さんだったからだろうか。

ちなみに加藤和樹くんの台本では、ブライアンは若い人設定になっていて、千葉さんの時とは台詞が違っていた。
上口くんのハリーは静かに死に向かっている人のように思った。私が観た三人の中では一番大人だった。

ハリー、とてもめんどくさい男だ。
図書館司書をやっているだけあって、知識は豊富だが、屁理屈を捏ねる(笑)
台詞から父との関係は良好ではなさそうだし、大好きな母親は亡くなっている。姉は口うるさいらしい。
学生時代の彼女にこっぴどくフラれた経験もある(個人的に付き合っていたというのもハリーの思い込みなんじゃないかと思った)
自分に自信がないからか、催眠術で「自分はハンサムだ」と思えるようにしてもらおうとしたり。
おそらく、コミュニケーション能力は低い人物なのだろう。
そんな彼の大事な居場所が図書館。拘るのは"図書目録カード" 私の勝手な想像だが、ハリーは図書目録カードを扱うのがうまくて、職場で一目おかれていたのではないかと考える。
小心者でコミュ障で、そのくせプライドだけは高そうなやつだと思うので、彼にイライラを感じてもおかしくないような人物だと思うのだが、今観るからこそ私はハリーの気持ちに同化してしまうのだ。

人には落ち着く場所があると思う。
ここなら自分はいて良いのだと思える場所。
仕事なら尚更だ。
そんな場所が突然無くなるとなると慌てるだろう。
自分の中心が無くなるような気持ちにもなるんじゃなかろうか。
特に変化に弱い人間にとっては。

そして拘り。
これって理屈じゃなく、好きなものは好きなだけであって、説明できるものではないのだと思う。
私もスタバよりはレトロな古くさい喫茶店のほうが好きだ。カフェという呼び名さえ似合わないような。
なぜ好きなのかと問われたら、なんとなく落ち着くからとしか答えられない。
スタバの長ったらしい名前にはモゾモゾしてしまう(これはあくまで私個人がってだけで、私もたまには使うし美味しく頂くこともあります)

建物もそう、綺麗な近代化され便利のよい場所よりも、柱の細工の細かさや芸術性にうっとりとする質なのだ。
関係ないけど、心斎橋の大丸が合理化に負けたときにはそりゃあガッカリした。

こういう趣味嗜好、性癖に近いようなものってのは、他人に理解されようがされまいが治らない。

しかし、世の中の総意というものは近代化と便利さの追及が大きい。
もちろん、耐震工事とかバリアフリー構造とか、必要不可欠な設備の充実は大事だから、新しくなること全てが悪いことではないと思うんだけど。

時々、過去の知恵と総意工夫を蔑ろにしすぎじゃないかって思うことがある。
特に古い建物とか簡単に壊されるけど、そこにある芸術性は利便性には負けるのかなと悲しくなることもある。

ハリーのような思考的マイノリティは変人として扱われて終わるのだろう。

ブライアンは命を助けることが仕事だから、ハリーの内面に近づこうとする。理解しようと試みるし、私はブライアンも世の中の合理性には腹にいちもつがある人物なんじゃないかと思った。
しかし、ブライアンはあまりにも現実主義者だ。おそらく、過去の助けられなかった命が彼をそうさせたのだと思う。
全うな生活こそが大事だと。

ブライアンは犯人の説得係りを好きでやっていたのではないかなぁ、仕事だからと割りきる冷たさのようなものを千葉ブライアンには最初感じてしまった。
時間を追うにつれて、本当にハリーを助けたい気持ちがわき出てきたようにも思うが。

しかし、ブライアンは失態をおかしてしまう。
言っちゃいけないことを言っちゃうのだ。迂闊だよなぁ…。悪気がないから余計に質が悪い。
「こんなつまらないことで命を落としてほしくない」とか、「全うな生活は家庭の中にある」とか。
(暖かい家庭はハリーにとって求めても得られなかったものじゃなかろうか)

言葉の地雷というものってあると思う。
一度発した言葉って引っ込められない。
しかも、たいてい発したほうはたいして気にしてないのだけど、言われたほうは傷つく。
私なんて性格悪いから、地雷踏まれたら一生お前を許さないくらいにネチネチ恨みますね(笑)

私はブライアンの迂闊な一言に、ハリーはわかり合うことを諦めちゃったなぁと思ってしまうのだ。
でも、ブライアンはいい人だったから、話を聞くふりをしてブライアンを外に出す。
ハリー、あなた根っこは良い子じゃないの!と死なせたくなくなっちゃうんだけど。

ラストの「ちくしょう、テクノロジーめ」っていう台詞、実は私にはまだどう受け取ってよいかハッキリとした答えが出ない。
あまりにも曖昧に表現されていて、どのようにも取りようがある。
ハリーがどうなったのかも曖昧だ。
でも、こういう最後の一頁が切りとられて結末が読めない本のような終わり方、嫌いじゃない。
ずっとぐるぐる考えられる。

世の中なんてハッキリとした答えがないものばかりだしね。

最初に観たときからずっと考えているのだが、どうやったらハリーを助けることが出来ただろうか。
何度考えても、私にはその方法が見つからない。実はヒントの欠片さえも見つからない。
図書館と共に死ぬしかなかったという着地点にはしたくないけど。

気高く神聖なものは個々によって違う。それは簡単に否定されたくはないものだ。
汚されたくなければ、自分で守るようにしなくてはいけないのだが、相手が大きすぎたり自分だけではどうにもできないようなことだと、どのように心の折り合いをつけるかってのも大事だ。

今、多様性という言葉が独り歩きをしている印象を私は持っているのだが、これを認め合うっていうのは、そんなに簡単にはいかないよなぁとも思っている。
両立出来ない場合のときは特に。
優しい人ほど折れるんじゃないかと、果たしてそれが正しい多様性なのかとか。

わかり合うって難しいですね。

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