ミュージカル「ゴヤ―GOYA―」とりあえず感想③

考察と感想の違い。
考察だと、ある程度本質に添う形で意見を述べなくてはならないと思う。
感想は、個人が勝手に感じたこと。
だから、私はいつも感想しか書けない。
今から書くのは、あくまで私個人の感想だ。
だから、これは正解ではない。
あなたの正解はぜひご自身の目で舞台を観て感じて欲しい。
それこそ「ご自由に!」

なぜ、今、ゴヤなのか。
上演のニュースを聴いたときから思っている。
身も蓋も無いことをいうと、出来上がったタイミングと劇場の空き具合と、現実的な事情もおありだろう。
時代というのはいつも流れていく。特に昨今はこの流れがものすごく早くなったと思っている。
今とほんの2、3年前を比べても生活様式はもちろん、世の中の価値観等もどんどん変わっていくなと思っている。

しかし、人間の本質では今も昔も変わらないなと思うことも多々ある。
時代が変わっても、結局変わらないなぁと思うことがある(往々にして悪いことのほうが多いような気もする)

ミュージカルは過去の歴史を題材にしたものが多い。これは、個人的見解ではあるけど、そうしたほうが人間の本質の変わらなさを表現しやすいからかと思っている。そのまんま現在を舞台にした演目もあるけれど、それだとちょっと直接すぎてエグい感じになっちゃうからだろうか。

美術史は少しかじってはいるのだけれど、私の悪いところは、興味の無いものはそのままスルーを決め込んで知ろうとしないところだ。
正直、この演目に推しが出ると決まってから、やっとゴヤに興味が沸いたくらいに、ゴヤの絵には興味がなかった。
10年ほど前だったか、確か国立西洋美術館でゴヤ展をやっていたように思う。
その時にやたらテレビから「スペイン最大の画家 ゴヤ!」とCMが流れていたのを覚えているが、私にとってスペインの画家と言えばピカソなもんで、そのCMに違和感を覚えていたくらいだ。

ゴヤと言えば【裸のマハ】か【黒い絵】と呼ばれる一連の作品くらいしか知らなかった。
ぶっちゃけ【黒い絵】とても苦手である。怖い、気持ち悪い、マイナスな感情しか浮かばない。
怖い絵そのものが嫌いなわけではなく、ムンクの展覧会に行ったときなんかは「おお、私は今、狂気を浴びてるぜ!」くらいに刺激を受けたのだが、【黒い絵】には何か近寄りたくないものを感じてしまう。
あとゴヤが描いた自画像が好きじゃなくて、そこからふてぶてしさを感じて、ずっと"偏屈なじじい"と思っていた(笑)
先にも書いたけど、この印象を今井翼さんが見事に覆してくれたけど。

舞台を観るに当たって「わぁい楽しい♪」と純粋に楽しむだけでもいいと思うのだが、これもまた私の悪い癖で「舞台を観ることで"あえて"複雑に思考を張り巡らす」ことに重点を置きがち。
要するにめんどくさい客なのかもしれない(苦笑)
この作品は何を訴えたいのかという答え探し。
まぁ、でも、類友なのか観劇友達にはそういう人多いよね(…だよね?!)

遠回りをしたが、なぜ、今、ゴヤなのか。

コロナ禍においても私はそれなりのペースで観劇は続けている。それは単純に好きだから。
しかし、世相は私自身にも影響を与える。コロナ禍で観るから、こういう風に捉えてしまうのか、平々凡々な日常のなか観たら全く違う感想を持つかもしれない。
でも、今は変えられないからね。

ゴヤの初日を見終わってから、まず思ったのが「芸術の存在価値」についてだった。
「私は見る、私は描く」このシンプルな歌詞を聴いて、芸術家という方々は己の欲求に忠実に表現を残すだけだと思うのだけど、一年前のコロナ禍が始まった時からずっと私の中には「混乱の中での芸術の存在価値」について、考えさせられることが多いのだ。
正直、芸術ではお腹いっぱいにはならない。
コロナ禍ではまだそれほど死が隣にいるわけではない(こういう感覚が感染が減らない理由なんでしょうけど)
ゴヤの時代は混乱に混乱を重ねた時代だ。理由は戦争だけでなく、戦争からくる飢えなども人を死に至らしめる時代であっただろう。
マドリードだけで二万人の人が死んだと劇中で言っているが、この二万人という数、当時の人口から考えてかなりの比率だったのではないかと推測する。

前方席で観たときににとても印象に残ったシーンがあった。
ゴヤの親友サパテールが死ぬシーンなのだが、武器を持った男たちに囲まれて、赤ちゃんを抱いた女性が真ん中にいる場面だ。
武器といっても、そんな立派なモノではない。
もちろん、サパテールもろとも皆爆風に吹っ飛ばされて死んでしまう、赤子にも容赦ない。

私はこのシーンを観たときに、ゴヤが晩年なぜ黒い絵を描いたのかという理由に繋がるものを、少し感じ取れた気がする。
まだ思考の途中なので、明確にこうだとは言い切れないのだが、符に落ちる感覚が降りてきた。

見えてしまう、という苦悩だ。

ここから先は個人的な超曲解も含まれているので、こういう風にとらえる人もいるんだなぁという温い目で読んでいただきたい。

見えてしまうというのは、現実から目を背けられないってことだと思う。
世の中には目を背けたくなることは山のようにあるし、見なかったことにして考えずに生きて行くほうが賢いし楽かもしれないと思うときもある。
特にここ一年間、見えてるはずなのに見えないふりをする"偉い人"たちの存在にイライラすることも多い。あるいは、ここまで見えないことに出来るのもある種の才能なのだろうか。
見ないということは考えないということにも繋がる。考えないことは楽だ。

ゴヤにも主席宮廷画家として、お金になる絵だけを描いていればいい選択もあったと思う。
その場合、長生きできてなかったかもしれないけど。

舞台における実在の人物は、史実に忠実な部分とフィクションである部分の絶妙さが重要だと思うが、翼くんが作り上げたゴヤには、真っ直ぐさをものすごく感じる。こういう人だったかもしれないなぁと思わせる部分がある。
翼ゴヤさんは、ズルいことができない人に思えるんですよね。
これは超憶測だけど、耳が聴こえないゴヤは戦争にでても戦うにはハンデがあり、じゃあ彼の出来ることといったら、真実を描き残すことだったのかもなと思うわけです。
真実というのは、目に見えるものだけじゃない。見えないものの中にも真実があり、それを見る力が聴力を失った代わりに増幅したのかもしれない。
しかし、見えないものの中にある真実には、見ないほうがよいこともたくさんありそうな気がして、そういう目を背けたいことに真っ直ぐ向き合うってのはきついなぁ、なんて感じたりしたわけです。
しかも、当時としては驚異なほど長生き。

さらに、聴力がないということは、他人とのコミュニケーションも取りづらいと思うので、様々なものを見たときに、自己対話をかなりするんじゃないかとも思うのです。

人間の醜さ、世の中の不条理を敏感に感じてしまう人が、自分の中だけでその思考をぐるぐると回らせる時に、黒い感情がたまりきり、吐き出すものとして描いたのが一連の黒い絵となって表れたのかもなぁ、などと考えてみました。
しかも、その黒い感情はゴヤの中から生まれたものではなく、外から受けた刺激が溜まったものだとしたら、うわぁしんどいわ…って気分になったんですよねぇ。

2幕最後の方に、版画集「戦争の惨禍」のシーンがありますが、あそこの演出すごく好きで、アンサンブルさんが黒い感情のかたまり(に見える)となってゴヤに覆い被さっていくのが、不気味で怖い。
でも、そこで描くことから逃げないゴヤのバイタリティーってすごいなと思う。

今もこの混乱の中で、見ないふりをしたいことは山ほどある。
でも、逃げているだけじゃなにも変わらないんですよね。
まずは目の前のことをきちんと見る、きちんと向き合うって大事。

ゴヤが当時の世相を後世に残した絵と同じように、コロナ禍で生まれたこの新しいミュージカルが、今後脈々と引き継がれていくことを祈りつつ、とりあえずの感想おしまい。

次、観に行くのは少し間が空いてしまうので、更なる深化が楽しみだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?