逗子のパーティーにいった日・2

活動をお休みしている2018年中にも事情を知ったうえでライブイベントに誘ってもらう印象的な機会が何度かあり、そのうちのひとつで六月に北浦和に演奏をしに行ったことがあった。居酒屋と店名にはあっても、店主の方自身もミュージシャンであり、地元の貴重な文化の発信地として大いに機能しているのらしいそのお店での、butajiさんとの光栄な共演の機会を作ってくれたのが、物書き志望でもあるイベンターのKさん。知らない土地で、知らなかったコミュニティがあり、そこに息づいている空気に触れさせてもらうことができるのはミュージシャンのひとつの特権だと思っているけれど、積極的な活動をしていない期間にもそんな思いを味わわせてもらえる贅沢な身分を改めて見つめなおしたくなる日でした。より巨大な無力感が数日後にはいつも通り全身を支配しているのでもあったけれども…

この日の企画者のKさんとは、事前に一度ライブハウスに挨拶に来てくれたのを除けばその日が初対面であり、おれとKさんの間を取り持ってくれたのは絵描きのNさん。身を削って絵を描きながら、その表現の中にわかりやすい痛ましさを入り込ませない高潔さのあるNさんとは、折に触れて会えば苦労話を交換したり、今から振り返れば活動のかなり初期の頃からの長い付き合い。2008年にマネージャーYさんが繋がりを作ってくれた人だけれど、シンガーとしてもひとりの自分より年長の人としてもおれが特別慕っていると自覚するシンガーであるゆーきゃんが、京都から故郷の富山に居を移して、おれを金沢でのイベントに呼んでくれた時にも、そこでNさんがライブペインティングをしていた。小学校を卒業して以来に会う友達も観に来てくれていたその日のイベントの会場(そこはおれが生まれて初めて人からギターを教わった教室に場所を提供していた店でもあった)にNさんがいることを、しかし不思議ともなんとも感じない自然さがあった。この日の埼玉でのイベントにも近くはない場所から駆けつけてくれたNさんも交えて、おれにしては珍しく遅い時間まで話し込んだ。

2018年、盛り上がりから何周も遅れて参加したInstagramでおれが執拗に缶コーヒーの写真だけをアップし続けているところへ、いつか糖分摂取についての話で盛り上がった記憶を掠めつつNさんらしいリアクションとしておすすめの甘い缶コーヒーをコメントに挙げていてくれたのだけれど、なかなか出会うことのなかったその缶コーヒーが、逗子に向かう道でトンネルを抜けた先の自販機にあるのを見つけた。順調に歩いたらしくパーティーの時刻にはまだ余裕があったので、おすすめの缶コーヒーを飲んだ報告をInstagramに上げるべくそれを買って道端で飲んだ。山を越えて下りに変わっている道の向こうが夕焼け色になっていくのがきれいで、その時間に1日が終わるのではなくこれからパーティーに行くとういう高揚が大きくなった。

海沿いの道(そこにはもちろんしばしばトンネルがある)を一人で歩いた記憶として真っ先に浮かんでくるのは10年近く前に初めて仙台に呼んでもらったときのこと。その前年の年末に高円寺のライブハウスで仙台のバンドとのツーマンをやり、そのバンドが翌年夏に反対におれを仙台に招待してくれたという形。夜行バスで東京から仙台に向かい、当然早朝に着く。その日は夜に仙台の友人たちと合流する予定だったのでやることもなく、ともかく海を見に行こうと、景勝地として聞いたことがある名前の海岸まで行ったのだけれど、不案内と無計画のせいで大荷物のまま歩道のない国道脇の白線外を三時間歩くことになった。車だけがすぐ横をずっと行き交い、歩行者とすれ違うことはなかった。立ち寄って休めるような場所もほぼなく、海沿いをただひたすら歩いた。道路脇の電光掲示板に表示されていた温度が38°だった記憶がある。とにかく旅先で時間を潰すのがうまくない自覚はあるけれど(札幌に4日滞在して、ライブ以外の時間をずっとホテルにこもっていたこともある)、失敗だったと思う日のことほど印象に残っているのも、不思議なもので事実。

その時おれを仙台に呼んでくれてからメンバー一人一人が大切な友達になった金色というバンドの、その日はドラムのIさんの家に滞在させてもらった。家といっても東北大学の有名な八木山寮、外見は廃墟群で中の散らかり具合はそれ以上、というパワースポットだった。その時の様子からも当然のように感じるけれども、八木山寮はそれから数年後、地震の影響で利用できなくなったそう。地震の前だったと思うけれど、Iさんは院を出て東京の、しかも当時のおれの家のすぐ近所に越してきた。彼の結婚披露宴で歌うこともさせてもらったし(その日奇しくもおれはダブルブッキングで、マネージャーYさんの結婚パーティーでも歌った)、娘が生まれた時には歌を作って贈るということをさせてもらった。そういえば去年にはうちで彼の一家と正月をやった。

地震のあった2011年、ボランティアではなくただ友達の顔を見に四月に仙台に行った。金色のボーカリストだったMさんと商店街で合流して、広瀬川沿いを夕方まで歩き続けた。その日も夜行バスで行って、Mさんと合流したのは朝のうちだったので、何時間歩き続けたのかはちょっと、信じられないくらいだったと思う。よく眠れなかった夜行バス明けの、楽器こそなかったけれど旅行の荷物を持ったままだったので、初めて仙台に行って猛暑の海沿いを歩き続けた時以上に疲れた記憶がある。Mさんはいかにも華奢な人なのに、川沿いの木々の間を歩いている限り何年間でも立ち止まらずにずんずん進んでいきそうに感じた。当時の東京から東北に出かけてきている身として、夜行バスで疲れているから歩くのをやめてお店にでも入ろうという提案もなんとなくしづらいままでいた。東京を出る前に、何か必要なものはあるかと訊いたのに対してのMさんの答えはオーガニックの紅茶、という意地悪なものだった。その日Mさんが言ったことの中で印象的だったのが「自分の家の水道から水は問題なく出たけれど、これを止めることで他のもっとひどい状況の人の家の水道から水が出ることをはっきり感じた」という言葉。Mさんは素直に受け取りやすい道徳的なことを基本的に言わない人だったし、その言葉についても、それが嬉しかったのか悲しかったのかわからなかった、おそらく何も言わなかったのだと思う。今ではそれをはっきりと覚えていないことが心の底から悔しい。東京に帰ってからも、それから何年経っても、気楽な話の中で節電を馬鹿馬鹿しいものと言ってしまう人に出会うといつも、この時のMさんとの会話を思い出した。

夕方、Mさんと別れて、その日泊めてもらう約束をしていた金色のベースのSさんと合流した。泊めてもらうといってもSさん自身の家は電気水道全部が使えないままだったたらしく(そのあと何ヶ月もたって結局そのまま取り壊しが決まったのだったと思う)、Sさんの職場の事務所にお邪魔した。今からしてみれば本当に若気の至りという他ない迷惑行為だけれども、その頃の青葉区内では、東京では全てがオフになっていたコンビニのトイレの温便座の電源が入っていたりと、多少なりと安心する材料はあったのでもある。そのコンビニを一歩外に出ればアスファルトに大きな亀裂が入っているわけだけれど。事務所に落ち着いて二度ほど大きめの余震に揺られたりしつつ、おれが行きたいと言った荒浜までの徒歩行に、Sさんは付き合ってくれることになった。歩いて3時間、夜中に出発してちょうど空が青くなりだす頃に海岸に着いた。海岸にたどり着くまでの瓦礫が積まれた真っ暗闇(市街地を出れば電気はなく、海から3キロ以内の街灯はそもそもまともに立っているものがなかった)、ゴミの一切ない信じられないほどきれいになった砂浜、明るくなってから来た道を振り返った時の景色、どれもがニュース報道で見た状況が全く大げさでないことを教えていて、描写するのも憚られるものだった。不眠不休でひたすら歩き続けたこの四月のはじめの仙台での一日の記憶はそれ以降何年も、何をするときも様々な角度から影を落として考え方に影響を受けることになっていたと思う。

金色のメンバーがその後に始めたバンドや、おれも紹介してもらい仲良くなっていったコミュニティの人たちが、地震とその後の困難を乗り越えていく様子を陰ながら覗かせてもらうのを、不謹慎かもしれないが楽しく感じていたのは、被災者と括られるべき人の立場と東京で懺悔に暮れる立場のそれぞれは一切関係なく、ひとえにおれが関わっていた仙台の人たちの人柄の楽しさによるものだった。

何度めかに仙台に、今とは半分以上メンバーの違うバンド編成でライブをしにいった時に会ったMさんに言われたことだったと思うけれど、「ひらくくんの歌の、よく言われると思うけど生まれ持った声の良さということよりも、その声の中にある、一人で立っている感じ、というのはきっとみんなに伝わっているよ」という言葉が、自分の歌に対しての評価としてもらった言葉で一番あたたかいものだったと思う。

2014年の夏にゆーきゃんが、Mさんが当時やっていたumiumaというバンドと一緒に仙台でイベントをやるらしいというのを聞いて、自分に特別繋がりのある人同士が、自分のいないところで互いに関わっているのを嬉しく思っていたら、そのイベントの前日にMさんは恋人のYくんと一緒に亡くなっていた。おれは札幌で訃報を受けて、その日のライブの出演前の楽屋の風景が記憶に妙なこびりつき方をしている。

それからちょうど2年後に、たまたまMさんの命日に仙台にライブのため行っていたおれが書いた当時のブログ。ゆーきゃんに連絡を取ろうとしてやめたとか、Sさんとお茶をしたことなんかを書いている。
http://hirakuyoshimura.hateblo.jp/entry/2016/07/04/184719

ちょうど今この文章を書いている前日、絵描きのNさんのInstagramの中で、埼玉のイベンターKさんがおれの曲を歌っている映像を見た。その映像の曲と続けて歌ったらしいのが、今自分では聞きたいとも思わない(書いたすぐ後から、この曲は歌うのが辛くなるだろうけれど、その気持ちを味わうために歌い続けよう、と思っていたことを覚えている)曲だけれど、おれが地震のほんの数日後に、初めて仙台にいって38度の道路を歩き続けた日のことを思い出しながら書いた曲だった。東北出身の人にも、東京の人にも、たくさんの人に褒めてもらうことのあった曲だけれど、今おれが自分で歌うのに強い思い切りがまだ(というべきなのかこれから増していくものなのかわからないけれど)必要になると感じるのは、2011年の4月になぜかオーガニックの紅茶を欲しがったMさんのことを思い出すからなのかもしれないと思った。というよりも、これから新しいMさんのおれへの批評を聞くことはもうできないのだ。Mさんから見て気持ちのよくない方向へこれからおれが変わっていったとしても、その違和感を迷わず口に出してくれるMさんがもういない状況である。その事実を心許なく思う。それでもこうしておれの書いた曲が他の人の口から歌われることがあり、おれがいなくともその場にいる人に聞こえる。ゆーきゃんの言うように、自分の歌に後から頭を殴られるような、そんなこともこれからまだまだ起こる可能性があるんだろうなと思う。そんな仕事を幸せな仕事と思うか、そんなことはなんにもなりゃしないと思うか、それはまだわからないし、これからもはっきりした答えの出ることではないのだと思う。

もっとまっすぐに自分の作ってきた音楽から強い重力(引力なのか反発なのかそれはわからないけれど)を受けた経験の記憶も、仙台でのライブに直接繋がるものとしてある。これは今回の記事のはじめの方に書いた金沢でのライブと同じツアーのなかでのこと、2015年の10月(えらく寒くて、仙台駅前のユニクロで羽織るものを買った。岸田さんは確か風邪を引いていて、車には同乗せず別便で来てくれた)に、Sさんや、金色のギタリストでもあったOさんも在籍するバンド、kokyuにお願いをして仙台でのイベントを組んでもらった。そのときはよしむらバンドの構成員はそれなりに入れ替わっていて、つまり金色と直接関わったことのないメンバーもいたはずだけれど、開場前にkokyuのメンバーがしてくれた、震災当時に高級な肉が大量に冷凍庫に入っていたが溶けてしまうので急いでステーキを食べたという話で泣くほど笑った。その日にSさんが「よしむらひらくと会わせたいし、対バンしたいといってるバンドがある」といって推してくれ、イベントの一番手に出てくれたバンド、sleepersのNくんが曲間にみんなの前で話してくれたこと。震災から四年が経って、ライブの最中に震災当時の出来事に関わる話を真剣にするのはまったくクールじゃない、という空気があったと思う。勝手なおれの想像でしかないけれど、逆に震災のことに触れないという姿勢を明らかにした上でないと、震災後の仙台で音楽をやれないと言ってしまえるほどの風の流れがあったのじゃないかと思う。少なくともおれが現地で音楽をやっていたらそう信じただろうと思う。そんな中でNくんは、迷いを振り切るためなのか、誰にも向けられていないかのように、小さな子供が前もって準備してきた文章を読み上げるように、しかしこれだけははっきり口にしないと帰れないというような覚悟の表れた口調で、震災直後に避難所にも行かずひとりよしむらひらくを聞きながら時間を過ごしていた、ということを言ってくれた。おれはNくんの短いスピーチを聞きながら自分の出番前にもかかわらずボロボロと泣いた。大人になって人目も憚らずあれだけたくさんの涙が出たのは後にも先にもあの日だけだったと思う。理屈の通らない話なのだけれど、Nくんの話によって、2011年の4月にMさんに対して何か必要なものはないかと聞いてしまったことや、Sさんを海まで連れ出してしまったことや、他にも数えきれない後悔の種をまとめて、ほんの少しだけ許されたように思えた。

Nくんはその後しばらくして難聴をやって、在籍していたアンテナというバンドも脱退したとお知らせしていたのを心配に思いながら遠くから見ていたけれど、むしろ仕事で活躍している様子を続けて聞き、本当に嬉しく、羨ましいとすら感じるほど。そのようなNくんの姿が、おれが音楽活動をしない生活をしてみようと思うきっかけのひとつとしても繋がっていたのかもしれない。

Sさんと歩いていった荒浜に、2015年に仙台出身の写真家・花輪菜穂さんと一緒に行って作った映像がある。曲はその後別の録音をCELEBRATIONというアルバムに収録しているものだけれど、この時点ではタイトルがはっきりと決まっていなかった。映像の前半は地震以前に花輪さんが仙台で撮った写真集の作品から提供してもらったもので、後半に散りばめられているのが2015年に一緒に行った時に撮ったもの。おれが2011年の4月にSさんと歩いた時に撮っていた写真も入れようかと相談していたのだけど、結局それは入れなかった。
https://m.youtube.com/watch?v=wPGmgb-tYy0

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