逗子のパーティーにいった日・1

11月のはじめに、長年さまざまな形でお世話になったMさんの結婚パーティーに招待され、神奈川県の海沿いの別荘地へでかけていった。案内には会場まで逗子駅からバスで20分と書かれていたので、少し早めに家を出て逗子駅からは歩いていくつもりでいた。電車を降りたときには傘が必要なくらいの雨が降っていたけれど、一度だけ来た覚えのある逗子の駅舎を懐かしく見上げながら歩道橋の下でどうしたものかと考えているうちに雨は止んだので、モーゼの後押しじゃん、と楽しい気分で歩き出し、グーグルマップとしばらく続く商店街の景色を交互に見つつ。前に逗子に来たのは夏だった。海も山も、オフシーズンの天然観光地の街並みはとくべつ、時間がゆっくり流れているように感じる。おれが今日ここに来なかったとしても同じようにあるはずで、海そのもの、山そのもののようだなと思う。

Mさんはおれがよくライブをさせてもらっている荻窪の小さな喫茶店の店主であり、ここ数年はほとんどそのライブの日に会って長話をする、と言う関わり方が主。新婦のKさんとはおれもその店のスタッフとして知り合っていたけれど、もちろん二人の馴れ初めはもっとずっと前のよう。イニシャルで話すのはその人のことを知っている方にも、知らないで読んでいる方にも、同じようにこの文章を読んでもらうためです。とくべつ情に厚く、おれの動向を気にし続けてくれているMさんには、これまでも会うたびに強く励まされてきて、おれが曲がりなりにも音楽を長く続けられることになった支えのひとつに、このMさんの存在が確実になっている。おれが活動を止めると言い出したときのMさんの表情は本当によく覚えていて、出てこようとする言葉のどれも違う、これも違うあれも違うと飲み込み逡巡し続けている顔、何に近いかと言われると大事なことで喧嘩している時にふと口をつぐんだ恋人の表情のようであったけれど、考えてみれば、そんなMさんは言葉を扱う仕事をする人間として苦労されることがとても多いのではないかとすこし心配になってしまう性格の人だ。そういう人にしか書けないものがあるのはおれにもよくわかっているけれど、仕事として考えたときにそれが求められる場面は存外少ない、そういう類の熱情と謙虚さを持っている人だと思う。

Mさんとは、おれがまだただの生意気なガキだった頃、もう10年ほど前に共通の知人Yさんを通して、今も別の会社でMさんが本業としているメディア関係の人として出会っている。結婚パーティーで歌ってくれと声をかけられ、こちらもそれをやらせて欲しいと応えるような間柄からも明らかなように、10年の間にいちシンガーとメディアの人間とは括れない関係を育ててくることができたのにはいくつも理由があるのだけれど、そのうちの大きな一つにはおれとMさんの間にYさんが、お互いにとってとても近い存在としてあり続けたということがある。最初の出会いからして、おれの活動をフリーのマネージャーとして手伝ってくれることになったYさんが、専門学校時代の友達でいまメディアにいる人間がいるから協力を仰ぎにいこう、という流れだった(その日のことは正直に言って初めて行った街の景色とやけに綺麗なオフィスのことくらいしか覚えていないけれど、そのあと偶然に顔を合わせることが増えて、打ち上げが苦手なおれにとって数少ない、ライブハウスでじっくり話をする相手になった。その頃のことはMさん自身がよしむらひらく活動10周年の企画内で寄せてくれた文章の中に書かれてもいる)。

この結婚パーティーの準備や開催にもコアメンバーとしてYさんが関わっていると聞いていたので、Yさんに会える日としてもおれは楽しみにしていた。ミュージシャンとしての活動の最初期から、「67年のラブソング」というアルバムと関連イベントの制作までの長い期間をマネージャーとして手伝ってくれていたYさんとは、それ以降随分長いことお互いに連絡を取り合わない期間があった。このパーティーの2ヶ月前にたまたま渋谷でばったり会っていたのだけれど、そこでばったり会って立ち話で盛り上がるという偶然が無かったなら、2ヶ月後のパーティーで顔を合わせるのも不安に思ってしまっていたかもしれない。長い期間をアーティスト以上に労力をかけて支えてくれた人に対して、その活動を止めてしまっている身として顔を合わせる申し訳なさも、たまたま道でばったり会った勢いが少しだけ軽く感じさせてくれていたということでもある。もっと正確にいうならば、立場としては申し訳なさを感じなければいけないのではないかという心配にとらわれる隙が、突然にやってきた偶然によって奪われていた、ということになるかもしれない。反対に、おれとの没交渉の期間にYさんの身に起きていた苦境に次ぐ苦境というべき状況は、顔を合わせるたびにYさんの話題が必ず上がっていたMさんとの会話と、2ヶ月前の立ち話でYさん本人から聞いたこととを繋ぎ合わせて、大体のことを想像できてもいた。ともかく、元々その人柄が大好きで、年下の世間知らずの人間という立場で甘えるのが基本的な姿勢だったおれの側からすれば、Yさんと会うということに関しても無邪気に楽しみに思う気持ちだけを持ってパーティーには向かうことができたわけである。

あえて単純に整理していうのだけれど、音楽活動を一番近くで支え続けてくれた人たちのいるパーティー会場へ、その活動を自分の意思で止めている最中のミュージシャンが向かう道である。Mさん自身、パーティーでの演奏を依頼してくれたやりとりの中で、いま声をかけるのは迷いもしたけれど、と正直に書いてくれてもいた。ところがその日パーティーへ向かう道みち、自分でも不思議なくらいにやけに気分がよかった。単純化した説明から抜けて落ちているものは、やはり活動を止めてからの1年という時間だろうと思う。その間に考えてきたこと、味わった思いがこのパーティーに向かう道の気分を訳も分からないくらいの明るいものに押し上げていたのだと思う。なんとなく、いい予感のする答え合わせに向かう、というような気分だった。 この気分の、根拠と言えそうなものはこの文章のなかで字数を割いても伝えられるとも思わないので、触れるだけ無責任になってしまうのだろうが。

海の近くや山道を歩いているとだいたい、歩行者のほとんどいないトンネルの中を歩くことになる。この時も雨上がりの商店街を抜け住宅街を抜けていった道の中盤に長いトンネルがあった。すぐ傍を通り抜けていく車のスピードを(おそらく実際よりも)速いものに感じてできるだけ離れようと反対側に寄ると、壁や、排水溝は湿っていて汚い。トンネルにまつわる思い出は必ずそんな恐怖や汚さと近いはずなのに、どれもなんだか好いものだった気がする。黒澤明監督の夢という作品を思い出しもする。

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