2024夏一首評09

行進はたぶんそれなりにできる子どもの僕がやったのだから
/川村有史『ブンバップ』

 たしかに「行進」って「それなりにできる」よな……と思いました。
「自分、行進めっちゃできるんスよ」って言うひとっていないっていうか、そもそも一人でやるものではないんで、そういう意味でも留保なしに「できる」ってならない気がします。
 一方で、とりあえず、小学校とかのいわゆる義務教育の体育のカリキュラムでやる範囲の「行進」を想定するなら、個人の動き自体はそんなに難しくないし、「できない」とも別に思わない気がする(もちろん身体の状況次第で「できない」こともあるんだけど)。
 そういう、「行進」の「それなりにできる」感覚の提示に、思ったことないけどそうだよな、っていうタイプの共感を呼ぶ力があると思いました。「たぶん」っていう更なる留保を入れるのも、わかる。

 という感じで「行進はたぶんそれなりにできる」を僕は捉えたわけですが、これはこの歌の語る「子どもの僕がやったのだから」という根拠とはちょっとずれてますね。歌自体は、あえて言えば「できる」の部分にフォーカスして語っていて「たぶんそれなりに」という留保の部分については脇に置いているように見えます。いや、もちろんそこも含めてではあるんでしょうけど、フォーカスという意味ではやはり「できる」が主でしょう。
 そう……見えるとどうなのかというと、この「たぶんそれなりに」が、ものすごくナチュラルに見えてくる、と思ったんですね。さっき僕が言ったような思考を経て留保を入れたんじゃなくて、無意識にこの言葉を「できる」の前に挟んでいるような感じになっていると思うんです。
 短歌、ってだいたいは意識的に詠まれてる(ものだと思って読んでる)んで、短歌読んでて「これ無意識なんじゃないか」と思えるとうれしい、っていうのはありますよね。読者のそれまで含めてのものなのかもしれないけれど、少なくとも自分にはそう見えるし、そう見えたことのうれしさが揺るがない。

「子どもの僕がやったのだから」今の自分でもできるだろう、ってそもそもけっこう怪しくて、だから留保が入るのはすごくわかる。
 ……みたいな、わかる、がいっぱいあるからなんか目につきにくくなってるけど、そもそもなんで「行進」を「できる/できない」みたいなこと言い出してるんでしょうね。っていう【へん】が歌全体に張り付いてる感じがおもしろい歌なんだよなー、と思います。

きのう立ち読みした音楽誌で知った史実話して忘れたさっき

煙草吸わない僕が銘柄に詳しくなるみたいなの良くなかったのか

エアガンをみんなあんなに撃っていたエアガンどこへ仕舞ったのかな
/川村有史『ブンバップ』


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