2024夏一首評02
この歌のうれしさを言うのって、なんか、簡単だけど難しいな……って思ってます。
とりあえず、共感っていうか、たしかにこの感じ思ったことあるなっていうのはありますよね。ただスマホ見て遊んでるだけと違うんですよっていう自意識。どっちでもいいんですけどね、周りからしたら。短歌作ってるのが遊びじゃないっていうのも実際言い切れないし。
まあとにかく「ただスマホを見てるんじゃない」ですよっていう自意識が、たとえば電車とかに乗っててスマホのメモ帳なんかで短歌つくってるときに、たしかに芽生えてる感覚はあって、それがさらっと言葉にされてることがまっすぐにうれしいですよね。
「私たち」……。「私たち」ですよね、この歌の【やってる】ところ。(掲載ネットプリントの構成上、シナモン歌会のこの三人のっていう読み方があるのは前提として)読者も「私たち」に入れちゃう感じ。
とりあえずここでは「短歌をつくってる」ですけど、そうじゃなくてもいいんですよね。スマホっていう個人的な空間の、基本的にブラックボックスなんだけど外部からちょっとだけ覗かれてしまうこともあるその場所での、営み。ほんとに色々できるんで。「ただスマホを見てるんじゃない」っていう言葉が、そのつもりがこのひとにはないと思うんだけど、ある種の世代的な(?)代弁になってるところがある。
この歌からこういうことを言うのは簡単で、だけどなんとなくそれを言い倦ねてしまう感覚があったんですよね。それはなんでだろうって考えると、たぶんその前提となっている自意識の部分を認めることにちょっとだけ抵抗があるからだと思うんですね。最初の話に戻るけど、短歌つくるのが「ただスマホを見てる」のとほんとに違うのかっていう問いもあるし。だから、この歌の言葉にうれしくなる気持ちはまずあるとしても、それを順にしてうれしがる前に、ちょっと倦ねてしまうんだと思います。
でも一方で、だからこそ、この歌がそういうところをぶち抜いてこう言ってる、ことのうれしさを感受できる、ということもわかる。自分の言い倦ねていることを言っているひとは、かっこいい。
「つくってるの」という語尾、含めて、しゃんとしてるなー、と思う。背筋が伸びてる。その肩越しに見える最上川が、象徴みたいだ。
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