「 ゆえ 」

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
/橋爪志保『地上絵』
(書肆侃侃房、2021.04.07)

って、「大丈夫」の歌でも「地上絵」の歌でもなく、「 ゆえ 」の歌なんじゃないか……と思い始めてからしばらく経つ。英語と日本語混ざってるし、文法なんか間違ってそうだし、急に出てくる「地上絵」が意味わかんないし……な、なかで、単体のパーツとして一番【ふつうじゃない】のは「ゆえ」だと思う。
 言います? 「ゆえ」。友達と喋ってるときとかに、出てこなくないですか。【証明】の語彙じゃないですか、これ。

 と思ってから、急に上下(あるいは左右)の一字空けがやたら広く見え はじめる。「I am a 大丈夫」まで半角スペースで進んできてて、ここは全角で、また「You are a 大丈夫 too」が半角で、なわけで、そりゃ広く見える、のはそう、なんだけど。
 なんだけど、迷いの時間、みたいにも見えてくる。「I am a 大丈夫」は流れるように出てくる。後。【このひと】は何を言えばいいのかわからなかった、んじゃないだろうか。だからこそ「 ゆえ 」なんじゃないだろうか。
 英語と日本語が混ざっていて、【これ】をどう伝えたらいいのかわからなくなった【このひと】の語彙は、普段遣いのそれじゃなくなる。

 使用する言語の異なる者に意思を伝えようとするとき、ひとはちょっと変になったりする、と思う。母語だけで意志疎通できる場合には絶対にやらない語彙やジェスチャーがその場に紛れ込んでくる。
 自分の人生にも覚えがあるそういうの、をこの歌は容易に想起させてくる。「大丈夫」をどう言い換えればいいのかわからない。だから、そのまま言っちゃって、伝わるのを信じる。その感じ。伝わってるのか不安でジェスチャーを交えたりする。「ジェスチャー」は、この歌における「地上絵」にあたるのだと思う。

「地上絵」のでかさは、意味の分からなさは、そのまま【このひと】の不安の裏返しであるように、見える。言葉だけで伝えられるのなら、それは、要らない、でしょう。「I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too」では伝わってないと思うから、またしてもの一字空けを、迷いの時間を、挟んで、「地上絵あげる」を、やらなくちゃならない。このひとは。

 このひとは、伝えたい、んだと思う。なにをいまさら、という感じだけど、でもこの歌ってそうでしょう。言語の異なる者、は一例でしかなくて。伝えようとすることそのもの、その試み、営為、意志、の、歌でしょう。「大丈夫」も「地上絵」も、そういう意味では代替可能な語彙に僕には見える。必然性や意味がないと言ってるわけじゃない。ただ、核ではない、と思う。

「 ゆえ 」じゃないか。言葉が詰まる。何を言えばいいのかわからなくなる。その時間と、経て、絞り出されるふつうじゃない語彙、が、この歌の、伝えようとすること、の核となっている、んだと思う。


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 伝えようとする、ひと。の、言葉が整然としている【はずもない】んじゃないか、とさえ思うことがある。伝えようとしているそれ、が、「言葉」そのものじゃないんだとしたら。

無駄になっても仕方ないと思ったです
でも会えたらと思ってそしたらいいなって
あの日からこんなになりました無駄にしなくて茄子が

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黒田硫黄『茄子』①、P99
(講談社、アフタヌーンKC、2001.07.23初版)

 また会えたらと願うこと、自分の育てた茄子を食べてほしいこと。を伝える言葉はどこか歪んでいて、だけど、だから、伝わる。
 彼は「茄子」を「あげる」ことで、それを伝え終える。

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