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ナイスネイチャというウマ娘のあきらめたがりの性格と、あきらめの悪い性格について。

 人は、”もしも”の夢を見る。
 もしも、自分に才能があったのなら。もしも、あの時あの事をしていたのなら。そのもしもが本当であったとすると、それはきっと、当人にとって嬉しいことなのだろう。

 ただ、”もしも”の話をするならば、さらなる”もしも”が付随する。

 たとえ自分に才能があったとしても、その分野のトップには遠く及ばないと卑下してしまうのかもしれない。どんなにやりたいと思っていても、自分より上と思う存在によって強く表明出来ないかもしれない。ナイスネイチャはきっと、そんなウマ娘なんだろうと思う。

 彼女の幼少期は描写されていることがほぼ無いため、もともとはどのような子だったのか、シニカルな性格はいつからなのかはわからない。実際のナイスネイチャ号を踏まえるとするなら、「母であるウラカワミユキが群れの絶対的なボスだったために、気が大きくなってしまっている」という話から、故郷を離れ、トレセンでレースを始めてから明確に変わっていったのかもしれない。
 「自分は才能がある」と思っている人が勝ちたくても勝ちきれない中、世代間を超えたトップ中のトップの才能を持っている”キラキラした”子を見た時、当人はどう思うのだろうか。

幼少期のナイスネイチャは痩せっぽちな馬だったが、ウラカワミユキが群れの絶対的なボスだったため、その母について歩く自分も強いと勘違いしているような仔馬だったという。

日本中央競馬会『優駿2023.9』39頁

 自分を客観的に見て、無難な道を選ぶ。これは一つの正解だと思う。夢を持った人がその夢を叶えることは素晴らしいことだが、その道を行ける人はほんの一握りだ。敗者は勝者よりも多いから、敗者にならないよう道を選ぶ。たとえ敗者になっても深い傷がつかないよう、自分の身を守る。端的にいえば、本当に「かなわない」と思うのなら諦めてしまうのが一番利口なのだと思う。

 「世の中にはもっと困っている人がいるのだから、こんなことでくよくよしないで」
 悩んでいる最中、赤の他人にこう言われて素直に納得する人はそう多くないだろう。だが、G1を勝ってないウマ娘の話をしていると似たようなことを言う人がいる。重賞を勝っているだけで、G1に出れるだけで選ばれし者なのだから、悩むことでは無いだろう、と。善戦はしているのだから、そこで満足していた方がいいよ、と。


 だが、これは本人の問題だ。彼女からすれば、逃げるのが、保険をかけるのが利口なのはわかっている。自分には才能など無いことなど自分がよく知っている。しかし、他ならない自分がその逃げに徹しきれない。口では「アタシには無理ですから」と自分の感情に蓋をするものの、彼女はその感情を完全には閉じられなかった。「勝ちたい」という想いは、「キラキラしたい」という夢は、どうしても諦めることが出来なかった。G1を勝ちたいと思う自分のために、応援してくれるみんなのために。彼女は一見器用なようでいて、実際はとても不器用なウマ娘だった。

 ナイスネイチャというウマ娘の育成シナリオにおいて、彼女がG1に勝利するためには「保険をかけずに夢を掲げる勇気」が必要だった。その自信を、その根拠をもつためには、彼女だけでできることはなんだろうか。

 それはおそらく、「G1で勝つこと、キラキラしたライバルとのレースで1着になること」なのだと思う。
 G1で勝つためには、G1で勝って自信を得なければならない。しかしながらそんな論理は破綻している。しかも、彼女は本気で走って負けてしまったらと考えると、走るのが怖くなってしまう程のウマ娘である。彼女は彼女の力だけでは本気で走ることができないくらい、考えが袋小路に入ってしまっていることが伺える。

 だから、ナイスネイチャというウマ娘がG1を勝つ話には、ウマ娘のトレーナーが必要不可欠だった。自分を強く信じつづけている人の自信が、言葉だけではない証が必要だった。
 育成シナリオにおいて、トレーナーは折り紙で作ったヘロヘロのトロフィーをナイスネイチャに渡している。傍から見れば、不器用で、不格好で、何の得にもなりはしないはずのただの紙切れ。しかしそれは、ナイスネイチャにとってはかけがえのない宝物に、保険のいらない勇気になりうるものだった。
 自分の背中を押してくれる何かが必要な彼女は、誰よりも客観的に自分を見れるウマ娘のようでいて、誰よりもわがままなウマ娘なのかもしれない。

 以下、恐縮だが自分の話をする。

 自分はそんなわがままなウマ娘が好きだ。
 彼女を取り巻くウマ娘や商店街の人たちも好きだし、 彼女のトレーナーも好きだ。
 面倒くさくて仕方がないナイスネイチャというウマ娘が、とても好きだ。


 人は、”もしも”の夢を見る。
 もしも、ナイスネイチャ号という馬が生涯怪我もなく無事に走れていたのなら。相手が、コースが、天候が、この世の何かが違っていたのなら。
 ……もしも、ナイスネイチャ号がG1を勝っていたのなら。

 ”もしも”の話をするならば、さらなる”もしも”が付随する。

 ナイスネイチャ号の実績が変わってG1を勝てているようなら、ウマ娘のキャラクターも別のものになっていただろう。自分の受け取り方もかなり変わっていただろう。

 その時、自分はナイスネイチャという存在をここまで好きになっていなかったと思う。存命中に眺めたり触れ合ったりすることなんて、お墓に手を合わせることなんて、毎月30日は少し気持ちが落ち込むことなんて、「絶対になかった」と断言する。ナイスネイチャというウマ娘がきっかけで不格好なSSを書きはじめることも、いびつな絵を描きはじめることもありえなかった。
 よって、過去の記録を眺めながら頭をよぎる、「ナイスネイチャ号にG1を勝ってほしかった」という自分勝手な想いは、自分勝手な袋小路に突入することになる。

 だから、この世界で自分がひとえに願えるのは2つだけ。
 ナイスネイチャという馬がずっと安らかな眠りでありますように。
 ナイスネイチャというウマ娘が、これからも幸せでありますように。

 ナイスネイチャに会わせてくれた、ウマ娘 プリティーダービーというコンテンツに最大限の感謝を。


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