2001年U町

【解題】
イニシャルトークですが、精神医療業界を少し知っている人なら実名は大体予想できるかと思います。
あまり感じのよくない文章ですが、これを書いたのは理由があります。U病院にいたM氏の息子さんが責任者の施設「べてぶくろ」で性被害事件がありました。その被害当事者と関わる機会がありましたが、そのときに自己紹介の意味で、僕とべてるの関わりについて書いたこの文章をお見せしました。
信田さよ子さんと伊藤絵美さんが被害当事者を支援する文章を公表しました。伊藤さんの文章に感動してtwitter(当時)でDMを送り、この文章をお見せした記憶があります。
この事件で批判されたM氏親子は、そんなことなどなかったかのように、全国で講演したり雑誌に文章を書いたりしています。支援者としてそれでいいのか、と思いますが、ハラスメントに寛容な日本社会を象徴しているようにも思います。



世紀の変わり目、2000年から2001年は私にとっても変わり目だった。

2000年秋に私は北海道のU病院に赴任した。当時の精神科部長、K氏に誘われたのだ。

K氏は当時A新聞に勤めていたO氏経由で私のことを知り、是非U病院に、と声をかけてきた。

その頃の私は東京のY病院を辞めたところで、精神医療に絶望していた。Y病院は精神医療の反主流派「赤レンガ系」の病院だったが、急性期の人を機械的に身体拘束して抗精神病薬を点滴するような医療をやっていて、それで死者が出ても平気。入院患者の処方は軒並み多剤大量、当時の院長のMにそのことを指摘しても「こんな町中で開放病棟でやるにはこのくらいの薬が必要なんだよ。」と驚きの答え。

そこを自己最短の6ヶ月で辞めた私にとって、「Bの家」で有名なU日赤病院からのオファーは正直うれしかった。

これでようやく、病院や他の医師との軋轢なしに、自分の診療に集中できる、と思ったのだ。

U病院に行って驚いたのは入院患者の多さだった。地方の一般病院精神科にも関わらず(自分の記憶が間違っていなければ)100床以上の病棟があった。

そして精神科部長のK氏はほとんど病棟に来ない。週1回の看護師を引き連れた回診に来るぐらいだ。それをカバーしていたのは若い女性医師だったが、K氏は彼女を評価していなかった。不満を持っていた病棟師長は、それを言っても口のうまいK氏にかわされてしまうことをこぼしていた。

赴任して私はK氏の患者の多くを引き継いだのだが、中には何と、7年間カルテ記載のない患者さんもいた。

その患者さんは北海道の他の地区から来た人だった。家族がBの家に期待して連れて来たのだ。しかしその人は一匹狼タイプでBには馴染まない。数カ月後には地域で暮らす計画は立ち消えたようで、以後病院で放置されたような状態になった。

他にも東京から家族に連れられてきて長期入院になった人もいた。彼らは、U病院に来ることで地元ではあったであろう、家族や知人とのつながりを失い、Bに馴染まないため新たなつながりも作れず、長期入院患者となってしまっていた。

これは精神障害者の社会的隔離・排除の極端な形かもしれない、と思った。

K氏は病棟に来ず、相方のPSWのM氏も病院の仕事をしないと院内では評判が悪かった。一方で彼らはBの家のメンバーを連れて全国で講演活動をしていた。

K氏もM氏も病院に所属し給与を受け取っている以上、病院の仕事をすべきであり、病院の患者さんに責任を持つべきだ、と思った。しかもその一部はBを頼って来た人たちだ。放置は許されない。そういう彼らとは一緒にはやれない。

結局、U病院は5ヶ月で辞めた。自己最短を更新してしまった私は、精神科医を辞めた。

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