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熊野大学の思い出(2024)

家に帰るまでが遠足、という慣用句(?)がある。もともとは学校行事の締めくくりの訓示にでも使われていたのだろう。祭気分のまま下校して羽目を外してもらっては困る。気を引き締めろと。それがいまでは学校の塀を越え、物事にあたるときには事後処理もふくめ最後まで油断してはならない、といった意味あいで広く用いられるようになった。

僕はそこで、こんなふうに思う。遠足後にまっすぐ帰ってゆける場所があるなら、それでいい。しかし、もし帰るべき場所がないとしたら、どうなってしまうのだろう。あるいは、帰るべき場所をこれから自分で作ってゆかなければならないとしたら。どこが物事の終わりであるかを決めるのが、この自分ただひとりだけなのだとしたら。

これはつまるところ、物語の創作にたずさわる人たちをつねづね悩ませてきたことでもあるのかもしれない。遠足はなんとしても終わらせなければならない。しかし、いったいどんな形で? 落ちの付け方次第で全体の印象はいかようにも変わってしまう。だからこそ、遠足の始まる前から、落としどころ探しの事前工作をはじめることになるのだろう。出発地点が明確であればあるほど、着地もしやすい。かならずしも同じ場所に帰ってくるわけではないけれど、すくなくともそこが定点となり道しるべとなる。

物語の創作者たちは、遠足というものを始まりと終わりからなる枠組みのなかに封じこめるために日々苦心している。もちろん、本当の遠足には、始まりも終わりもないのかもしれない。本当は、家を出てからが遠足なのではなく、家を出る前にはもう遠足は始まっているし、家に帰ってからも遠足は続いている。それは実のところ、とても危険なことなのだ。そして、まさにそれゆえに、普段はだれもそれが遠足だとは思わずにいる。物語という人工的な枠組みを通すことではじめて、遠足は遠足として触知できる形をとり、時が流れはじめ、そこに変化が生まれる。自身の経験を文章の形、物語の形でふりかえるのも、よくあるけじめの付け方のひとつなのだろう。

ところで、表題にある熊野大学というのは、中上健次(1946-1992)という紀州出身の作家が死の二年ほど前に立ちあげた文化運動のことだ。それについてもすこしは触れておかなければならない。

熊野大学は、大学と銘打っているものの、日本で一般に考えられている大学像とはかけ離れている。古くは律令制のころにできた官僚の養成所のことを大学と呼んでいたというけれど、現在の日本においても、入学試験で選ばれた者たちの属する組織といったイメージがつきまとう。そんな「大学」の語感を、熊野大学はことごとく裏切る。むしろ遠回りをして「みんなの」という含みがある「University」というひびきを頼りに中世ヨーロッパの自治運動としての大学の歴史を紐解いてゆくと、中上の思い描いていたものが見えてくるのかもしれない。中上自身は、かつてこんなふうに構想を語っていた。

熊野大学というのは建物も持たないし、入学試験もあるわけじゃないし、卒業なんかも何もないと。つまり志だけでできている。組織っていうのは、分るように、その組織を延命するために、さまざまな仕掛けを作っている。その仕掛けを作っていることによって、どんどん人間の志みたいなものが歪められてしまう、どんどん無くなってしまう。組織のための組織とか、だんだんおかしくなってくるんだけど、そうじゃないんだという所から、組織に対する反組織というかね、反組織に対するさらなる反組織っていう、永久革命みたいなもんですよね。いまの時代に永久革命なんて言っても流行らないと思うんだけど。(中上健次電子全集12)

卒業は死ぬとき、ともいう。中上自身が早くもその第一号となったが、そのこころざしを受けつぐということなのだろうか、熊野大学はいまでも年に一度の夏季セミナーを和歌山県新宮市で開いている。補助金の都合もあるのかないのか、内容が設立者であり名誉新宮市民である中上関連のものになってしまうという嫌いはあるものの、毎年さまざまなこころざしを胸に秘めた人たちがさして中上のことを知るわけでもなく寄せ集められてくるのは確かである。

二〇二四度のセミナーは八月三日(土)の午後に開かれた。「中上健次×大江健三郎」というテーマで、浅田彰、川本直、高澤秀次が計四時間にわたって講演をする形となった。開催に先立ち、長年運営にたずさわってきた中上紀さんが熊野新聞の八月一日号に短いコラムを寄稿している。近年の開催状況について簡潔にまとめられているので、引用しておこう。

熊野大学の夏期セミナーはかつて2泊3日の合宿形式で行われたが、ある時から諸事情で1泊2日になり、やがてコロナ禍による3年間のブランクを経た22年からは合宿形式を取りやめ、名物だった宴会をなくし、各自で宿泊する形となった。1日だけの開催は昨年からだ。

古くからの参加者には合宿形式だったころの熊野大学をなつかしむ人が多い。それはもうすごかった、という。嘘とも本当ともつかない伝説的な話の宝庫になっている。コロナ明けから熊野大学に通いはじめた僕の耳にもそれがまことしやかな断片の形で届き、往時の熱気の一端にほんの一瞬触れられるような気がする。それなりに血の気の多い集まりであったようだ。中上紀さんは次のようにふりかえっている。

人が寄ればトラブルはつきものだ。昔合宿形式だった時は酔っぱらってモノを壊したりして宿に迷惑をかけるやからが時々いた。 だが、宴会後も夜通し飲み語るのは常で、部屋までたどり着けずロビーで寝る聴講生たちの姿は、セミナー3日目の朝の風物詩でもあった。このために毎年通い詰める参加者も多かったはずだ。

内部争いも含め、人が寄れば揉めごとは起こる(昨年度にも僕はそれをひどい形で目の当たりにした)。本気であればあるほど、収拾がつかなくなる。ついには流血沙汰になる。そういうトラブル込みでの、懐の大きな熊野大学。ただ、中上紀さん自身は、そんな往時の姿を単になつかしんでいるわけでもない。全文を引用しないかぎりはうまく伝わらないのだけれど、中上紀さんがコラムを通して言おうとしているのはもうすこし別のところにあるようだ。熊野大学はたしかに大きく姿を変えている。しかし、中上紀さんは、次のように締めくくる。

セミナーの形がどう変わろうと、ここが熊野である限り、熱い心の言葉には命が宿る。

これはある意味、熊野大学はどこにでもある(universalである?)ということでもあるのだろうか。つまり、表面的な遠足をしているときだけが遠足なのではなくて、その前後にも遠足はある。どこで遠足が始まりどこで終わるのかはだれにもわからない。今こうして僕がふりかえりの文章を書いているように、そこにさしあたりの終止符を打とうとするひとりひとりの意志があるなら、その数だけ終わりがあるし始まりがある。「ここが熊野である限り」というのは、中上健次の言葉を借りれば、なんらかのこころざしを持つかぎり、ということでもあるはずだ。いや、別にこころざしなどという大袈裟なものを持ちださなくてもいいのかもしれない。人が寄せ集まれば、トラブルによる流血を伴いつつ芽吹いてきてしまう言葉もあるのだろう。

僕自身は今年、熊野大学の夏季セミナーを聴講したものの、ほとんどのことは忘れてしまった。ずぼらなので、面白かったことだけはかろうじて覚えている。川本直さんの発表「中上健次をクィア・リーディングする」に関しては、時間の都合により途中で打ち切られてしまったのを残念に思った。しかし後日活字化されたものが文芸誌に掲載されることになったようだ。

やはりというか、特筆すべきことはたいてい、遠足の本筋とは関係のないところ、物事のくまへりにあたるところで起こる。記憶力に乏しいこの僕でもいまだに覚えている事件がひとつある。この文章もその事件がなければ決して書きはじめていない。というのも、事件の当事者にとってはあまりにもとるに足らない出来事かもしれず、僕も含めていつかだれの記憶にも残らなくなる。きっと書いてしまえばあまりにどうでもいいことなのだけれど、それでも書かずにいられない。

さて、新宮市の神倉山のふもとには「えんがわ」の名で親しまれている場所がある。用水路にかかった小橋を渡った先の路地にある平屋の古民家だ。この家には、玄関がない。そのかわり、その名の通り大きな濡れ縁があり、そこから直接ガラスの格子戸を開けて勝手に上がりこめるようになっている。鍵はどこにもかかっていない。だれかが暮らしているわけでもない。普段は地元の子らのたまり場になっていることが多いようだ。ユースホステルとしても使われているらしく、ふらりとやってきた若いマレビトたちが束の間の滞在をしてゆくこともあるようだ。今年はそこが熊野大学の夏季セミナーにあわせ、聴講者も自由に使える宿泊場所として開放されることになった。

僕が友人と「えんがわ」をおとずれたのはセミナーの前日にあたる八月二日の午後のことだった。セミナーの聴講者はほかにだれもいなかった。そのかわり、小学生の子供たちがにぎやかな物音を立てているのが遠くからも聞こえてきていた。僕たち見知らぬ大人が座敷に上がりこんできたのに怖気づくでもない。好奇の目で僕たちを見上げ、だれや、という。六人の子供たちがいた。男の子が五人で、女の子は一人。女の子はちゃぶ台の上に夏休みの宿題冊子を広げながら頭を抱えていた。

あー、もう、全然わからん、と女の子はいう。わからんよお。手伝え。すると、出身は大阪だという友人のMさんが、よっしゃ、手伝ったる、とノリよく応じて、ちゃぶ台のむかいに腰をすえた。女の子は国語の読解問題に手を焼いているようだった。小学校三年生むけのもので、コロンブスの卵の逸話をテーマにしていた。文章から適当な言葉を抜き出し、解答文を穴埋めで完成させる問題。Mさんは大学で教鞭をとっている文学の専門家だった。状況としては、かなりオーバースペックなマレビトが助っ人として突然あらわれた形になるだろうか。

僕は後になってMさんの博識なこと、バスケットボールが上手いこと、ドラえもんのように押し入れのなかで寝てしまうことに驚かされることになるけれど、そのときになにより驚かされたのは、逆さからでも文字がすらすら読めてしまうということだった。Mさんは正面で顔をしかめた女の子といっしょに問題文のひとつを読んだあと、言葉巧みに答えを導き出してゆこうとする。ただ、いちいちまわりの邪魔が入って気が散り、文章が頭に入ってこないのか、女の子はすぐに匙を投げようとする。それでもどうにか穴埋めのひとつを終わらせると堪忍袋の緒が切れたように立ちあがり、ほかの子たちのもとに翔けてゆく。とにかく諦めが早かった。そうかと思えば、やがてまたふらりと戻ってきて、神妙な顔でいちおう次の問題にとりかかろうとする。しかし、とにかく集中力がもたない。

勉強が好きか嫌いかでいえば、そこまで好きではなかったのだろう。「コロンブスが立てたものは何ですか」という問いの解答欄に五文字を書き入れる必要があるというだけで、正答である「ゆでたまご」を抜き出してくるかわりに、とりあえず「コロンブス」と書き殴ってしまうようなところがあった。後に聞かされた話では、新宮市は和歌山県内でもとにかく学力が低い。市の教育委員会はそれを恥ずべきこととでも思いこんだのか、自分たちの面目を守るための学力稼ぎのため、今年の小学校の夏休みの始まりを八月一日として、七月末まで生徒を学校に通わせたということだった。

女の子はやがて夏の宿題を諦めてしまった。僕たちは僕たちで子供の邪魔にならないよう裏手の台所にさがり、熊野大学についてのたわいもない雑談をはじめた。初期の熊野大学の参加者にはその後、左翼系の社会運動にたずさわっていった人たちがいるという話、柄谷行人のニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント(NAM)もそのひとつだという話から、なぜそれが失敗したのかという話になった。それがやがて地域通貨とテクノロジーの問題、僕が今考えているのら公務員運動のことに話が及んだとき、突然ゴムボールが投げこまれた。

おい、キャッチボール! という。女の子が痺れを切らした顔でボールを投げかえしてくるのを待っていた。Mさんはまた、よっしゃ、と声をあげた。それで、座敷でのボール遊びが始まった。いま何が重要なのかはだれの目にもあきらかだった。僕はそのときふと、中上が死の間際に「子供会」の思い出を柄谷行人に語っていたことを思い出した。自身がまだ小学生だった1950年代のことを中上は次のようにふりかえっていた。

先生たちも、それこそ初期のソビエトを作ろうみたいな動きが、教育にあった時代ですよ。新しい価値を作りだそうという熱意があった。授業が終わってから子供会というのがあって、楽しかったのです。「路地」の中だから、「路地」というのは学校へ行かない奴が多かったりするから、先生たちが一所懸命出かけてきて、勉強を見てやる。だいたい週に二回か三回ある。そうすると僕らは学校行っているけれど、行かない子供たちが来てワイワイ騒いだり、もちろん勉強してもいいんですけれど、ほとんど騒ぎですね。そのときに「路地」の話好きな人が来て、話を自分で作って話すとか、子供たちで幻燈会をするとか、勝手に芝居を作ってやるとか、いろんなことをやった。そういうことが活発にあった。そういう一番いい時期に、僕はその子供会にいたのです。[…]当時は、あのときの子供会の活動とか、教育というものが、ほんとに価値として掲げられていたんですよ。この子たちに教育を与えなくちゃいけないのだ、教育によって人間は変わりうるんだという、自覚と自信みたいなものがあった。それに対して、大人もみんな真面目に考えていた。(中上健次電子全集 21)

まだこころざしを広く共有することができる時代があった。組織の論理に従うことではなく、こころざしに突き動かされることこそが大人の責任であるような時代があった。そんな時代の熱気こそが今自分がやっている熊野大学の元になっているのだと中上はいう。

その日、夕方になって新宮に到着したほかの友人らを迎えに行くために僕たちは駅にむかった。その足で飲み屋に流れこみ、熊野三山や太平洋といった地酒を味わうつもりでいた。また、城下町にある丹鶴商店街ではタンカクフライデナイトという祭が催されるということだったから、酔いに任せて市中を歩きまわるつもりでいた。そこで「えんがわ」をそっと後にして、用水路の小橋を渡った。すると、女の子の声がした。

どこへ行く、という。この私をさしおいて、という顔で、用水路のむこう側の欄干から身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。橋を越えてくることはなかった。飲み屋さん、と答えると、女の子は眉をひそめ、首を傾げる。また会えるよ、と言うと「どこで」という。タンカクフライデナイトで。「どこ、それ?」丹鶴商店街。「どこなん?」多分、スーパーオークワの近くかな。「どこ? わからん。」うーん。城下町のほうだと思う。「城下町?」でも、まあ、とにかくそこで会おう。「でも、どこなの? わからんよ。」大丈夫、だれかに聞いたらわかるから。「わからんよお。」大丈夫、大丈夫。また会えるから。また、会おう。また。そう言って僕たちはなかば強引に歩きはじめた。しばらくしてふりかえると、まだこちらを見ていた。

いまになって、不真面目な発言をしてしまった、と思う。いったいなにが「大丈夫」だったのだろう。すくなくとも僕は、けっきょくその子と二度と会うことはなかった。だれも城下町に行かなかった。タンカクフライデナイトのことはすっかり忘れたまま飲み屋に入り浸っていた。きっと、女の子も、わざわざ城下町まで行くことはなかったはずだ。いまとなっては、本当にそのような祭があったのかどうかさえ疑わしい。しかし、もし本当にあったとしたら? そして、そこで本当に女の子が僕たちのことを待っていたとしたら。

家に帰るまでが遠足、という慣用句がある。僕たちは夜更けに酔った足でかろうじて「えんがわ」に辿り着き、そのまま昏倒するように一泊することになったが、そのときにはもう子供たちの姿も見当たらなくなっていた。子供たちはどこに帰ったのだろうか。帰るべき場所はあったのだろうか。そして、そのときぼくたちは本当にうまく帰ることができていたのだろうか。

コロンブスはといえば、まわりを巧妙に言いくるめて冒険に発つことができた。しかしその後、無事に遠足から帰ってくることができたのだったか、できなかったのだったか。その翌日になって、熊野大学の夏季セミナーがはじまったとき、僕の頭はコロンブスのことでいっぱいだった。


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