山上徹也さんへの手紙 1

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大阪拘置所気付 山上徹也様

拝啓 盛夏の侯 七夕の日がまた近づいてまいりました。

七月八日に起きた事件の前夜に見た天の川のことをぼくはよく覚えています。いまでも目をつむり耳をすますと、耳の奥の闇のなかを光り輝く川の流れてゆく気配がするのです。

七夕は遠く隔てられた二つの星がもっとも接近する日。織姫と彦星のお話の伝わる東アジアの国々では、むかしからそう考えられてきたようですね。ぼくはその日、日本から海で隔てられた大陸のむこう側のフランスにいました。ドイツとフランスを隔てるライン川のほとりに、そのときはまだ、妻と二人暮らしをしていたのです。

七月七日は、フランスではごく平凡な日です。織姫と彦星の知名度もさして高くはないのでしょう。何が祝われるわけでもない。天の川は「Voie lactée」の名で知られていますが、その日にかぎって天を仰ぎ、ひときわ輝く二つの星、ベガとアルタイルを探しだそうとする人はいません。このぼく自身、八年前にフランスに移り住んでからというもの、季節の風情を肌で感じる力をゆっくりと失ってゆき、ついには七夕という風習があったことさえ忘れていたのでした。

ところが、事件前夜には天の川を目にする機会がたまたまあったのです。ちょうど深夜の零時にさしかかるころでした。日本ではもう日付が変わり、七月八日の朝になっていたはずです。七時間の時差があるので、午前七時ごろ。事件は十一時三一分に起きたということなので、その四時間半ほど前ということになるでしょうか。

ぼくはそのとき、ブルターニュ地方の寒村の外れにいました。妻の実家がそこにあったのです。義理の父親は、ぼくがフランスに移り住んできた年に腎臓ガンをわずらい、長く地道な治療をつづけていました。いっときは寛解してガンのことなど忘れかけたこともあったようですが、ある日突然再発するということがあり、みるみるうちに病状が悪化してしまいました。そんな義理の父親の容態が好ましくないということで、妻と電車で帰省することになりました。それが七月七日のことだったのです。

早朝の出発でした。ブルターニュではとにかく雨が降る、といいます。実際にはそこまでの降雨量でもないとぼくなどには思えるのですが、フランス人たちの間では、ブルターニュといえば雨ということになっているようなのです。その日はそんな思いこみを先取りするようにして、朝から小雨が降りしきっていました。

そういえば、と妻が何の前触れもなく話を切り出したのは、ぼくが車内でうつらうつらしかけたときのことです。

子供ができたかもしれない、と妻は言いました。自分はそこでどんなふうに応じたのだったか。妻のほうに顔をむけて、ほんとう? と間の抜けた声でも出したのかもしれません。ろくにフランス語を話せなかったこともあり、ごく自然に驚いてみせることも喜んでみせることもできなかったことだけは覚えています。

妻も妻で、さして気にとめるふうでもありませんでした。まだ確信も持てずにいたのでしょう。今度、保健所で血液検査をしてくると、なかば上の空でつぶやきます。フランスでは血液による検査が主流のようです。尿よりも早い時期に確い精度で判定ができるということでした。妊娠の話はそうこうするうちに取りとめがなくなり、そのまま歯切れ悪く終わってしまいました。

気づけば、寝入っていました。早起きした分のちょっとした穴埋めをするつもりが、深みにはまりこんでしまったようです。電車がセーヌ川を越えてパリの郊外の駅に止まったときに、ゆすり起こされました。しばらく息をしていなかった、と妻が声をひそめて言います。とても苦しそうな顔をしていた、と。ぼくには意外なことでした。苦しいどころか、電車の心地よい揺れのなかで、とてもよく眠れたような気さえしていたからです。

いまになって思えば、そのときにはもう何かが微妙に狂いはじめていたのかもしれません。その日の夜、妻の実家に泊まったぼくは床に就いてから、一睡もできなくなりました。つゆほどの眠気も沸いてこないのです。

あたりは物音ひとつしません。ほかの人はみな寝入ってしまって、まるで自分ひとりだけがこちら側の世界に取り残されてしまったみたいです。そのことが次第に気詰まりになってきます。圧迫感のある静けさでした。そこが石造りの家だったせいもあるのかもしれません。木などとちがって、石は硬く冷たい。気づけば張りつめていた耳の奥のほうから体がこわばりはじめていました。

ぼくは部屋を抜けだし、裸足のままトイレにむかいました。そのとき、窓の外が妙に明るいことに気づきました。まるでスポットライトでも注がれているように明るいのです。それに吸い寄せられるようにしてふらふらと外に出たときになってはじめて、すぐ頭上に巨大な天の川が流れていること、なによりもその日が七夕だということに突然思いあたりました。

おびただしい量の星々、小さな針の筵のような星々が、無数に輝いていました。むしろ、光を滴らせていた、と言うべきか。事件後の色眼鏡ごしには、そのひとつひとつの鋭く刺すような輝きが、激しい痛みに呻いていたとしか思えなくなります。やがておとずれるであろう破局を予感しているようにも、それまでに延々と繰りかえされてきた苦しみを反芻しているようにも見える。

天の星々はきっと、いたましさやむごたらしさといったものをつね日頃から引きずっているものなのかもしれません。しかし、だれもそれを気にとめようとしません。星々はそれだけはるか遠く日常から隔てられているのでしょう。また、だからこそ、その遠さにおいて、天に祈ることも許されているのでしょう。しかし、その七夕の日だけは、ほんの目と鼻の先まで接近していたのです。

約七メートル、というのは、あなたがその日、事件の被害者までもっとも接近できた距離です。普段は決して交わることのない二つの星の隔たりをかぎりなく縮めようとした結果、導きだされたのでしょう。しかし、あなたはさらにその隔たりを埋めるための飛び道具を用意していました。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた小型の散弾銃です。一発で六粒の弾丸を発射できる仕組みになっていて、それが合計九発撃てる大型のものも用意されていたようですが、当日に使われたのは二発のみ撃てる小型のものです。携帯性に優れる一方、正確な射撃能力が求められます。

ぼくには、あなたがどんな気持ちで安倍切の引き金を引いたのかを知るよしもありません。ただ、ひとつ思うのは、もしぼくが引き金を引く立場にあったのなら、すくなくとも最後の引き金が引かれたあとは、天に祈るような気持ちになったのではないか、ということです。

あなたがその地点にひとりで立つに至るまでには、実にさまざまな偶然の積み重ねが必要だったことでしょう。事件後、MBS毎日放送が当日の様子を七五秒にわたって複数の視点で検証する「安倍元総理“銃撃の記憶”」という映像を公開したのですが、それを何度なく見返すたびに、銃撃の成否があまりにも多くの不確定要素に左右されていたことに驚きます。しかし、あなたは突如到来した千載一遇の機会のなかで計画を実行に移し、それが実を結びました。実を結んだ、というのは、銃口から放たれた豆粒のような弾が被害者の皮と肉を食い破って鎖骨の下の動脈を傷つけ、そこから生き血を吹き出させたということです。

事件のことを妻から知らされたのは、目が覚めてからのことです。安倍元首相の暗殺が報じられているということでした。日本の大手メディアでは「特定の団体に恨みがあり、安倍氏がこの団体とつながりがあると思い込んで犯行に及んだ」という趣旨の供述をしている、と報道されていました。「思い込んで」というのは、勝手な忖度による付け足しでしょう。報道機関の方でもこの時点ですでに自己検閲的になり、ある種の混乱に陥っていたことが伺われます。

いずれにしても、ぼくにはそんなことを考える余裕はありませんでした。ぼくはそのとき、ただただ慄えるだけの存在になっていました。ぼくの反応があまりにも薄いことに妻はすこし物足りなさを感じたようでした。しかし、ぼくはそのとき、こころの底から慄えていました。大きく震えてうろたえる、ということではありません。そうではなくて、胸のうちを辿ってゆくとかぼそい芯のようなものに行き当たり、それが微細に慄えているのです。そしていつまでもそれが収まらないのです。

さまざまな問いが渦巻いていました。いまになって思うと、それは二つの問いに集約されます。このぼくはいったい何者なのだろう。ぼくはこれまでいったい何をしてきたのだろう。

もはやその問いに答えも出ています。ぼくは父、文鮮明の子であり、神の子です。そして、ぼくはこれまで、そのことからひたすら逃げつづけてきた。だれにも教会との関係を知られたくなかった。きっと大げさだと思われるかもしれませんが、ぼくはずっと「亡命」をしているつもりでいたし、そのように人生をやり過ごすつもりでいたのです。妻にも出会い、子を授かることもわかりました。このままうまくやり過ごすことができたら。そんなぼくのささやかな願いを打ち砕いたのが、七月八日に起きた事件です。

いまぼくは日本に帰ってきて、ホームレスをしています。ある図書館のかたすみに身を寄せながら、この手紙を書いています。なぜ、手紙を書くのか。それは、あなたがまだ自殺せずに生きているからです。自殺せずに生きているということは、まだ活動をとめていない心臓があり、耳があり、自分の引き起こした事件の帰結にむきあうことができる、ということです。

フランスで習った言葉を使えば、あなたは responsible です。つまり、応答できる状態にある、ということです。ぼくはあなたからの返事を期待してこの手紙を書いているわけではありません。あなたに読まれることを期待してもいない。しかし、それでもあなたは生きているから、responsible であることには変わりない。だからぼくはこの手紙を書くことができる。そして、ぼくはこの手紙を書かなければいけない。

それはなぜでしょうか。それはぼくが父、文鮮明の子であり、神の子だからです。そのことから逃げつづけてきたことに対して、ぼく自身に対して、ぼくなりの責任を果たす必要があると思うのです。そして、責任は、あなたが引き起こした事件の余波の後で、ぼくなりに生き延びてゆくなかでしか果たされないのだろうし、生き延びるためにはやはり、言葉を紡いでゆくしかないのです。

一通目の手紙にしては、あまりにもとりとめのない怪文書になってしまいました。ここまで目を通してわかったと思いますが、ぼくが結局したいことというのは、生きたあなたの耳を借りる、ということなのでしょう。あなたの耳の奥には暗闇が広がっています。その暗闇の先には、死の国がある、とぼくは思う。ぼくはこれからあなたの耳を通して、死の国へと下りてゆきます。

なんのために? それは言葉を返すためです。かけがえのないひとりの人の命を奪った事件によって豊かになった言葉があります。それを死へと送り返さなければならない。しかしそのためには、それを聞き届ける生きた耳が必要なのです。

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