すべての「生きづらい」が生きやすいといいな

生きづらい、という言葉が好きだ。

当たり前みたいなことを、当たり前じゃないよってちゃんと認めている感じがするので。

いつぐらいからか、この言葉をよく耳にするようになって、その時私はひどくホッとした。それは、「生きる」なんてすごく基本的な、周りの人達が当たり前に出来ていることが難しいなぁ、辛いなって、感じることが他の人にもあるんだと思えたからだ。色んな人に届いて欲しい言葉だと、私は思う。

 別に人類総ネガティブ化計画とかを企てている訳ではない。ただ、「つらい」に分類されて然るべき気持ちを宙ぶらりんにしておくのはとてもしんどいだろうなと思うのだ。つらいことをつらいと認めるのは、自分の感情に対処していくために大切だ。もちろん、もしかしたら「つらい」かも知れないことをギリギリのラインで「大丈夫」だとラベリングするのもひとつの手だ。あんまり「つらい」ことが増えてしまうとパンクしてしまうし、自分の状態をかえりみながら基準を調整するのは優れたやり方だと思う。でも、あまりにも自分に嘘をつくのはやっぱりよくない。「いやこれはつらいわ」と感じることがあるのは、生き物である以上しょうがないし、つらいと感じることもあながちネガティブな効果ばかりではない。そう思う理由は後で書く。

また、「生きづらいの? じゃあそのうち死ぬの?」という疑問ってか懸念が生まれることもあるかも知れないけど、それも私の意見としてはちょっと違う。そりゃ生きづらさが1人の中であまりにも多様になって多重になって膨らんでその人を埋めつくしてしまったら、死へと向かってしまうかもしれないけど、これはそこへ至る長い道のりの、途中で立ち止まってのSOSだ。死ぬことを決めている人は、きっともう、つらいなんて言わない。誰かに助けを求めたりしない。言うとしたら、「ずっと、生きるのが【つらかった】」じゃないだろうか。

生きなきゃと思っているから、生きるのに障害がある状態をつらいと思っている。生きたいと思っている人だけが、生きづらいと感じている。

「頑張ってるんだけど今ちょっときついので、これまでよりもちょっとゆっくり進みます」、でもあるかも知れない。

生きるのがつらい、と思うことがある。でもそう思う時もその人は生きている。辛いのに生きている。辛いのにそれをしている。他の、その人を快くする何かのために或いは無意識でその人は、頑張って、生き続けている。

先に書いたけど、つらいという感情の効果には、事後のものだけど、まあまあ良いものもある。つらい、という訴えを、「つらいのに本当によく頑張ってるな」と認めることに繋げられる感性が、幸いなことに存在するのだ。

生きづらいと感じることは、自分が今頑張っているということを自分で認めてあげるために必要な1歩なんじゃないかと、思ったりしている。

だってね、生きるのって、大変なことだよ。社会のシステムはたくさんの人が一緒に生きていくために複雑だし、1人ひとつ常識やら責任やら背負わされてやらなければならないことはたくさんだし、他の人とも上手くやっていかなくちゃならない。その上手くやっていくということがどういうことかって考え出しても正解は多様で果てしなくて、どうしたらいいか分からない。

ほんと生きづらい。なのにここに居続けてるなんて、よくやってんなあ。頑張ってる。私たちすごく頑張ってる。生きてる。

そんな声を、誰もが躊躇わず上げられたらいいな、と思う。

ゆっくりでいいから、またいつか必ず足は動くから、立ち止まって、つらいと言って、まだ、ここにいたい。

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