頑張らない自分に何も期待しない。
頑張るってなんだ?
頑張るって何だろう。
私はずっと頑張ってきたけれど、いったい何に頑張ってきたんだろうか。
子供のため?夫のため?親のため?
はたまた会社のため?上司のため?
少なくとも自分の為ではなかったような。
離婚を2回した時に、これまでの生き方ではいけない。
と思って、私は心の中の自分に問いかけた。
「これからどうしたい?」
「もう頑張りたくない。」
私の答えはこうだった。
もう頑張りたくない。
それは「無理をしたくない」「誰かの期待に答えたくない」という事でもある。
つまり、私はこれまで無理をして、誰かの期待に答えてきた。
頑張るっていうのは、頑(固)な程に(気を)張る。
って書くぐらいだから、私はずっと気張って何かしらの忍耐をしてきたのだろうか。
分からないけれど、思い返すと辛いことが多いのだから、きっとそうなんだろうな。
そこから、私の頑張らない人生は始まる。
私に多くを求めても無駄だぞ?
例えば地域の集まりの場で、早く帰りたいとか、もう抜けたいとか、そういう事も言えなかった女である。
周りからしたら「ひなたちゃんはこっちから言わない限り自分から帰らない人」という存在だから重宝してたのかもしれないな。
でも私はもう、そんな都合のいい女ではないから。
帰りたい時は子供連れてさっさと帰ります。
また例えば、付き合う男の人がいたとして、今日はセックスしたくなくても求められれば仕方なく相手をしていた女でもある。
男からしたら「どうせヤらせてくれる都合のいい女」だったんだろう。
でも私はもう、簡単に服を脱がない。
したくない日はしない。
耐えた先にある「何か」に期待しない
結局頑張るっていう言葉には、我慢が含まれている。
我慢して我慢して、その先に一体何があるんだろうか。
「親を思労る美しい娘」「夫に尽くす優しい妻」という世間からの勲章なんだろうか。
でもそれって何の役に立つだろう。
いい妻、いい娘として、我慢をしてきた私からすると、その先にあるのは相手の一方的な支配欲が満たされる事だけであった。
私という存在が、夫や親の為にあるという感じ。
我慢を続けて耐え終わった頃には、きっと心を失った自分がいるはず。
すでにボロボロになった後で、時間が経つほど取り戻せない。
そうなる前に、気づいてよかった。
私は私に、耐える事を求めないし、その先の何かに期待をするのをやめたんだ。
期待しない私は肩の力が抜けてゆるゆる。
頑張っていた理由は、なんとなく「頑張ったらみんなから認めてもらえるだろう」という勝手な思惑があったからである。
頑張らないと認めてもらえない私は、いつでも頑張っていた。
でもそうじゃなかったんだと気づいた今、もう私に頑張る意味はない。
夫や親から何を言われても、私は頑張らない。
だって、頑張っても辛くなるだけだったから。
頑張る先に何も期待しない私は、現状にも期待をしなくなった。
あの人はこう動いてくれるだろう、社会はこうなっていくだろう、という期待は一切ない。
全ては自分次第、自己責任であると分かった以上、決して耐える事を選択しなくてもある程度幸せに生きていけるのである。
幸せとは、思っていた程明るくキラキラした世界ではないけれど、期待を下げると幸福度は確実に上がっていく。
男にも親にも社会にも期待しない私は、もう全てのシーンに力を入れなくなり、ゆるゆるな人生である。
子供たちも、頑張らなくていいよ。
4人の可愛い子供達にも、あまり「頑張れ」と言わないようにしている。
彼らが自分で選択した事でない限り、頑張る必要はないのだ。
毎日学校に行くとか、できるだけ多くの同級生と仲良くするとか、苦手な食べ物を無理して食べるとか、そういう頑張りを私は子供に求めない。
頑張らせないと、甘やかすとは意味が違う。
オンオフを使い分け、自己確立のために無駄に頑張り続けた私と、同じ道を行ってほしくないのだ。
頑張る事も素晴らしいが、途中で「頑張るのやーめた」と言える人生であって欲しい。
だってその方が、きっと幸せだよ。
自分という人間は、本当は何も頑張らなくても、元々ちゃんとした人間なのだから。
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