H2-314 カケラ「生贄第一号」のコメントについて
youtubeにアップしたH2-314 カケラ「生贄第一号」に頂いたコメントの中で、富竹さんの「嫌な事件だったね…」というセリフに言及するものがありました。
そこでこのセリフに少し違和感が。
「あれ?富竹さんにとってこの事件って嫌な事件だったの??」
もちろん一般的には嫌な事件に違いないのですが、なんと言っても待望のモルモット第一号をゲットできた事件です。
雛見沢症候群研究の前進という結果を見れば、”東京”に属する富竹さんにとっては嫌な印象だけではないはずです。
なのに「嫌な事件だったね」、か。
もしかして研究者ではない富竹さんは現場を見て引いちゃったのかな。
「生贄第二号」のカケラも収録済のひなぎくなので少し先の情報も出してしまうかもなのですが、研究者である入江先生ですら葛藤する実験内容。
ましてや富竹さんにはどれほど残酷に映ったのでしょうか。
引くと同時に、研究者と自分の間には越えられない溝があることを感じるきっかけになった可能性もあります。
好きなコンテンツに鬼課金する人の気持ちが一般人には理解できないように、こんなに残酷な人体実験を本当にする必要があるのだろうかと富竹さんは思ったのかも知れないし、そこまでして知りたいという気持ちを持つ鷹野さんや入江先生を少し不気味に感じたかも知れない。
もしかしてここから両者の間に少しぎこちなさが生まれたりしたのかな。
最初に入江先生と富竹さんの和気藹々とした雰囲気を描いていたのも、今後徐々に強まる不協和音との高低差を表現するための描写だったのかも…とか深読みしてしまいます。
しかも富竹さんは鷹野さんのことが好きなのでそっちのジレンマも。
ただでさえ繊細そうな富竹さんはいろいろ思い悩むことになりそう。
そういうことがあったとしたら、確かに工事現場監督の事件は富竹さんにとっても間違いなく「嫌な事件」だったに違いないです。
…といろいろな感想が湧いたのですが、たった数行のコメントにここまでの文章量で返すのはちょっとアレなのでnoteにアップしてみました。
ところで。
カケラ「生贄第二号」を見て思ったのですが、この実験内容ってそんなに残酷かな。
「死んじゃうんだから残酷に違いない!」とか「自分だったら絶対にされたくない!」とかそういう、そらそうやろ的な脳死意見は置いといて。「残酷じゃない」と「されても良い」を混同する人がたまにいるのなんで?
人の命を奪う実験なのでそこに葛藤を感じるのは当然分かるのですが、残酷な内容であることを強調するためであろう、”生きたままで”云々の内容って麻酔があれば全然平気じゃない?と思っちゃって。
麻酔なしなら確かに残酷すぎる内容ではありますが。
そういえば中国の高級料理の中に、生きたサルの脳みそを食べるという料理があるとかないとか。
中学時代、中国から来たクラスメイトが食べたことあるって話していたんだけどあれって本当だったのかな。
人間には到底出来ないことをサルには出来ちゃうなんてやっぱり人間は勝手だなという気持ちと、自分と近しい存在であるヒトに出来ないのは感情として当然かという気持ちとが入り混じります。
(人間で想像したらなぜか無性に多重人格サイコが読みたくなりました)
私はサルにもしたくないし食べたいとも思わないけれど、そこのラインは人それぞれなので自分のラインを強要するつもりはないし、大人に連れられてサルを食べたその子を残酷だとは思わないし、非難する気持ちも全くない。
なんなら料理が提供された場に居合わせたなら私も多分食べると思う。
だってもう出ちゃってるし。
考案した人や興味本位で注文しちゃう人のことは残酷だとは思うけど。
非難するつもりはない。
無くなって欲しいメニューではあるけれども。
とはいえ屠殺して取り出した羊の脳みそは葛藤なく普通に食べられるし、私が食への探求心がものすごい人だったならあるいはヒトのものでさえ生きたまま食べてみたいと思うかもしれない。
肉が好きな人、食べられない人、食べたくない人。
色々いるけど自分の中だけで完結する分にはどんなスタンスでも良いと思う。
もちろんそのために人に迷惑をかけることは絶対にしたくないしして欲しくないけど、そうしてでも得たい気持ちがあること自体は理解できなくもない。
人間にしないのは法律ガーとか当然ダーとかはまた別のお話。
現実的な結論を導く場なら常識を引っ張り出して正論で語るのが正解なのだけれど、可能性を模索する自由な思考の場にそういうのを持ち出すのは無粋ってもんです😇
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