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傷つけない。

人を傷つけない笑いとはなにか

上記のテーマで、わたしが大好きな女性芸人のAマッソについて、ずっと書こうとしていた。でも、何年も書けなかった。

女性芸人といえば、

  • 「女の敵は女」とばかりに、「女が女をディスったり、からかったりする」ネタ

  • 男性アイドルに「キャー!」と言う要員

って頃があった。
そうじゃない、清水ミチコさん、友近さん、ハイヒールさん、やすともさんなんかもいたけど。この人たちはほんものだ、芸で勝負している、と思う。

わたしはパターン化された「女芸人」にモヤモヤしていた。
「女の敵は女」ってなんやねん。そんなんで女の私らが喜んでたら、ミソジニーたちの思うつぼや。女が連帯しないでどうする。
ってね。

そんなことを思っていたころ、「笑けずり」という番組で、Aマッソを知った。彼女らがやっていたのは、「女の敵は女」じゃなかったとわたしは感じた。ちょっとそれまでの女芸人ステレオタイプとは角度が違うな、と思ったんだ。

「マンホールの裏には、この世で一番美しいものが描かれているって知っているか」
「それってまさか・・・」
「檀れいや!」

この部分にすごく笑った。「この世で一番美しいもの=檀れい」って「発想」が素晴らしいと感じた。

そのあと、当時の大河ドラマ「平清盛」で共演していた檀れいさんと松田聖子さんの不仲説をネタにしていた。
(この部分は、「女の敵は女」になるのかもしれないけど。)

マンホールの裏に描かれたこの世で一番美しいもの=檀れいが、表に描かれた松田聖子を「しばきたい」と思っていて、
表に描かれた松田聖子も、裏に描かれた檀れいを「しばきたい」と思っていて、
お互いに「しばきたい」表と裏がいるので、マンホールの蓋が、くるくるひっくり返る、というネタだった。

「いや、これを見たら、檀れいさんと松田聖子さんは傷つくでしょ」
そういうこともあるだろう。それは否定しない。

でも、従来の「こんな、あざと女子がいたんですよ~笑」っていうので笑いをとるのとは、角度が全然ちがうと思いませんか。

マンホールの表と裏に松田聖子と檀れいが描かれているって。
「しばきたい」からくるくるひっくり返るって。
すごい発想だと思う。

「Aマッソなら、いまの女芸人ステレオタイプの風潮に風穴を開けてくれるのではないか」
わたしは彼女たちに過剰な期待を抱いて、熱く応援してきた。

そう、過剰な期待であった。

数年前、Aマッソは大坂なおみ選手に対する、差別発言をした。

「大坂なおみに必要なものは~?」
「漂白剤!」

これには、心底がっかりした。
でも、Aマッソを嫌いになることがわたしにはできなかった。

Aマッソは公式に謝罪した。もうこういう発言はしないでほしい。彼女たちが心から反省しているかどうかは、正直わたしにはわからない。でも信じたい気持ちが勝った。

それは、Aマッソの加納さんの発言(ヒコロヒーさんとのラジオ)や、コラムでの文章を、信じたい気持ちである。

コントで迷う事がある。医者を演じることはつまり、女医を演じることになってしまう。意味合いが大きく変わってくるのだが、女が演じるのだから当然だ。そんな当たり前を、うまく咀嚼できない。私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ。

第2回「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」|何言うてんねん

「医者を演じることはつまり、女医を演じることになってしまう」
そうなんだ。「女」っていうことで、「医者」にいっこ意味合いがのっかってしまうんだ。

ボーヴォワールは『第二の性』で、こう言った。

人は女に生まれない。女になるのだ

『第二の性』ボーヴォワール|百科事典マイペディア

加納さんも、「女であることの第三者性」に悩んでいたんだ。このコラムを読んでわたしはそう感じた。そして加納さんを信じよう、と思っている。

先ほど、「芸で勝負している」と言った友近さんは、この「女であることの第三者性」を超越している稀有な人だと思う。

友近さんの演じるキャラクターに、西尾一男というおっさんがいる。

「おっさん」を完璧に演じている友近さん。

友近さんも、白衣を着て医者をやろうとすれば、「女医」になるだろう。
しかし、彼女はそんなことに悩んでいないようである。そういう悩みとは次元が違うところに立っているひとだ。
女性芸人特集の番組でのインタビューも、悩んでいない様子だった。粛々とじぶんのやりたいことをやるだけ、そんな職人性を彼女に感じる。かっこいい。

しかし、悩む加納さんも素敵だとわたしは思う。誠実に悩んでいると感じる。そういうことを考えている彼女の作るネタがわたしは好きだ。

「進路相談」というネタ。ここでも「女であること」のジレンマを笑いにしている。


大坂なおみ選手に対する差別発言が口から出るということは、彼女たちの意識に差別意識があるからだろう。

一度差別発言をしたから、Aマッソを絶対に許さない。という人もいるだろう。

たとえ、差別意識を持っていても、大坂なおみ選手の件で、炎上しまくったときに、「ああ、悪かったな」とAマッソのふたりが反省したと信じたい。

女医の件であんなに悩んだ加納さん。ひとの痛みがまったくわからないひとではない筈だ。性懲りもなく、まだ彼女たちを信じている自分がいる。

そんな彼女たち。女性芸人No.1決定戦・THE Wに今年も決勝に上がってきた。

昨年、一昨年の「映像漫才」は痛快だった。よくぞやった!と感じた。

そして、今年。「面接」のネタ。見た目で評価してほしくないからと、箱の中から顔だけ出して面接を受ける、村上さん。
箱ごと疾走する村上さんに心底笑った。

時代を切り取るのがAマッソ。「いいぞ、もっとやれ!」

傷つけない笑いは可能か?

ずっと考え続けてきた、「人を傷つけない笑いとはなにか」と、女性芸人や、女性同士の足の引っ張り合いや、女性の第三者性、Aマッソの問題。

わたしの出した結論は、「人を傷つけない笑い」は不可能である。ということ。

なぜなら、傷つくかどうかは、傷つけられた側の主観であるから。ひとりひとりの主観に配慮したら、なんにもいえないでしょう。

そもそも、「人を傷つけないコミュニケーション」こそが正しいと思えなくなった。ここでは言及しないが、最近身近で目撃したできごとから、そう思うようになった。

傷つけあってもいい。

差別意識があり、差別発言をしてしまい、失敗することも人生にはある。わたしもいっぱい失敗した。

差別用語を徹底的に排除し、人を傷つけないコミュニケーションを追及して先鋭化した社会は、人々にとってほんとうに生きやすいのだろうか。

あらゆる可能性を排除することにより、かえって、差別や格差などの問題を見えにくくしてやしないだろうか。

「優しい」

わたしはお笑いとラジオが好きだ。

絶対聴いているラジオは三四郎のオールナイトニッポン0、ハライチのターン。

最初に三四郎のラジオを聴き始めたきっかけは、バカリズムのオールナイトニッポンを聴いてて、小宮さんのエピソードが出てきたから。

バカリズムさんと一緒にキャバクラに行った小宮さん。キャバ嬢の方に失礼なことを言われたので、反論した、というエピソードをバカリズムさんが話していた。

そこから、「まじめな人なんだな。あと優しいひとなんだな」って感想を持って、三四郎のオールナイトニッポン0を聴き始めた。

三四郎、ハライチのラジオは「優しい」。そう思う。

50代くらいの芸人さんのラジオは、「ブスが~」というワードが出てくることや毒が多かった。寝落ち用に聴くにはつらくて適さなかった。

三四郎、ハライチ、アラサー・アラフォー世代の彼らのラジオは、「優しい」。
そう思う。

ブスというワードが全然でてこないわけじゃないと思う。岩井さんは毒っ気もある人だ。
言葉そのものはそんなに重要じゃないんだよ。
うまく言えないけど、わたしの主観だけど、彼らの人間性が好きなんだよ。

また出てきた、主観。

結論をまとめようとしたけど、散漫な文章になってしまった。
「優しさ」と「笑い」。「女性芸人」と「女性の第三者性」。
これからも考え続けていきたい。


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