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醤油、キャベツ、青い海と白い灯台

駅を出たら、ほのかに潮が香る。
東に歩けば、醤油の香ばしさと微かな酸味が鼻をつく。

千葉の東端、銚子は、
日本でも名の知れた港町で、首都からも遠からず、しかし寂しさを隠しきれない、でも諦めきれない、そんな町。

ぬれ煎餅で一躍有名になった銚子電鉄を抱えるも、ミリタリ系アニメ作品で話題となりアンコウという力ある名産品を掲げる大洗には遅れをとり、ましてや東海道という地の利に加えて町おこしにも大成功を収めてしまった沼津とは比べ物にもならない。

水族館は廃墟となっても、きっと私が愛すのは銚子の方だ。

廃墟となった水族館

銚子半島は銚子駅から四方5km程度で収まる範囲で、その全てが概ね徒歩圏内と言える。
徒歩旅は良い。いやでもその土地の名産品が分かる。長野や甲府の盆地の連綿としたリンゴやブドウ畑には叶わないにせよ、きっとここはキャベツがよく獲れるのだなと分かる。

キャベツ畑

5〜6年前は「新幹線には乗るな。鈍行に乗れ。土地の連続性を感じろ。」などと言っていたが、現在は、全て歩かねば本質的な地域柄を知ることはできないと思っている。
きっと10年後には、あらゆる土地は住まねば判らぬと言っている。

そうは言っても、行きしなでバスに追い抜かれ、帰路はこれに乗り合わせる私をどうか赦してほしい。

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曇天の海は灰色で、晴れ間が見えれば青くなる。
海の青は空の青が反射しているだとか、空の青は海のそれが反射しているだとか、それらは全くの迷信だ。片方はレイリー散乱で、片方は吸収率の問題だと理解しつつも、空の青と海の青は確かに連動している。

曇天の海
晴天の海

きっと光量の問題か、一部は本当に反射なのだろう。でも晴天よりも適度な曇りの方が照度は高いと言うな、と考えてから、どうでもいいかと諦める。
半球の1%どころか0.1%も見えてない癖に「地球の丸く見える丘」という名が自然と受け入れられるこの星では、そこまでの思考は求められない。

あるいは、そんな野暮な考えをさらって行くほど、一刻一刻経るごとに鮮やかになりゆく太平洋は美しい。シン・エヴァにおいてセカンドインパクトにより汚染(もしくは浄化)された赤い海が、我々のよく知る色に変化するシーンには何か心の奥底を刺激するものがあるが、それに近いものがある。

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タワーや時計塔、灯台といったランドマークは各地で観光名所として挙げられるが、こういうものには全くと言っていいほど登らない。銚子にも犬吠埼灯台と銚子ポートタワーがあるが、これらも岬と共に写真に収まるのみで立ち去ることにした。

犬吠埼灯台

京都タワーは新幹線の車窓から、京都駅を出てからチラリと見える程度で良いし、きちんと楽しむにも京都駅ビルの空中回廊から眺めれば良い。スカイツリーに至っては押上に出向いてはいけない。浅草や錦糸町から望むに留まるべきだ。

大空にそびえる塔には心惹かれるが、あくまでもその姿、在り方に魅力を感じるのであって、同じ目線で同じ視野を持ちたいと思っているわけではない。故に多くの人は「高いね」「景色が良いね」といったありきたりな感想でお茶を濁す。

「憧れは理解から最も遠い感情」で、それでも「この人生って高い高い塔の上の方から心ってやつを一本垂らして」誰かが登って来るのを待つのが人間ってヤツなんだよな、としみじみと思う。

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一人旅は良い。特に、銚子のような小さくも自然とに溢れる土地は良い。かつて栄え、下り坂にある町は良い。

上り調子の内は何をやっても成功するものだ。潮目が変わる時にこそ、選択に重みが生まれる。
成長段階を越え、老いに一歩踏み入れた我々は、何においても潮時を見極める必要がある。

人間に溢れ、どこにでも居場所があり、しかし経済に守られているに過ぎない東京では、面と向かって自分の選択に向き合えない。
観光客としてしか存在できず、それでも自然の中に確かに居場所を見つけられる、そんな地に身を置くこと、それが一人旅だ。

銚子の猫


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